見出し画像

軽井沢から、廃バスと廃墟の峠道をたどって〜フラット登山という提案③

日本人はどんなスポーツでも「道」にしようとする、という議論があります。伝統的な柔道や剣道だけでなく、野球のような外来のスポーツまで「野球道」にして、そこに我慢強さや忍耐のような精神鍛錬のスピリッツを盛り込みたがる。

水戸黄門のテーマ曲みたいな辛い登山

これは登山でも同じです。重い荷物を背負って、重い登山靴を履いて、きつい登山道をひたすら登って、栄光の山頂を目指す。つらければつらいほど良いのだ!という精神。水戸黄門のテーマ曲が鳴り響いてきそうな「道」です。

「人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る 歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を 踏みしめて」「くじけりゃ誰かが 先に行く 後から来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け」

山頂を目指す登山に代わって、近年は「歩く旅」に主眼を置いたロングトレイルも流行ってきています。しかしロングトレイルにしても「長大な距離を歩いた方が偉い」みたいな「道」的価値観が見え隠れして、かなり重苦しい。

山頂なんかどうでもいい。歩く距離も短くていい

そこでわたしが提案しているのが、本シリーズで書いている「フラット登山」(わたしが勝手に作った造語です)。気持ちよい道を気持ちよく歩いていれば、山頂なんかどうでも良い。かといってむやみに長時間を歩く必要もなく、変化に富んださまざまなコースを好きなだけ歩いて、精神鍛錬とか抜きにして楽しもう。それがフラット登山です。

本シリーズでは、このフラット登山の概念について説明した第1回、「栃木のウユニ湖」渡良瀬遊水地のコースを紹介した第2回と書いてきました。今回の3回目は、長野・群馬の県境にある碓氷峠のコースの紹介です。秘境感たっぷりなのでお楽しみを。

まず前振りとして、東京から新潟に行こうと思ったらどういうルートがあると思いますか?

当たり前ですが、鉄道なら上越新幹線、クルマなら関越自動車道でまっすぐ。新幹線なら新潟駅まで2時間かかりません。あっという間です。しかしこの直通ルートは、昭和以前には存在しませんでした。鉄道が関東平野から新潟に越える清水トンネルが開通したのは昭和の初め。それ以前には三国峠という峠越えのルートがありましたが、冬は豪雪、それ以外のシーズンも豪雨や土砂崩れなどが多く自然が厳しくて、だれもが気軽に越えられるところではなかったのです。

東京から新潟・北陸に抜ける唯一の道だった碓氷峠

では昭和以前は、どうやって東京から新潟に行っていたのか。長野経由です。群馬からまっすぐ北に向かうのではなく、いったん西に向かって碓氷峠を越えて軽井沢に出て、長野から大回りして新潟に向かうのが一般的なコースだったのです。

とはいえこの碓氷峠を越えるのも、楽ではありませんでした。現代の北陸新幹線で軽井沢に向かってみるとわかりますが、高崎をすぎると急に前方に山々が迫ってきて、新幹線は山の中に突入していきいきなりトンネルだらけになります。逆に軽井沢の町からクルマを走らせて群馬の方に向かうと、軽井沢駅前の賑やかなあたりを過ぎたあたりでプツンと途切れたように店も家もなにもなくなり、まっさかさまに下るように急な斜面へと道が降下していっています。このあたりは、ほとんど崖のような地形で驚かされます。

碓氷峠を越える道は中山道という古来からの主要な街道でしたが、たいへんな難所だったのです。

出発の朝、軽井沢は雨だった……

碓氷峠に向かったのは、とある日曜日の朝。山仲間と軽井沢駅で待ち合わせしました。あいにくの雨ですが「雨でも晴れでも山は楽しい!」というモットーをつねづね言い合っているわれわれは、気にせず雨具を着用し、傘を差して歩き始めました。軽井沢駅から旧軽銀座を越えて、昔ながらの伝統的な「つるや旅館」を眺めつつさらに進みます。


歩きやすく気持ちの良い別荘地の道

公衆トイレのあるところから数十メートルほど行くと、見晴茶屋への遊歩道を指し示す小さな標識が道路の右側に。ここから別荘地の砂利道をしばらく歩き、吊り橋を渡り、細い登山道へと変わり、だんだんと高度を上げていくのです。旧軽井沢が標高950メートル、碓氷峠は1200メートルあまり。フラット登山と言いつつ250メートルは登らないといけないのですが、この道は高度差をあまり感じさせません。ゆるやかに山腹を巻くように道は続いていて、ゆっくりと高度を上げていく。人にとても優しい気持ちよい道です。


ところどころには立派な橋もある。碓氷峠へと道は続く

鉄製の小さな歩道橋で車道をまたぐ不思議なところがあり、ここでだいたい半分ぐらい。さらに30分ほど歩くと「見晴台」の道しるべのある分岐点に出ます。すぐそこが眺めの良いはずの広場。しかし残念ながら本日は雨天です。

