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「不快なもの」をなぜ社会から除外してはならないのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.683

特集 「不快なもの」をなぜ社会から除外してはならないのか
〜〜悪影響も好影響もあらゆるものは影響し合っている

社会は、それぞれの人にとって不快なものであふれています。静かな旅行を楽しみたい人は、コロナ禍だというのに新幹線で大騒ぎするウェーイなパーティピープルを不快だと思うし、ウェーイな人は無口で積極的な意思表示をしないオタクな人を「なんだこいつ気持ち悪いな」と不快に思うかもしれません。小生意気な若い女の言動を不快に思う中高年の男性もいれば、「オジサン臭い」と中高年男性を不快に思う若い女性もいる。みんながみんなを不快に思っているのです。

そういう不快が社会にはたくさんある。近代になって都市に人口が集中するようになり、他人を不快に思う機会は農村の時代からくらべればずいぶん増えたのだと思います。さらにはインターネットが普及して、不快なものを「目にしてしまう」機会はずいぶんと増えました。それでも2000年代半ばごろまで、検索エンジンとポータルサイトぐらいしか情報にリーチする方法がなかったころはまだ良かった。ネットの情報はすべてプル(自ら引っ張ってくるもの)であり、わざわざ探しに行かなければ目にすることもなかったのです。

ところがツイッターやフェイスブックのようなSNSが普及すると、プッシュ(向こうからこちらにやってくるもの)の情報が大幅に増えました。見たくなくても、自分のタイムラインに勝手に流れてきてしまうようになったのです。

振り返って見ると、ネット以前の1990年代までの世界では、大多数の人が毎日のように目にするテレビや新聞が「プル」でした。しかし新聞やテレビは公的なメディアとして不快なものはなるべくフィルタリングされていたので、不快感が大きく表明されることはありませんでした。とはいえ(これは後述しますが)テレビは黎明期には非常に混沌とした泥水のような世界で、面白いけれども不快なコンテンツがたくさんありました。

例をひとつ挙げると、1969年に放送された『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』(日本テレビ系)という人気番組の「野球拳」コーナーが好例でしょう。これは「アウト!セーフ!よよいのよい」のかけ声で男女がジャンケンして、負けたほうが1枚ずつ服を脱いでいくという演し物です。有名女性タレントが数々出演し、バスタオルで身体を巻いて服を脱いでいく姿に当時の視聴者はたいへん興奮しました。おまけに脱いだ衣装はその場でオークションにかけられて売られたというビックリの設定。それもあってものすごい視聴率を奪い、視聴率が30%を超えたというのですからすごいとしか言いようがありません。

それにしても今やると大炎上必至というか、そもそもそんな番組ネタが局を通るわけありませんが……。しかし当時でもこの番組には抗議が殺到し、それもあって人気番組だったのにもかかわらず1年であっけなく放送終了になってしまいました。

話を戻すと、ネット以前のマスメディアにおいて最も不快なコンテンツが溢れていたのは、雑誌の世界でした。雑誌文化が全盛だった1990年代が典型的ですが、「鬼畜系」と呼ばれたような死体写真や麻薬、殺人などをとりあげた雑誌がたくさん存在しました。しばらく前に小山田圭吾さんの「いじめ告白インタビュー」が問題になりましたが、この記事も鬼畜系の文化の中から生まれたものだったというのは多くの人が指摘しているところです。

こうした記事の多くは、この分野の愛好者ではない人にとってはきわめて不快だったでしょう。しかし鬼畜系は1990年代当時、とくだん大きな社会問題になることはありませんでした。時代の空気感の違いもあるとは思いますが、それ以上に雑誌というメディアが「プル」だったからです。つまりわざわざ書店の端のほうにある怪しい雑誌が並んでいるコーナーに「プル」しに行かなければ、手に取る機会もなかったということなのです。

2019年になって、雑誌『週刊SPA!』が「ヤレる女子大学生RANKING」というなんとも下品な記事を掲載し、大炎上して編集部が謝罪するという事件がありました。わたしは編集部を擁護する気はまったくありませんが、この種の記事は1990年代の男性誌ではごく普通でした。そもそも男性誌にしか掲載されていなかったので、女性の目に触れることもあまりなかったのです。しかし2019年では、仮に掲載場所が紙の雑誌だとしても、それが誰かに見つけられてツイッターなどに投稿されたとたんに、またたく間にバズって女性も含めた多くの人の目に触れてしまう。プルだったはずの雑誌の記事が、ネットを経由することでプッシュに変えてしまうのです。

このようにして、インターネットは不快なものをプルからプッシュへと変容させました。見たくなくても不快なものがタイムラインを経てガンガン目に入ってくる時代になったのです。このような面倒な時代に、わたしたちは不快とどう向き合えばいいのでしょうか。

「多様性とはみんなが仲良くすることではなく、たがいの不快を我慢することである」というのは、最近になってよく言われるようになったことです。とはいえ、SNSの普及によってあらゆる情報がプッシュになっている時代に、不快を我慢することはそうかんたんではありません。それどころか「不快は我慢しなければならない。不快を口にすることは許されない」としてしまうと、それは逆に表現の自由を抑制してしまうことになりかねません。

だから自分が不快と感じるものに対して、「それは不快である」という権利は確保されています。しかし逆に「あなたは不快かもしれないし、不快を表明してもかまわないが、不快を理由に表現の自由を規制してはならない」と反論する自由も確保されている。そういう議論は行われるべきだとわたしは考えています。

また、自分が不快だと思うものに対して「こういう表現が広まると、犯罪・性暴力・差別を助長する」というロジックで批判する人たちもいます。このロジックは正しいのでしょうか? 

