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「夜の校舎の窓ガラスを壊してまわった」尾崎豊はアウトサイダーだったのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.651

特集 「夜の校舎の窓ガラスを壊してまわった」尾崎豊はアウトサイダーだったのか
〜〜平凡だから自由に憧れた昭和から、平凡に憧れ自由を恐れる令和へ

 アウトサイダーという存在の意味が20世紀と今とでは、大きく変化しているということを解きほぐしていきましょう。精神科医のシロクマ先生が、以下のような記事を書かれていました。

 高校生が煙草を吸ったり万引きをしたりというヤンキー的な振る舞いは、社会から逸脱したアウトサイダーのように思われていたけれども、それは逸脱ではなく、また別の規範にしたがっているだけだったのではないかというお話です。そして借金玉さんの以下のツイートを紹介されています。

「『ヤンキー的なもの』あれ、全然逸脱じゃなくて単なるロールモデルですよ。逸脱ってのは、公園で一人足元のアリ眺めながら「こうしているときは本当に幸せだな」って感じてるキッズのことです」

 シロクマ先生の記事を読んで、わたしは司史生さんの以下のツイートを思い出していました。

 尾崎豊の1985年の名曲「卒業」に出てくる「夜の校舎 窓ガラス 壊してまわった」という歌詞は、孤高のアウトサイダーというイメージをまとっています。しかし現実に窓ガラスを割っていたような若者たちは、ヤンキー的な徒党を組んだスクールカースト上位者だったという指摘ですね。これはまったくその通りだと思います。

 では本物のアウトサイダーとはどのような存在なのか。1956年に作家コリン・ウィルソンが書いた『アウトサイダー』という名著があります。Kindle化されていないのが残念です。

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労働者階級出身のイギリス人であったウィルソンはまともに学校にも行っておらず、しかし若干24歳のときにこの本を一気に書き上げたというのは驚嘆するしかありません。縦横無尽に古今の名著に登場するアウトサイダー的な概念を分析し、実に濃密な本です。この中でウィルソンは、こう書いています。
 
「アウトサイダーとは、あるがままの人生を認めることができず、自分の存在にせよ、他人の存在にせよ、それが必要なものだと考えることのできぬ人間なのだ」

 ちょっとわかりにくいのですが、こういう意味です。アウトサイダーというのは社会や他人の秩序を拒否するだけでなく、自分の中にも秩序があることが許せない存在である、ということ。

 これについては1957年に出た『アウトサイダー』の最初の邦訳で、訳者の福田恆存があとがきに書いた文章がわかりやすいので、少し紹介しましょう。

 「アウトサイダーはたんにインサイダーの社会の『外側にいるもの』であるだけではない。かれはまた自分自身にたいしても、その『外側にいるもの』なのである。なぜなら、自分のなかには、つねにインサイダーの秩序どおりに動くものがいるからである。それを私たちは自己の俗物性と呼ぶこともできる」

 自分の中にあるインサイダーの秩序から、どう解き放たれるか。それこそがアウトサイダーの大きな課題であるというわけです。アウトサイダーにとっては、既成の道徳を守る自分が気にくわない。しかしその道徳をみずから破ってしまうと、どうなるか。精神は一瞬は解き放たれるかもしれないけれど、それは長続きしない。最終的には身体的な本能に埋没する、獣のような存在に墜ちてしまうしかないのです。福田恆存はこう書いてます。

「世間的常識を破るさいに用いられた勇気が、いまや本能に身をまかせる怠惰と化してしまう」

 そうなると、アウトサイダーはまたも自分自身が嫌いになってしまいます。そして「自分自身が嫌いになる」ということ自体が、自分の外側にいるということであり、ここでもアウトサイダーはアウトサイダーとなるのです。

「これこそ自分のしたいことだと思って、それをなしたとき、それが決して自分のしたいことではなかったことを発見する。そこで、かれは自分を裏切ろうとしてみる。自分のもっともしたくないことをやってみようとする。いいかえれば、自分の意思をためしてみようとするのだ」

 つまりアウトサイダーには、ゴールはありません。つねに自分や社会を裏切り続けることがアウトサイダーなのであり、つまりアウトサイダーとは永遠の「過程」であるということなのです。

 コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』で、過去のさまざまな人文書や文学を引いています。たとえばヘルマン・ヘッセの『デミアン』について、こう書くのです。

「問題はあくまで自己実現にあるのだ。ある秩序の概念を認め、それによって生きるだけでは十分でない。そのような生き方は臆病であり、自由に達することはできない。混沌を直視せねばならぬのだ。芯の秩序が来る前に、混沌への下降がなくてはならぬのだ」

 秩序ではなく混沌。ゴールではなく過程。混沌とした世界を引き受け続けることこそが、アウトサイダーの思想ということなのでしょう。またフランスの思想家ジャン=ポール・サルトルについては、こう書いています。

「(サルトルが)最も自由で生きがいを感じたのは、戦時中、抵抗運動に身を投じて、絶えざる裏切りと死の危険にさらされて活動していたときである。言うまでもなく、好き勝手なことができると言うだけが自由ではない。自由とは『意思の強烈さ』にほかならず、それが必ず現れるのは、生き抜こうとする意思を人間によびさます極限状況に置いてである」

 尾崎豊や、あるいは映画に描かれるヤクザや犯罪者は、このような永続的なアウトサイダーを表象しているのでしょう。しかし冒頭に紹介したツイートにあるように、実際の「窓ガラス壊してまわる」不良や暴力団員や反社会的勢力は、オータナティブな秩序におもねっているにすぎないのです。だから彼らは現実には、数を頼んで乱暴狼藉を働くというアウトサイダーらしからぬ行為に走ってしまう。疑似アウトサイダーなのです。

 これは「反権力」にも言えることです。国家権力に対抗する人たちは「反権力」を名乗りたがりますが、しかしそういう人たち自体がヒエラルキーを構成し、グループ内で偉い人が権力を振るっていたりする。つまりは権力を内在させてしまっているのです。だから彼らは「反国家権力」ではあるけれども、本当の意味での反権力ではないということです。もし徹底的に反権力であり続けるのであれば、自分たちの中に存在する権力構造を否定し続けるという、永続的な過程を続けていかなければならないのです。

 だから反権力の人たちは、疑似アウトサイダーと同じように、ときに数を頼んで乱暴狼藉をする。まさに権力的な横暴なのですが、それでいて自分たちは「反権力」だと信じ込んでいて自身の権力に自覚がないので、まことにたちが悪いのです。

 話を戻しましょう。永続的な真のアウトサイダーであることは、現実的には難しい。しかし困難であるがゆえに、人びとの憧れの対象となるのでしょう。社会の道徳や倫理が強ければ強いほど、逆にアウトサイダーへの憧れは強くなる。

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