ここには立派なあずまやもあり、雨をよけて昼食をとりました。一帯が碓氷峠の中心地です。車道を少し戻って、長野・群馬のちょうど県境の上に建っている熊野神社にお参りします。周囲にはお茶屋さんなどお店がいくつか並んでいるのですが、道のすぐ先で唐突に集落は終わります。さて、ここからがいよいよ旧中山道。この先は登り道はほとんどなく、群馬県に向かってただ下っていくだけです。

いよいよ旧中山道へと足を踏みいれる

途中に分岐はいくつかあるのですが、道しるべがしっかりしているので迷うことはないでしょう。道幅は一般的な登山道よりは広く、とはいえクルマが走れる林道ほどの広さもなく、とても歩きやすい。

それにしてもこのトレイルは、途中に変なものがたくさんあって驚かされます。


不気味な老婆の立て札。一里塚が江戸時代の浅間大噴火で消滅というのも怖い

まず現れるのが、このガイド立て札。「一つ家跡」というところなのですが、こう書いてある。「ここには老婆がいて 旅人苦しめたと 言われている」

情報が少なすぎる。いったいいつの時代なのか、「苦しめた」っていったい何をしたのでしょうか。ひと気のまったくない旧道。雨がしとしとと降り、霧が立ちこめているなかでこの立て札。天候のせいもありますが、正直気味悪い感じではありました。

古い時代の別荘地の夢の跡

さらにしばらく進むと、今度は唐突に巨大な廃墟が見えてきます。ホテルの跡かなにかだろうか……?と思いながら近寄っていくと、建物の隣には大きなバスの残骸が。なぜここにバスが……? よく見るとバスの横には朽ち果てた看板もあります。「見晴台別荘分譲地」という薄れかけた表示と軽井沢の不動産会社の名前。軽井沢からかなり遠く、群馬県側のこんな稜線上の傾斜地を別荘地にするなんて、いくらなんでも無理があったのでしょう。別荘は建てられた形跡はほとんどなく、周囲には壊れかけた石垣や放置された土管、造成しかけた分譲地の跡などが点在して、なかなか壮絶な光景でした。


このあたりは山道もあちこち崩れかけており難所に感じますが、実際には歩くのに苦労するほどではありません。分岐などもないので、道に迷うこともないでしょう。さらに下ると、茶屋を中心としたらしい古い集落跡があり、「ここには小学校があった」という驚くべきガイド立て札があります。こんな山中の寂しいところに学校があったとは。

やがて栗ヶ原という少し開けた土地に出ました。ここからさらにまっすぐ進めば、栗ヶ原から一時間あまりで群馬側の麓に到着します。「峠の湯」という素敵な日帰り温泉があり、汗を流してサウナも楽しめます。峠の湯から車道でも下れますが、温泉の裏手にまわってみるとトロッコ列車を走らせている旧信越本線の軌道があり、この軌道沿いに歩けば40分ほどでJR横川駅に到着。峠の釜めしで有名な「おぎのや」本店もここにあります。

われわれは難所のあるルートへと向かった

さて、われわれはこのルートを通らず、実は栗ヶ原から別ルートを歩きました。栗ヶ原で周囲を見わたすと、最近になって設置された「めがね橋へ」という道しるべがあるのです。ただしめがね橋へ向かうこのルートは、最後に難所が待っています。栗ヶ原から下りに下った2キロ先で碓氷川をまたぐところがあり、ここは橋が架けられておらず、徒渉しなければならないのです。道しるべの横にも「2km先の川の徒渉は、増水時不可」という厳しい注意書きが貼り付けてあります。2キロも斜面を急降下した後で「これはやっぱり渡れないや」となったら、2キロ登り返すしか方法はありません。抜け道がまったくないという二者択一の選択肢なのです。

登山初心者、あるいは徒渉の経験のない人がいる場合や、さらに降雨の後などは絶対に避けた方がいいでしょう。なのでここから先は、あくまでも「自己責任の範囲」として読んでください。

ではそんな危険を冒してまで、なぜわれわれはめがね橋へと向かったのか。理由は二つあります。ひとつは、この道が「明治天皇御巡幸路」という知る人ぞ知る歴史的な廃道だからです。

ここが明治初期、天皇が全国を巡幸するために歩いた道

先に、東京から新潟、北陸へと向かうのに碓氷峠をこえる中山道が重要なルートになっていたということを書きました。クルマが走る国道や鉄道ができる前は、だれもが中山道を歩いて行ったのです。

それは一国の元首でさえも、同じでした。明治時代に、天皇が全国各地を巡幸するという一大イベントがおこなわれます。まだ若かった明治天皇は、精力的に全国を歩き回りました。そこで問題になったのが、この碓氷峠越え。新潟や北陸に巡幸するためにはどうしてもここを越えなければなりませんが、さすがに天皇をそんなに歩かせるわけにはいかない。

