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かつて光り輝いていた「反権力」は、なぜカッコ悪くなったのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.695

特集  かつて光り輝いていた「反権力」は、なぜカッコ悪くなったのか
〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第10回)


陰謀論というと、どちらかといえば「右派」の人がはまりやすいとマスメディアでは報じられてきました。たしかに右派陰謀論はたくさんあります。最近だと、ディープステートという世界的な秘密組織があり、ドナルド・トランプはそれと戦う英雄であるという謎の陰謀論をうち出しているQアノンが典型的でしょう。Qアノンの流れは日本にもあり、以下の記事が(読んでいると頭がクラクラしますが)詳しい。

とはいえ、陰謀論は右派の専売特許というわけではありません。マスメディアではあまり指摘されませんが、左派を中心に盛り上がっている陰謀論も多数あります。

左派系陰謀論で最も多いのが、食や環境にまつわるものでしょう。「食品添加物は危険」「コンビニのパンは添加物まみれ」といった軽い話から、除草剤のラウンドアップを作っていたモンサント社(現在はバイエルに買収されて社名はすでに消滅しているのですが)がまるで「悪の帝国」のように扱われ、世界中の環境を破壊し、食の安全を奪っているかのような陰謀論はよく出まわっています。

SNSが普及してからは、「権力にカネをもらって政府に尻尾振ってる犬」みたいな投稿が非常に増えました。これも典型的な陰謀論のひとつです。2011年の東日本大震災では、放射能に関する大量のデマのみならず「震災はアメリカの地震兵器によるものだ」といった陰謀論も出まわり、これらを主に拡散させたのは左派の人たちでした。

2010年代終わりになると、政府の内閣情報調査室(内調)の職員たちが左派を攻撃するツイッター投稿を日夜続けているというドラマが流行り、これはあくまでもドラマの架空の設定であるのにもかかわらず、真面目に信じてしまう人が多く見受けられました。

時代を古くまでさかのぼってみると、1985年の日航ジャンボ機墜落事故は自衛隊のミサイルによるものだとか、2001年の同時多発テロは米軍のミサイルによるものだとか、この手の軍事的な陰謀論も左派の人たちと親和性が高いように感じます。試みに「JAL123便墜落事故 真相」と陰謀論者の人が好きなワード「真相」を足してグーグル検索してみると、たくさんのブログや投稿がヒットします。

「ジミントーが口癖のように言う『国民の命を守る』という言葉がいかに空虚なものであるか!」
「私たちは報道の自由とかお題目だけで、肝心な事は何も知らされない国民なのだろうか? どこかの誰かのために真実はこの先も闇の中なのだろうか」

少し紹介してみましたが、このようにステレオタイプな左派的スローガンや言い回しがこの手の軍事の陰謀論にはよく使われています。

さらに今回のウクライナ侵攻では、ロシアのプロパガンダに乗せられたような「ウクライナ政府がオデッサで住民を大量虐殺している」「ゼレンスキー大統領はネオナチ」といった陰謀論が大量に出まわり、これは左右関係なくはまっている人が多く見られました。

右も左も極端な人は陰謀論にはまりやすいという身も蓋もない話なのですが、左派系の陰謀論にはざっくりと一貫した特徴が見受けられます。それは「権力が陰謀をたくらんでいる」という物語が多いという特徴です。その「権力」とは時に日本政府であったり、米軍であったり、安倍政権であったりします。ウクライナ侵攻でロシアのプロパガンダ陰謀論に左派の人まではまっているのは一見すると不思議ですが、ロシアがアメリカと対立しており、アメリカを権力の象徴と捉えれば、ロシアは「反権力」であるという物語になるということなのかもしれません。

この「反権力」思考は、左派の人に最も共通している特徴だと言えるでしょう。

ここで指摘しておきたいのは、政治的対立は必ずしも「反権力」である必要はないということです。本来の政治的対立は、「政治哲学」どうしの対立であるべきなのです。

ここで政治学者マイケル・サンデル先生を引っ張ってきましょう。サンデル先生には、政治哲学には四つの基本的な考え方があると説明しています。「功利主義」「リバタリアニズム」「リベラリズム」「コミュニタリアニズム」です。

政治哲学の話は今回の本題ではないので、軽く説明しておきましょう。功利主義は、社会のひとりひとりの幸福の量を合計し、それが社会全体で最大になるようにしようという考え方。たとえば「ひとりあたりGDPを最大にしよう」というのもそうですね。

リベラリズムは最近はかなりおかしな方向に理解されていってますが、もともとは王政などの圧政から逃れて政治的な自由を実現しようという考えであり、そこからさらに進んで「幸福な生活」を享受する自由も実現しようということまで含む考え方。

リバタリアニズムは、政治的な自由だけでなく、経済もすべて自由にし、規制緩和や民営化などをどんどん進めようという考え。ビッグテックの経営者にリバタリアニズムの信奉者は多く、日本の起業家でも賛同する人は多いと思います。しかし自己責任論とも親和性は高く、ともすれば弱者切り捨てになりがちな問題も。

最後のコミュニタリアニズムは、共同体主義。人々がともに生きるためにはどうするのが最善かを考え、社会の目標を「なにが社会にとって良いことなのか」という共通理念のようなものにしていこうという考えです。サンデル先生はコミュニタリアニズムですね。わたしも近年はこの方向をつねに考えています。

本来の政治的対立とは、このような政治哲学にそれぞれが立脚し、議論を戦わせ、折り合いを見つけていくというものであるべきです。相手を「権力者!悪!」と叩いているだけでは、有効な議論はまったく生まれてきません。そもそも「権力は悪!」と非難している側が政権交代で政治権力になってしまった場合、その人たちはいったい誰と戦えばいいのでしょうか?

