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AIの生み出すコンテンツは「物語消費」されるようになるのだろうか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.748

特集 AIの生み出すコンテンツは「物語消費」されるようになるのだろうか〜〜〜物語には、リスペクトの交換という相互作用が必要である


ジェネレーティブAIが生成するコンテンツには、コンテキストが存在しません。文化はつねにコンテンツとコンテキストの両面があってこそ成立するようになってっきています。コンテンツが作品そのものであるのに対して、コンテキストは、その作品が持っている背景事情や文脈のことを指します。


コンテキストの重要性を考える題材として、将棋を考えてみればわかりやすいでしょう。藤井聡太さんが渡辺明さんに勝利し、六つ目のタイトルとなる棋王を獲得しました。


熱狂的に見ていたファンは多いと思いますが、この対戦は単に対戦そのものというコンテンツだけでなく、藤井さんが史上最年少でここまで上りつめてきたことや、その飾らない性格や、さらには対戦中のおやつに何を食べるのかといったたくさんのコンテキストに彩られることによって豊かなふくらみがあり、鑑賞するファンの側も楽しみが広がっているのです。


クラシック音楽のようなハイカルチャーも、近代の中流階級にあった「上流の教養への憧れ」というコンテキストが脱落していった結果、その音楽家がどのような半生を歩んできたのかといったパーソナリティのコンテキストが人気を押し上げる大きな要因になってきています。


たとえばゴーストライター事件で話題になった作曲家佐村河内守さんの「被爆二世・聴覚障がい」、ピアニストのフジコ・ヘミングさんの「無国籍者として貧困と孤独の半生」といったコンテキストがまさにそうである、というのは前回も書いた通りです。このようなケースは藤井聡太さんの将棋とくらべ、コンテキストの占める役割が大きくなっており、コンテキストとコンテンツのバランスが若干危うくなっています。


これは「コンテキスト消費」と呼べる現象でしょう。


人がなにかの商品を消費するとき、その消費のしかたは20世紀になって「機能消費」から「記号消費」と進みました。


もともとクルマを購入するということの意味は、移動の手段という機能のためでした。アメリカのT型フォードとか、日本の大衆車の先駆けであるパブリカなどの時代には、ただひたすら「クルマを買えば移動が自由になる」ということを目指して人々はクルマを購入したわけです。


しかし消費社会が成熟してきて、クルマをだれもが持つようになると、だんだんと「クルマを持っているだけ」では満足できなくなってくる。そこでBMWやメルセデスベンツのような輸入車を買い「自分はこういう高級車に乗れるハイソな人間なんだ」という記号に頼るようになります。


「いつかはクラウン」という広告コピーがありましたが、サラリーマンが部長とか役員の役職にまで上がってくると、自分のポジションの確認のために国産車の最上級であるクラウンを買う。こういう消費はクルマの機能ではなく、特定のクルマの持つ記号を消費しているから、記号消費。そしてその記号はあくまでも、「自分をハイソに見せたい」「自分を背伸びさせたい」という欲求を満たすものだったわけで、「背伸び消費」だったということです。


しかしこうした背伸び消費は、21世紀に入ると衰退します。ルイ・ヴィトンやシャネルなどの高級ブランドのバッグを持つ若い女性は少なくなり、高級輸入車の所有をステータスと感じる若者もいなくなってしまいました。


地方都市では、いまもクルマを好む人たちがたくさんいます。わたしが拠点を構えている福井でも、周囲の友人たちはクルマが好きな人が多い。しかし彼らのクルマの消費スタイルも、やはり昔とは変わってきていると感じます。


「地方のヤンキー」といえば、昔は「金文字ロゴのセルシオ」が憧れのクルマなどと言われていた時代がありました。しかしいまでは人気のクルマは、大型ミニバンのアルファードやエルグランド。しかしこれらの高級車が、ルイ・ヴィトンのような背伸び消費なのかというと、わたしは少し違う受け止め方をしています。


2000年代に「ジモティ」ということばが流行ったことがあります。「地元の人」という意味ですが、ただ地元のことを指すだけではありません。昭和のころのヤンキーが「成り上がり」の上昇志向を持っていたとすれば、21世紀の地方の若者は、地元を愛し地元の仲間と楽しく暮らしていければいい、というような新しい共同体感覚を持っている。そういう価値観を指したことばです。


現代のジモティは上昇志向を持っていないので、クルマにも上昇志向は求めていません。高価なアルファードやエルグランドを好んでいますが、それは仲間たちと一緒に過ごせるクローズドで居心地の良い空間を持つことができるからです。車内空間の狭いスポーツカーやセダンでは、仲間をもてなすこともできない。そうではなく、大型のミニバンでみんなと楽しく談笑しながら、中核都市のイオンモールに行き、ラウンドワンで遊び、食事とショッピングを楽しむというのが現代のヤンキー的な共同体のリアルなのです。


つまり同じ高級車に乗っていても、昔のような「背伸び消費」はすでにヤンキー文化でも消滅しており、地元の仲間たちのあいだで認められたいというつながりの欲求に変わっているのです。こういう信頼や承認のようななものが、いまの時代においてさまざまな物語への訴求へとつながり、物語が求められるという背景になっているように思えます。


私たちはコンテンツや商品単体ではなく、そのコンテンツや商品に付随するコンテキストに物語があるからこそ、その物語をテコにしてコンテンツや商品を信頼することができるということなのです。


古い著書になりますが、わたしは2011年の本『キュレーションの時代』で、以下のように書ています。


「消費する対象としての商品や情報やサービス。そうした消費を取り巻くコンテキスト。なぜ私たちはいまこの場所とこの時間に存在しているのか。それをこの商品はどう演出してくれるのか。その消費を介して、私たちはどんな世界とつながり、どんな人たちとつながるのか。その向こう側にあるのは新しい世界か、それとも懐かしく暖かい場所なのか、それとも透明な風の吹きすさぶ荒野なのか」


「コンテキストは文脈というように訳されますが、そのようにして消費を通じて人と人がつながるための空間、その圏域をつくるある種の物語のような文脈がコンテキストということなのです。そのコンテキストという物語を通じて、私たちはおたがいに承認し、接続していくことができる」


つまりはコンテンツや商品の消費のむこうがわに、人の存在を見るということ、他者の存在を認識するということが物語消費の本質であるということです。コンテンツは物語というコンテキストによって消費される。しかし「人と人のつながり」が重視される現代においては、物語は「人の存在」がカナメになっているということなのです。


ここでジェネレーティブAIの話に戻りましょう。AIの生成するコンテンツには、人と人のつながりという物語は存在しません。わたしたちは藤井聡太さんの将棋を藤井聡太さんというパーソナリティの物語とともにワクワクしながら楽しみますが、AI同士の将棋の対戦は楽しめません。少なくとも現時点のAIでは。

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