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政治に本当に必要なのは、感情を揺さぶることじゃなく「信頼」だ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.681

特集
政治に本当に必要なのは、感情を揺さぶることじゃなく「信頼」だ〜〜弁論の達人アリストテレスに本物の「エートス」を学ぶ

ツイッターで政治の発言をしてる人たちを見ていると、世の中はほんとうに感情で動く人が多いなあと感じます。なかには、政治について語っているうちに、政治哲学とか政策とかの政治の中身のことはもはやどうでも良くなってしまって、他人を罵倒する用語ばかりをひたすら研ぎ澄ましていっている人もけっこういます。「ホームラン級のバカ発見」とか「肉屋を擁護する豚」とか「ケツナメ」とか恐ろしい用語を互いに発明しあって、どんどんあさっての方向に突き進んでしまってる。

日常の仕事や暮らしでは、怒りや義憤を爆発させる場面なんてほとんどありません。ブラック企業の管理職ではない普通の人たちは、内心けっこう怒っていても、ぐっと感情を押し殺して仕事をつづけてる。だからこそ、インターネットという匿名中心の場所で、しかも何を文句言っても実生活にはほとんど影響がない(と本人は信じてる)政治の話なら、思いきり怒りや義憤をぶつけられる。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『弁論術』という本で、感情(パトス)のむずかしさについて恐ろしいほど鋭く論じています。


たとえば「怒り」。怒りには「相手をやり込められるのだ」という期待からの快楽があると、アリストテレスは言います。人は、自分が絶対に得られないと思っているモノを望むことはありません。自分が得られそうだ、射止められそうだと思うときに、喜びを感じる。つまり「このままいけば相手を潰せそうだ」と感じるときに、怒りは喜びに転じるのです。

怒っても怒鳴っても、相手がビクともしないのだったら、怒り甲斐がない。怒ってる自分が逆にバカみたいに思えてくるかもしれません。しかし相手が怒りに恐れをなして、ひれ伏しそうになったら「やった!怒ったら相手はビクついてるぞ!」と快楽が生まれるのです。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがあります。失言などでネット炎上してしまったのに、決して謝罪しようとしない人を揶揄したスラングです。これは言外に「謝ったって死ぬわけじゃないなんだから、さっさと謝ってスッキリしてしまえばいいのに」という意味を含んでいるのですね。

しかし現実にいまのネットはどうでしょうか。謝罪したからといって、許してくれる人ばかりではありません。それどころか「お、こいつは謝ってるんだから、さらに怒りを注げばもっと謝るんじゃないか? もっと罵倒しよう怒ろう」なんて火に油を注ぐようにしてさらに憤怒の炎を燃やす人がけっこう多いのではないでしょうか。まさに快楽以外の何ものでもありません。アリストテレスが2400年前に指摘したことを、いまだに人は繰り返しているのです。

アリストテレスは、ホメーロスの英雄詩「イリアス」に出てくるこんな文章を引用しています。

「これこそ、したたる蜜よりもはるかに甘きもの。人々の心に燃えひろがりいく」

さて、ネットでよく見るもうひとつの感情は「義憤」。ネットでの誹謗中傷について「誹謗中傷をやめましょう」「罵声を飛ばすのはやめましょう」というスローガンはよく見かけます。しかし実際に誹謗中傷している人たちは、そうしたスローガンに心動かされることはほとんどありません。なぜなら彼らは、自分たちの行為を誹謗中傷だとは思っていないからです。たいていの場合、彼らは自分の行為を社会正義であり、社会正義が実現されていないことへの「義憤」に基づいた正当な行為だと思っているのです。

自分の行為を悪いことだと知っていて、わざと悪いことをしている人たちもいます。そういう「露悪」な人たちと、自分たちがやってることは社会正義から来る義憤だと信じて、でも結果的に悪い行為をしている人たちと、どっちが問題でしょうか。話がまったく通じないという点において、実のところ後者の「義憤」派のほうが御しがたいとわたしは感じます。

アリストテレスは、義憤を四つに分類しています。

(1)自分は「最高に良いモノを持つのにふさわしい人間」だと信じ、実際に高級マンションや高級乗用車、宝石などを所有している人がいるとする。そういう人が「私よりもずっとレベルが低く、最高に良いモノを持つ資格などないようなくだらない人物が、なぜ私と同じ高級マンションを要求しているのか」と感じる。そういう義憤。

(2)なかには正当な義憤もあるかもしれない。人格が優れ、ものごとを的確に判断する力をもった人が、だれかの不正を見つける。その不正に怒るのは、正当な義憤。

(3)野心家がなにかを狙っている。たとえばなにかのコンテストで優勝したいとか、グランプリに輝きたいとか、有名ユーチューバーになりたいとか。ところがその野心家が「そんな資格もないヤツが、自分が狙っているものをたまたま手に入れてしまった」のを見てしまったときに感じる感情。

