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シンパシー(同情)ではなくエンパシー(感情移入)を 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.726

特集 シンパシー(同情)ではなくエンパシー(感情移入)を
〜〜〜テクノロジーが強者と弱者の関係を対等にする


英語のエンパシー(empathy)は共感とか感情移入という意味。シンパシー(sympathy)とエンパシーの違いがときどき話題になりますが、シンパシーが同情とか思いやりなど、言い方は悪いのですが相手を少し下に見る「憐れみ」のような感情であるのに対して、エンパシーは相手の感情をそっくり自分のものとして感じるということ。つまりは「感情をそのまま移入すること」であり、相手と対等なのです。

貧困などについての記事を読むと、人は「なんてかわいそうなんだろう」「悲惨な境遇から抜け出せればいいのにね」と感じますが、その感情はエンパシーかシンパシーかと言われれば、実のところ「憐れみ」の入り混じったシンパシーであることが多いのではないでしょうか。

貧困に関心を持つことは大事です。しかし同時に、このようなシンパシーは過剰になりすぎると、落とし穴も待ち受けています。

そのひとつが、貧困層などの弱者を勝手に代弁してしまう問題。これについてわたしは2012年の著書『「当事者」の時代』(光文社新書)で、「マイノリティ憑依」という造語で説明しました。弱者に寄り添うといいながら、自分に都合の良い幻想の弱者像を勝手につくりあげ、その幻想の弱者に喋らせ、弱者を勝手に代弁することを意味しています。

このマイノリティ憑依については「佐々木は弱者を無視している」「弱者への差別だ」と誤解して非難する人がたくさんいましたが、まったく的外れです。逆に弱者の本来の発言が無視されてしまい、彼らの存在そのものが他者に奪われてしまうという「サバルタン」の問題をマイノリティ憑依では指摘しているのです。

サバルタンは「みずからを語ることのできない弱者」という意味で、もともとは支配階級に服従する底辺層のことを意味しました。古くから歴史は支配者たちの物語で、底辺を生きる人たちがどのような歴史をもっていたのかはほとんど語られていません。わたしたちは古代の英雄の物語や神話にいまでも夢中になるのですが、そのかたわらで一般労働者がどういう暮らしや仕事をしていたのかはほとんど知らないのです。映画『スターウォーズ』のシリーズで、宇宙を駆ける戦艦を建造していた労働者がどういう思いでどう生きているのかが語られないのと同じです。

加えて、かつて弱者はほんとうに弱者で、強者に虐げられる人たちでした。しかし現代のSNSのような世界では、弱者のほうがマウントをとりやすいという逆転的な構図になっています。弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者である悪を糾弾するほうが「正義」になれるのです。ウクライナ侵攻に見るような現実世界での強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強いという構図です。

「弱者である」ということは無敵です。だからそれに対して政府や企業、言論人などが批判を加えても、まったく揺るぎません。なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからです。

しかし弱者がみずから語ることを許さず、自分たちがつくりあげた幻想の「弱者像」に語らせるという構図は、支配階級に服従し自ら語ることを許されなかった底辺層である「サバルタン」そのものではないでしょうか。

過剰なシンパシーには、このような落とし穴が待ち受けているのです。弱者をサバルタン化せず、対等な目線で弱者と向き合うのにはどうすれば良いのでしょうか。

そこでわたしはエンパシー的な方向が大事だと考えています。つまり憐れみではなく、弱者が感じている感情をそのまま受け入れること。そのような体験ができるのであれば、よりわれわれはリアルに弱者の立場を考えられるようになるでしょう。

このエンパシーをテクノロジーによって実現できないだろうか、という試みがあります。

これはTEDの動画で、登壇しているクリス・ミルクは映像クリエイター。「エンパシー・マシーン」ということばが使われています。「感情移入機械」と訳せばいいでしょうか。

最初に紹介されているエンパシー・マシーンは『荒野のダウンタウン(The Wilderness Downtown)』という作品。自分が育った場所の住所を入力すると、画面に小さなウィンドウが次々と立ち上がり、少年が通りを駆け抜けている映像が現れます。背景になっているのはグーグルストリートビュー。「おお、これは見覚えのある通りだな」と思っているうちに、少年はある一軒の家の前で立ち止まる。その家がまさに、あなたが育った家であるというオチがつけられています。

『荒野のダウンタウン』は平面の作品でしたが、その後ミルクは3DのVR(仮想現実)でエンパシー・マシーンを制作するようになります。

なぜ平面ではなくVRなのか。それをミルクは動画のなかで明快に説明していますね。映画やYouTubeのような平面の作品は、どうしてもそこに額縁やウィンドウのようなフレームが存在してしまいます。このフレームが、エンパシーを妨げるものになっているのではないか?とミルクは考えたのです。

「あらゆるメディアは、テレビにしろ映画にしろ、他の世界を覗く『窓』なのです。そこで考えました。相手をフレームで囲み、窓にはめ込むのではなく、窓をすり抜けて反対側に行き、そっちの世界に入り込むようにできないだろうか」

VRはまさに、窓をすり抜けて反対側に行き、その世界に入ることができます。ヘッドマウントディスプレイを装着して見える世界には、額縁もウィンドウもありません。

そしてミルクが制作したのが『シードラのうえの雲(Clouds Over Sidra)』という作品。シリア難民キャンプで暮らす12歳の少女シードラを、360度カメラで撮影したものです。以下から日本語の紹介記事とYouTubeの動画を観ることができます。


ミルクはこう語っています。「シードラの部屋で 本人を前にして座っている時は、テレビ画面やウィンドウを通して見ているのではなく、彼女とそこに座っているのです。足元を見ると、彼女と同じ地面に座っていることがわかります。だからこそ、より深く彼女の人間性を感じ、より深く感情移入できるのです。私はこのエンパシー・マシーンで、心を動かせると考えています」

実際、難民支援への寄付に大きな効果があったことは、上記の日本語紹介記事でも書かれています。

「クウェートのファンドレイジング・イベントで人々に見せたところ、なんと予想を70%も越える38億ドル(約3900億円)もの寄付金が集まったという。国連によると、VRドキュメンタリーを見た人のうち6人に1人が寄付をしたという報告も出ている」

すごい効果です。このように没入感が非常に強く、エンパシーを最大限に感じられるのがVRの特徴と言えるでしょう。そしてわたしはこの没入感に加えて、VRにはもうひとつの大きな価値があると感じています。

それは、「自分が他者から承認されている」というような感覚が生まれることです。

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