それなのになぜ「反権力」という考え方ばかりが、これほどまでに大手を振るうようになったのか。この理由を、私が本メルマガでも何度も引き合いに出しているジョゼフ・ヒースは、第二次世界大戦後の文化の流れを切り口に分析しています。

日本でいうと団塊の世代にあたる米国のベビーブーマーは、1960年代から70年代にかけてカウンターカルチャー(対抗文化)と呼ばれる反逆の文化をつくりました。まあかんたんに言えば、ドラッグとロックンロール、ヒッピーの世界です。これがなぜ「カウンター」だったのかと言えば、大人社会のつくるメインカルチャー(主流文化)に対置したからです。

カウンターカルチャーが生まれた背景について、ヒースは2つのポイントを指摘しています。第一には、第二次世界大戦後の急速な経済成長で、大衆消費文化が急速に広まっていったこと。第二には、ナチスドイツへの反省。

この二つが結びついてるのが不思議ですが、ヒースの最高な論考はこういうところにあります。説明しましょう。ナチスドイツは皆さんご存じの通り、国民を扇動したファシズムでした。北朝鮮のように暴力で国民を抑圧しているのではなく、国民が熱狂してヒトラーを支持したのです。有名な話として、秘密警察ゲシュタポは国民を監視し抑圧していたと考えられていますが、実際にはそうではなく、ゲシュタポのもとには国民からの隣人や同僚への密告が殺到し、ゲシュタポはさばききれない程だったのが事実だったというエピソード。普通の人たちが熱狂していたのです。

ドイツ人というと理性的な国民性のイメージがありますが、そういう理性的な人たちも気がつけば権力に順応してしまい、最後はユダヤ人のジェノサイドに間接的にであっても手を貸してしまった。これは「その他大勢」になることが知らず知らずに恐ろしい結果を招くのだ、という恐怖心を欧米人たちに植えつけた、とヒースは説明しています。

そして戦後、経済成長とともに大衆消費社会がやってきます。大衆消費社会は、人々をひとつの大きなマスの中へと放りこむものであり、みんながマクドナルドのハンバーガーを食べてコカコーラを飲んで、という「その他大勢」に人々を呑み込んでいくものでした。ここで「ナチスドイツへの反省」と「大衆消費社会」が結びついて、「大衆消費社会の忌避」という考えが生まれてくる。これこそがまさにカウンターカルチャーであり、「反権力」の基礎となったということなのです。

この結果、カウンターカルチャーのベビーブーマー世代は、大衆消費社会に対してこう考えるようになりました。

「多くの消費者はだまされている」
「大企業はわたしたちをだまそうとしている」
「政府は信用できない」
「一般大衆は組織の歯車、愚かな順応の犠牲者である。浅はかな物質主義の価値観に支配され、中身のない空虚な人生を送っている」

ここまで来れば、陰謀論までは「あと一歩」というのがおわかりいただけるかと思います。そしてこれは陰謀論にはまる問題だけでなく、もうひとつの「副作用」があります。それは、こういう考え方をする人が自分自身を「社会のアウトサイダー」と自認するようになってしまい、当事者(インサイダー)として社会をみんなで改善していこうという志を否定することになっていく危険性があるということです。

たとえば環境問題が起きて、工場からの汚染物質の排出に規制をかける必要が出てきます。国会議員と協力したり、官僚に働きかけ協力したり、NPOを設立して解決方法を検討していくというのが、建設的なやりかたでしょう。

しかしアウトサイダーを自認してしまうと、そういう当事者的なやりかたは「政府や大企業に加担している」と映ってしまい、そういう建設的なことをしている人を「御用学者」と見てしまうことになる落とし穴が待っている。そしてデモなどでシュプレヒコールをあげて非難していれば、それでいいのだというたいへん非建設的な方向に行ってしまうのです。

にもかかわらず、このようなアウトサイダー志向はエリート意識にもつながっていくという逆説的なことも起きてきます。なぜアウトサイダーがエリート意識になり得るのかと言えば、

「おれはおまえらと違って、体制に騙されたりしない。愚かな歯車ではない」

とアウトサイダーは考えてしまうからなのです。ひとつ例を挙げると、1942年生まれの活動家カレ・ラースンが2000年に書いた本『さよなら、消費社会』(大月書店)では、パンクやヒッピー、ダダイスト、アナーキストといったカウンターカルチャーの活動についてこう書いています。

「自分の内面のほんとうの声に従えば、近代的消費文化が肥大化させたゴマカシが周囲に満ちていることに気づくだろう。
「隠れたところで静かに陰謀が進んでいるとき、真実の一言は、獣性のように響く」

ここにも「陰謀」ということばが出てきますね。アウトサイダーとして「大衆は理解していない真実を、自分だけが理解している」と優位に立つためには、大衆はつねにだまされる存在でなければならず、だます存在がいなければならない。

自分たちが社会のインサイダーとして、ともに社会をつくる仲間になるのであれば、「だれかがだれかをだます」という発想は生まれにくいはずですが、みずからをアウトサイダーと自認することによって、「インサイダーはだまされている、真実を知らないんだ」という見たてに陥ってしまうのです。

これは日本でもアウトサイダーを自認するエリート主義の人たちが、反原発カルトや反ワクチン、ロシアのプロパガンダに容易に呑み込まれていることでもよく理解できますね。

しかしこのようなアウトサイダーでありエリートである、という自認のありようは、実は20世紀における右肩上がりの成長の時代だったからこそ成り立ったのだ、という落とし穴があります。

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