そこで明治政府は、道をつくることを考えました。馬車、もしくは急峻なところでは人間が担ぐ輿(こし)が通れるぐらいの幅の道。そこで拓かれたのが、「明治天皇御巡幸路」です。中山道がいちばんの急な難所になっているところに、並行するように数キロにわたって切り拓かれたのです。

明治11年に完成し、その年に明治天皇は数百人とも言われるおともを引き連れてこの道を通り、無事に新潟から北陸、京都へとまわりました。京都からは東海道経由で東京に戻ったようです。立派な道でしたが、しかしこの道はわずか6年しか使われませんでした。明治17年には、いまも国道として使われている新しい車道が完成して、役目を失ったからです。以降、この道は廃道となって忘れ去られました。

わたしは以前からこの廃道の存在を知っていましたが、通行にはかなり難があるらしくて近寄りがたい存在でした。ところが数年前、地元の群馬県安中市が明治天皇御巡幸路を整備し、トレッキングコースとして歩けるようにしたのです。今回の旅の目的のひとつが、実はこの御巡幸路だったのです。

碓氷川を徒渉し、壮大なめがね橋へ

さて、栗ヶ原から御巡幸路へとわれわれは足を踏みいれました。想像以上に幅の広い道で、近年に整備済みということもあって、非常に快適な坂道です。ただ傾斜はかなりキツく、ここを数百人のスタッフと馬車、輿が登るのはたいへんだったろうなあと往時がしのばれます。「徒渉できなかったらこれを登り返すのか……」と内心思いつつ、急な斜面をジグザグに切った道を、ひたすら駆け下りていきます。


意外にも幅が広く気持ちの良い御巡幸路の廃道

30分ほども下ると、御巡幸路は終わりを告げ、目の前に流れの急な渓谷が現れました。碓氷川です。そこそこ増水していましたが、飛び石づたいに何とか渡ることができました。もう少し水が多ければ難しかったかもしれません。ここはいずれ橋が架けられるかもしれませんが、雨の多い時期はやはり要注意です。水の涸れている冬場のほうが狙い目かもしれません。しかし先にも書いたように、あくまでも自己責任で。


突如として現れるめがね橋の偉容

徒渉して、対岸の砂利道に出ます。わずかに歩くと、旧信越本線のめがね橋の偉容が唐突に姿を現しました。とにかくデカい! 感動しながら、橋のたもとにある階段を上ってめがね橋の上に出ます。ここが信越本線の廃線を整備した通称「アプトの道」です。そう、このアプトの道を歩きたいというのが、栗ヶ原からわざわざこちらに回った2つ目の理由なのでした。


アプトの道のトンネルはアドベンチャー感があって楽しい

アプトの道はレンガで構築された美しいトンネルをいくつも越え、どこまでも続いています。朝からの雨が上がり、太陽が姿を見せ、青い空が広がってきました。遠くの山並みが瑞々しく、さわやかな秋風が吹き抜けていきます。


横川駅に向かう気持ち良い線路跡をひたすら歩く

30分ほどで「峠の湯」に到着。さらにその先の横川駅でゴールするまで、軽井沢駅から約6時間の濃密な旅でした。

【歩行タイム】
軽井沢駅から横川駅まで、どちらのコースでもおおむね6時間ぐらい。
【難易度(レベル1=初心者でも誰でも〜レベル4=そこそこ難易度高し)】
御巡幸路に近寄らず、栗ヶ原からまっすぐ峠の湯に降りるコースはレベル2。あまり一般的ではない道で、歩いている人も少ない。
御巡幸路からアプトの道は、レベル4。碓氷川の徒渉はかなり危険です。
【高低差】
登りは旧軽井沢から碓氷峠までのみ。軽井沢駅〜旧軽井沢、峠の湯〜横川駅はほぼ平坦で、碓氷峠から峠の湯まではひたすら下りです。
【足まわり】
道がぬかるんでいることもあるので、登山靴が良いでしょう。
【お勧めの季節】
碓氷峠は冬は積雪があります。適期は5月ごろから10月いっぱいぐらいまで。
【注意点】
登山者の姿はなく、山小屋や人家もなく、エスケープルートもありません。御巡幸路を避ければ危険なところはありませんが、最後まで歩き通す自信をもてる人だけが歩きましょう。ただしそれに見合うだけの秘境的な魅力はたっぷりあります。
【その他】
アプトの道だけを歩くのであれば、軽井沢駅から横川駅行きのバスが出ており、熊ノ平バス停下車。ただしこのバスは春夏秋の土休日のみの運行なので、運行してるかどうかはJRバスに確認しましょう。なお間違えてバイパス経由の横川行きに乗らないこと。熊ノ平で降りられるのは「旧道経由便」のみです。なお軽井沢駅からタクシーで行く方法もあります。料金は2500円前後。
熊ノ平からアプトの道を歩き、峠の湯を経て横川駅までは、歩いてだいたい1時間半。運動靴で大丈夫な気軽な散歩です。


雑すぎるルートマップ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?