(4)「他人にはその資格があるが、自分だけにその資格がある」とつねづね感じている人の感情。そう思ってる人は、他人がその資格を持っているだけで腹を立てる。逆に、自分にそういう資格がないと思ってる人は、そんなことで義憤は感じない。

最後の(4)についてアリストテレスは、「奴隷根性で、低俗な、野心もないような人々は義憤を感じない。そのような人々は、自分こそそれを持つべきであると考えるものがひとつもないからである」」と身も蓋もないことを言っていますね。

アリストテレスの分類をこうやって並べて見ると、インターネットには(3)とか(4)みたいな人がたくさんいるなあとつくづく感じます。義憤というのは麻薬的な感情なのでしょうね。

ちなみにアリストテレスは、義憤と「ねたみ」は異なるものだとも言っています。ねたみは義憤と同じように、他人の幸運に向けられる攻撃的な感情なのですが、義憤が「こいつは自分よりレベルはずなのに」という上から目線の感情なのに対して、ねたみは自分と同じレベルで自分と似た者に向いた感情なのだとか。たしかに言われてみれば、「自分よりこいつは下なのに」と思う相手に対してはねたみは生じないですよねえ。アリストテレスはほんとう鋭い。

そしてこういう怒りや義憤やねたみなどの感情は、客観的な現実さえゆがんで見せてしまう。恐ろしいことです。アリストテレスはこう語っています。

「愛している時と憎んでいる時では、また、腹を立てている時と穏やかな時とでは、同じひとつのものが同じには見えず、まったく別物に見えるか、あるいは大きく異なったものに見えるかするものである」

このように感情というものは、とくに政治や社会のテーマを冷静に考えなければならないときには非常に厄介なのですが、いっぽうで人は感情で動きやすい。ほんとうは感情ではなく論理で議論できればいいのですが、論理だけでは人はついてきてくれないという問題があります。

感情と論理。たとえばこういうシチュエーションを想像してみてください。

あなたが誰かに連れられて、初めてのカヤックに挑戦しているとします。ところが静かな湖面でのカヤックならともかく、達人の彼が連れていってくれたのはホワイトウォーターカヤック……滝や瀬が連続する急流への挑戦です。「こんなところいきなり初心者にやらせるなよ」と思うけど、彼は自信たっぷりに「安心していいよ。僕が教えますから」と言うのです。しかし実際に川の中へと入ってみると、いきなり転覆……命からがらカヤックから身体を抜き、岸辺へ這い上がったあなたは「これ大丈夫なのか……」とますます不安に。

きちんとケアしてほしいけど、彼にどう言えばうまく気持ちが伝わるでしょうか。三つの方法があります。

(1)ひたすら論理的に詰める。「あなたはカヤック経験が長いから、このような瀬になんの恐怖もないでしょう。でも初心者は恐怖で腰が引けてしまい、かえって姿勢を崩して転覆しやすくなる。もし私がここで溺れたら、あなたには指導者としての責任が負わされ、へたをすると刑事事件の被告人になることだってありえますよ」

(2)感情を呼び起こす。「怖い!」と叫んで泣きながらしゃがみこむ。

(1)が論理で、(2)が感情です。論理での追及はたしかに正しいのですが、カヤック達人の彼との関係が悪化してしまいそうな心配があります。わだかまりが残りそうです。そう、論理というのは人の感情を無視してしまうところがあるので、人の気持ちに寄り添ってくれないという問題を妊んでいるのですね。

いっぽうで「怖い!」と叫んで泣くというのは効果はとてもありそうです。彼もあなたの感情にようやく気づいて、無理して難しいホワイトウォーターカヤックに誘うことはなくなるでしょう。論理と違って、わだかまりが生じることもなさそうです。しかし感情に頼りすぎると、せっかくのカヤックに挑戦する機会を逸してしまう可能性も出てきます。一歩一歩着実に前に進みたいときに、感情はそういう前進を邪魔してしまうことが多いのです。

では論理ではなく、感情でもない方法はあるのか。そこで「信頼」が登場してきます。

(3)信頼感に訴える。「あなたを100%信じてますから、私をちゃんと連れて行ってね」と穏やかに言う。

信頼による説得は、相手との関係性を壊すことはありません。感情のように後ろ向きになってしまう心配もありません。前に進みながら、でもわだかまりを作らずに、話を進めていくことが可能な方法なのです。

感情と論理と信頼。古代ギリシャのことばで言えば、ロゴスとパトスとエートス。もちろん信頼=エートスだけですべてがうまく行くわけでもなく、ロゴスやパトスの要素も必要だというのはアリストテレスも言っています。三つをバランス良く配置することが大切なのですね。

パトスだけでは正しさは保証されないし、ロゴスだけでは人々を説得することができません。だからエートスの出番があるのです。信頼感があってこそ、ロゴスとパトスの対立を昇華することができるのではないでしょうか。「あの人が言うんだから信用してもいいんじゃないかな」と思わせるような信頼感のある人が求められているのです。

さて、ここからはエートスの中身について、アリストテレスの話を引きつつもう少し深掘りしていきましょう。

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