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ほとんどの「文章術」の本は、生成AIで無効化される 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.771

特集 ほとんどの「文章術」の本は、生成AIで無効化される〜〜〜SNS時代の「日本語の作文技術」について考える(第5回)


世の中には「文章入門」「文章術」といわれるジャンルの本が、無数といっていいほどに出版されています。このジャンルにも時代の流れはあって、昔の文章本は小説家が名文の書き方を教えるというものが多くありました。有名なところでいえば、谷崎潤一郎の「文章読本」(1934年)、これも同じタイトルの三島由紀夫の「文章読本」(1959年)、そしてこれもまた同じタイトルの丸谷才一「文章読本」(1977年)、これもこれもまた同じ中村真一郎「文章読本」(1975年)、さらにはちょこっとタイトルにつけくわえた井上ひさし「自家製 文章読本」(1984年)。

なぜ、どれもこれも「文章読本」と名乗っているのか。わけわからないし不思議ですが、どれを読んでも「名文から学べ」「簡潔で美しい文章を書け」といった話が並んでいます。これらの「文章読本」が書かれたのは戦前から1970年代ぐらいまでで、文学の全盛期でした。みんなが小説を読み、作家に憧れ、作家は現代のお笑い芸人さん並みのタレント人気を誇っていました。テレビがそれほどの大きな影響力を持っていなかったころには、映画と並んで小説がエンタメの中心地だったのです。

作家は新聞や雑誌への寄稿やインタビューを通じて、社会的な影響力も持っていました。イケメンだった三島由紀夫や石原慎太郎は、映画スターなみの扱いだったのです。そういう時代背景だったから、人々は作家の書く文章に憧れたのです。

しかし時代は移り、21世紀になって、小説は以前ほど読まれなくなっています。ネットフリックスなど動画配信サービスが普及して「物語」をいつでも楽しめるようになったことや、「文章を読みたい」という欲求はツイッターなどのSNSで満たされるようになってしまったことが小説離れの理由でしょう。漫画は電子書籍が普及してV字回復していますが、小説はマーケットが年々縮小し、純文学ともなると初版の刷り部数がわずか3000部と言われる悲惨な状況になっています。苦労して一冊書いて、増刷しなければ50万円ぐらいの収入で終わり。専業で小説を書いて食べていける人はごく少数の人だけになりつつあります。

これに合わせて、高校の国語の学習も今年から「論理国語」「文学国語」に分けられました。美文名文や文学表現だけを習っているだけではダメで、論理的な文章も書けるようにしなければという時代の要請です。この論理国語の登場に文学の人たちが驚くほど強く反発したのも、小説の地低下から来る焦りのようなものがあるのかもしれません。

そういう時代背景があり、小説の名文を目指す人はとても少なくなりました。代わって台頭してきているのが、ビジネスの場面などでの実用的な文章スキルを求める声。論理的な文章のための「文章読本」というと、以前は新聞記者本多勝一氏の「日本語の作文技術」(1976年)ぐらいしかありませんでした。しかしいまでは、美文や名文よりもきっちりと論理的な文章が求められるようになっています。

くわえてSNSの普及で、「文章を書く」という行為が一般社会にも広まったという要因もあります。昔は「文章を書く」というのは一部の仕事の人だけのものでした。わたしは1980〜90年代に新聞記者をしていて、ときおり「読者から送られてきた感想ハガキの整理と選別」という雑務に就くことがありました。この雑務は楽しくはあったのですが、いっぽうで「どれもこれも文章が下手くそだなあ!」という感想がつきものでした。当時は学校を卒業して社会人になってしまうと、文章を書くという機会がたいていは減ってしまい、文章能力が磨かれなかったのです。

しかし2023年のいま、SNSを使いこなしている人たちは大量の文章を読み、大量の文章を書いています。文章能力が「民主化された」ということでしょう。そしてSNSでは、だれも美文や名文は求めていません。「素晴らしい文章だ!」と人々が感動する文章は存在しますが、それは美文名文ではなく、読みやすくて理解しやすくてそれでも心に突き刺さるような文章です。

古くは2000年代初頭の「吉野家コピペ」。「昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家。そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、150円引き、とか書いてあるんです。もうね、アホかと。馬鹿かと」で始まるアレです。


最近だと、時々話題になるカンソウさんのブログ。シンガー藤井風について書かれたこの記事など最高です。


「なんなんだ藤井風…いったい何者なんだ…曲だけでも生きとし生ける森羅万象に良いと思わせるだけの圧倒的パワーがあるのにそれ以上に藤井風という『人間』のことをもっと知りたくなってる俺がいる…藤井風…もっと…もっと伝説くれ…もっと俺を絶望させてくれ…」

まったく美文ではありませんが、強烈な説得力と共感力を持った文章だと思います。吉野家コピペもそうですが、このようなフックのある文章を書くという行為はAI時代にも人間の能力として残っていくのではないかとわたしは考えています。

なぜならいまの生成AIは、インターネット全体に存在するテキストデータを学習元にしているから。「藤井風を絶賛する文章を書いてください」と生成AIに命じれば、SNSやブログ、ウェブメディアなどで書かれた藤井風についての文章から、わりに平均的な内容を抽出して答えてくれます。この「平均的な」には傾斜をつけることも可能で、たとえばAIに対して「あなたは詩的な文章を得意とする作家です。藤井風を絶賛する文章を1000文字以内で日本語で書いてください」と指示すれば、平均値よりも「詩的」「作家の文章」に傾斜して出力してくれます。

しかし生成AIは、学習したデータから完全に外れた文章、いわゆる「外れ値」を出力することはありません。吉野家コピペやカンソウさんの「藤井風ヤバイ」は、書かれた時点では完全な外れ値です。ただし吉野家コピペのような流行した文章は、大量の追随を登場させることには注意が必要です。吉野家コピペを見て「オレもこんな文章を書いてみよう」とブログに投稿する人がたくさん現れると、それらは一定度のボリュームのある文章群となって、外れ値ではないものとして生成AIに認知されるようになります。

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