これについては意見の分かれるところでしょう。過去には「不快な表現が犯罪などの行為に影響を与える」という研究もありますし、その逆の結論の研究もあります。わたしの観測の範囲では、決定的な正解はありません。しかし考えてみてもください、なんらかの表現や情報が人の行動に悪影響を与えると断定したとしても、その原因が「映画やアニメや鬼畜雑誌や萌え絵だけである」と決めつける根拠はどこにあるのでしょうか?

たとえば児童ポルノ犯罪についてのテレビの報道が、同種の犯罪の呼び水となることはないのでしょうか? あるいは今年8月、東京の小田急線車両内で男が他の乗客に牛刀で切りつけ、「幸せそうな女性を見ると殺してやりたい」と供述した事件があり、11月にはジョーカーの扮装をした男が京王線で同種の犯行に及び、さらに連鎖的に似たような事件が続発しましたが、これは事件報道の悪影響ではないのでしょうか?

自殺報道が自殺を連鎖的に呼び起こすということも、これまでさんざん指摘されています。有名なケースで言えば、1986年にアイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺し、自殺が激増したというのは有名な話です。この年の19歳以下の自殺者は802人で、前年比255人も増加。そして翌1987年にはふたたび225人も激減しているのです。この数字の激しい振り子にほかに考えられる要因はなく、自殺報道の影響以外には考えられません。

誤解しないでいただきたいのですが、わたしは犯罪や自殺の報道を「やめろ」と言っているのではありません。この世の中で何が起きているのかを伝え、社会でその事実を広く共有するというのは報道の大切な役割であり、否定するものではないと思っています。そうではなく、ここで言いたいのは、

「あらゆるものは影響し合っている」

ということなのです。アニメや萌え絵や犯罪報道やSNSでのだれかのバズった投稿や、さまざまなものが影響し合って、それは時に悪影響を引き起こすことがあり、逆に好影響を与えることもある。アニメ『鬼滅の刃』の残虐な描写はなんらかの悪い影響を与えることもあるでしょうし、描かれる友情や「心を燃やせ!」というセリフが人びとに勇気を与えることもある。そういう認識を持っておかないと「悪影響をすべて排除しなければならない!」という良くない思考に陥ってしまう危険があります。

さまざまな表現からすべての悪影響を排除しようとすると、あらゆるコンテンツを排除しなければならなくなる。それは価値観をひとつに染めていってしまうことであり、完璧にコントロールされた全体主義への道でしかありません。

だからわたしたちが気をつけるべきは、表現そのものを排除することではなく、それらの表現から自分が良い影響を得ようとつねに心がけることなのです。

そもそも「犯罪や差別が助長される」とさまざまな表現を批判する人たちは、自分たちは影響されていないと考えているのでしょうか? そのような神の視点はずいぶんなパターナリズム(親が子どものためによかれと思って無理矢理介入してくるような、良くない考え方)だと思います。

逆にそのような「差別が助長される!許すな!」というようなことばかり発言していると、同じ考えを持った人たちばかりがまわりに集まってくることになり、エコーチャンバー(反響室)になっていきます。まったく単一の価値観ばかりがみっちりと濃度の濃いウィスキーのように醸成されて、全体主義的な傾向が強まり、その悪影響を強く受けてしまうことになる。

だからそういう人たちに、わたしが言いたいのは「あなたがたの言動は、全体主義を助長していませんか?」ということです。

いっぽうで、不快なものは実は文化の源泉でもあります。

たとえば犯罪の当事者によって書かれた作品は、第三者の取材では描ききれない重さを持っています。わたしは事件記者時代、そうした本を読んでは「ここまでの深みは新聞の取材じゃ絶対に到達しないな……」と何度も打ちのめされました。たとえば埼玉愛犬家連続殺人を共犯者の目から描いた『共犯者』(新潮社)という本はその好例で、園子温監督の映画『冷たい熱帯魚』のモデルにもなっています。

そういうとまた「犯罪を認めるのか」とクソリプが飛んでくるでしょうが、犯罪の是非がどうとかいう道徳的な話ではありません。犯罪は許してはならないのはもちろんあたりまえです。犯罪が立証された者は罪を償わなければならないし、犯罪が起きないような社会を目指すのも当然のことです。

しかし同時に、私たちの社会は決して完璧にクリーンな場所ではないのです。平和でおだやかに見える社会でも、薄皮を一枚めくれば、犯罪者や逃亡者、暴力団、半グレなど、社会の裏側で生きる人たちがうごめいている別の層が立ち現れてくるのです。こうした異世界は、決して消えてなくならないし、フィクションであれノンフィクションであれそれを描き出すことは、社会として事実を共有するという点でたいへん価値のあることです。

2011年に出た『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』(幻冬社)という本もあります。英会話学校講師のイギリス人女性を殺害し、逃走し続けた加害者が、逃走の日々をみずから描いたものです。この本が出た時に、わたしは朝日新聞読書面の「売れてる本」コーナーで取り上げました。800文字足らずなので、全文を引用しましょう。

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