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戦後日本社会の「平等」幻想は潰え、新たな階層社会が幕を開けている 佐々木俊尚の未来地図レポート 

戦後日本社会の「平等」幻想は潰え、新たな階層社会が幕を開けている〜〜〜現代日本の「横の旅行」と「縦の旅行」(1)


「ダイバーシティ」「インクルーシブ」とカタカナで言われるときに、そこでイメージされている多様性や包摂はたいていの場合LGBTだったり障がい者といった弱者です。もちろんLGBTや障がい者の多様性を認めることが社会としてとても大切であることは当たり前のことですが、現代の社会にいるマイノリティは、そうしたわかりやすい「きれいな弱者」だけではありません。



この記事でイギリスの作家カズオ・イシグロ氏は「縦の旅行」「横の旅行」という表現をしています。引用しましょう。


「インテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」


「私は最近妻とよく、地域を超える『横の旅行』ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る『縦の旅行』が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです」


「意識高い」系のような人たちは、「貧困」というとすぐにアフリカの子どもの話を持ち出したがります。しかしそんな遠くに目を向けなくても、いまの日本にはごく身近なところに貧困が存在しています。足もとの貧困には興味を持たず、なぜ遠くの国の貧困にばかり注目してしまうのでしょうか。こういう現象は今に始まったことではなく、実は昔からありました。19世紀のイギリスの作家チャールズ・ディケンズはこういう現象を「望遠鏡的博愛」と称しています。望遠鏡で見えるような遠くの土地にしか博愛が向かないのだ、と。


望遠鏡的博愛から脱して、足もとの社会を真っ正面から見ること。そのためには、まさに「縦の旅行」という視点が必要なのでしょう。


先日、あるパーティーで熊本県の人と話す機会がありました。熊本県下の町役場で地方創生の仕事に携わっているといいます。雑談の中で「熊本はTSMC進出でだいぶ盛り上がっているんじゃないですか?」と向けてみると、意外にも複雑そうな表情。


ご存じのように台湾最大の半導体ファウンドリーであるTSMCは現在、熊本県菊陽町に総額1兆円を投じた巨大工場を建設しています。最初の出荷は2024年末とされていますが、驚くべきなのは経済効果。時給3000円のアルバイトが募集されているという話があって多くの人材が集まりつつあり、それに合わせて地価も上がり、地元経済への波及も期待されています。


菊陽町は熊本市に隣接したベッドタウンで熊本空港もあり、熊本市と一帯となったエリアです。ではこのエリア以外に目を向けるとどうか。熊本県南部の町で行政マンをしているその人は「同じ熊本県内でも、わたしらの住んでいるようなところからは若い人材とかがTSMCのあるエリアに流出しつつあるんですよ」といいます。「熊本県庁としては、熊本全体で経済が成長し雇用が増えれば万々歳ということなのでしょうけど、熊本県内で格差が広がっていることにはあまり向き合ってくれません」


熊本県全体としては、TSMCによって最適化されている。しかし個別に目を向ければ、全体最適化からこぼれ落ちている町があるということです。このような全体最適化と個別最適化が分断してしまっている問題は、いまあちこちで目につくようになってきています。その背景にあるのは、日本経済が長い平成30年不況からようやく脱しつつあり、良い方向へと踏み出しつつあるということがあるのでしょう。不況の間は「みんなが苦しい、みんなが貧しい」という悪平等な不幸があった。ところがそこから脱却すれば、どうしても好況の波に乗れるところと乗れないところが分断してしまう。


コロナ禍の最中に「K字回復」ということばが流行りました。コロナが終盤に近づくにつれて海外では消費が回復し、国内の製造業は急速に回復しましたが、国内の消費は低調のままで旅館業や飲食業はマイナスのままでした。V字回復ではなく、回復するところと回復しないところの分断が広がったということで「K」の文字が当てられたのです。


令和時代の今後は経済の成長が期待されると言っても、昭和の高度成長時代のようにあらゆる業種、あらゆる分野が一斉に成長していくということはもはや期待できないのでしょう。産業は工業化のフェーズはとっくに終わってしまっていまは知識化し、高度な能力が求められています。人口が減っていく中で、そうした傾向はますます加速していくでしょう。


現代史を振り返ってみると、戦後日本は経済成長と同時に社会全体に富を分配することに腐心してきました。


1950年代からはじまる高度経済成長は日本の工業化を推し進めましたが、その中心になったのは「太平洋ベルト」と呼ばれた茨城から大分までを結ぶ太平洋側の工業地帯です。これに対して日本海側の人たちは取り残された感があり、「太平洋側だけが豊かになっている」という忸怩たる思いを抱えていました。


ちなみにこの分断と格差を政治の世界で最も強く訴えたのは、あの田中角栄です。1918年生まれのこの政治家は、国会議員になった50年代から60年代にかけ、日本海側のインフラ整備や工業化を強く訴えました。地元新潟での演説では、こんなことまで言ったと伝えられています。


「三国峠を切り崩せ。そうすると季節風は太平洋側に抜け、越後に雪は降らなくなる」


三国峠は群馬と新潟の県境にあります。日本海側と太平洋側を分ける「壁」のような山脈を分水嶺と呼びますが、この分水嶺にある峠なのです。大陸から吹いてきた季節風は、分水嶺の山にぶつかって日本海側に大雪を降らせます。雪を落とした季節風は分水嶺を乗り越えて、群馬側へと吹き下ろす。群馬名物の冬の「からっ風」です。分水嶺の山々がなければ、たしかに季節風は雪を落とすことなく太平洋側に流れ込むでしょう。


そんなことを本気で考えていたわけではないでしょうが、日本海側と太平洋側の経済格差をなくそうというのが田中角栄の政治家としての悲願だったということなのです。だから田中角栄は首相に就任する直前「日本列島改造論」というベストセラーを著し、就任後は積極的にダムや道路、橋など地方の公共事業を増やしていきました。


これは公共事業への巨大利権をうみだすという副作用があったのですが、しかしこれらの公共事業によって富が分配され、都市と地方の経済格差をなくす一定の役割を果たしたということは否定されるべきではありません。


日本の戦後社会は、「平等」というものが強く期待される時代だったとも言えるでしょう。文化の面からも見てみましょう。

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