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日本のアニメと「成城石井」の戦略はどこか似ている 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.742

特集 日本のアニメと「成城石井」の戦略はどこか似ている〜〜〜ホリゾンタルなビジネスと、バーティカルなビジネス


この正月休みでの映画興行収入ランキングで、世界で爆発的なヒット驀進中の『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』は日本では3位にとどまり、1位2位は『THE FIRST SLAM DUNK』と『すずめの戸締まり』というアニメ作品2作が独占したことが話題になっていました。


この理由についてはさまざまな推測がされており、それらをまとめた以下の記事などけっこう面白いです。




この記事はこう書いています。


「なぜ日本で洋画作品が売れづらくなっているのか、その最も大きい理由は日本の自国コンテンツ、つまり邦画の存在感が非常に大きいと言うことが挙げられる」


他にも要因はあるのかもしれませんが、日本の映画作品、特にアニメの存在感が圧倒的であるということに同意する人は多いのではないでしょうか。振り返って見れば、わたしは昔から映画好きでしたが、以前はアニメなどほとんど観ていませんでした。雑誌『映画芸術』や『キネマ旬報』で紹介されるような文芸性の高い作品が好きだったのですが、気がつけば近年はアニメばかり観るようになっています。


これは余談になりますが、国産アニメが隆盛を迎えているいっぽうで、日本の実写映画は衰退するばかりです。


もちろん傑作や良作もたくさんあるのですが、いっぽうでメジャーな作品には「アイドル出しときゃファンが観るだろう」みたいな作品があふれてます。そしてアイドルが出せない低予算映画となると、同じようなシナリオの索引ばかりがあふれているのに驚きます。


わたしは『ぴあ』で映画評を書いていることもあり、毎月かなりたくさんの作品を試写で観ていますが、「都会に疲れてとある地方都市に流れてきた若者が、地元の人との触れあいを通じて成長する姿を描く」とか「街の片隅で、よるべない若者たちの心の交流を描く」とか、低予算映画はそんな設定の作品が異常なほど多い。いったいこの異様さは何なのだろうとも感じています。低予算でも、もっと面白い脚本は書けるだろうに……。


これはアメリカ映画ですが、いま日本でも公開中の『対峙』という作品。


舞台はどこかの田舎町の教会にある会議室。出てくる主要な登場人物は、たった4人。出てる俳優も渋い中年の男優女優で、演技は素晴らしいのですが、だれもが知るような有名俳優ではありません。つまりまったく予算はかかってなさそうな映画なのです。しかし全編にわたって緊迫感のある会話とほとばしる激情が交わりあって、すごい傑作になっています。こういう作品を観てしまうと、「映画は必ずしも予算じゃないよなあ」と深々と思います。


話を戻します。さて、いっぽうで日本のアニメは近年驚くほどの進化を遂げている、というのはわたしなんかよりもこの記事を読んでいただいている皆さんのほうが詳しいでしょう。わたしが個人的に日本のアニメについて面白いと感じるのは、日本のアニメ作家や漫画家の人たちは決して当初から「グローバル展開」を考えてこの素晴らしい文化を生み出したのではなかった、ということです。スタート地点からグローバルのマーケットに狙いを定めてやってきた韓国の音楽や映画・ドラマとは、そこが決定的に異なっている点ではないでしょうか。


ここで注目すべきポイントは、日本のアニメが世界の人々のすべての層に受けているというわけではない、ということです。特に欧米ではアニメは「子ども向けのコンテンツ」という印象がもともと強く、大人でアニメファンになるというのは以前はかなりのコア層(いわゆる欧米のオタクです)だけでした。これがだんだんと大衆化して、欧米の大人もエンターテインメントとしてアニメを楽しむように変化してきているというのが現状でしょう。


つまりアニメはもともと日本のローカルコンテンツでしかなかったし、制作する側も日本のファン層しかターゲットにしていなかった。それがだんだんと海外のファン層にピンポイントで広がっていった。つまり「点」が「線」になっていったということです。さらに海外の一般層にまで広がっていけば、「線」は「面」になっていく。


このような広がりかたは、当初からグローバル展開を目指したBTSに象徴されるような韓国の戦略とはまったく異なると言えるでしょう。そして日本アニメのこのような展開について、かつてニューヨークタイムズ紙のトーマス・フリードマンが『フラット化する世界』という名著で、次のように記述していたのを思い出しました。


「ローカルな文化、芸術形式、様式、料理、文学、映像のグローバル化が促進され、ローカルなコンテンツがグローバル化する」


YouTubeやTikTok、Spotfiy、Netflixなど、コンテンツを共有するプラットフォームがグローバル化していく中で、アメリカに住んでいようが中国に住んでいようが、アフリカにいようが、同じコンテンツを楽しみ、シェアすることは世界中のだれもが可能になっていっています。


「グローバル化」というと以前は、「グローバル化によって世界中の文化が統合されてしまい、国ごと民族ごとの独自性が失われてしまう危険性がある」というステレオタイプな言説が横行していた時代もありました。「マクドナルド化」というような言い方もされていたのです。


たしかに20世紀の社会では、そのような「文化侵略」が起きていたのは事実です。その代表例が、ハリウッド映画やロックミュージックに代表されるようなアメリカのソフトパワーでしょう。これには媒体のパワーの後押しもありました。世界に配給する能力を持つハリウッド映画、世界にCDを売りまくる力を持つアメリカのメジャーレーベルなどのパワーに対抗する情報発信手段を、アメリカ以外の国は持つことは非常に難しかったのです。


しかしインターネットの情報爆発の中で、情報の需給バランスが崩れ供給が需要を大幅に上回るようになって、媒体そのもののパワーは相対的に低下しています。配信を担うのは媒体からSNSや共有サイトなどのプラットフォームへと変化し、その中ではより自由にコンテンツが流通するようになったのです。


世界中の発信者は、さまざまなコンテンツをプラットフォームを経由して発信します。ローカルなコンテンツであっても、それはプラットフォームを経由して世界に届く。そうしたコンテンツは、同じ国や民族や地域の消費者だけでなく、そこに「共感」を抱くことのできる世界中の文化圏域の人たちに受容されていくことが可能になる。これが日本のアニメの成功の背景にある構造変化なのではないかとわたしは考えています。


プラットフォームには、ホリゾンタル(水平的)なプラットフォームと、バーティカル(垂直的)なプラットフォームという二つの方向性があるとわたしは考えています。最初からグローバルな展開を狙って水平的に広げていくのが、ホリゾンタルなプラットフォーム。いっぽうでひたすらもぐり込んで、ファン層に深く刺さるコンテンツを探っていくのがバーティカルなプラットフォーム。前者が韓国の音楽や映画・ドラマで、後者が日本のアニメです。


これは流通ビジネスに例をとれば、さらにわかりやすいと思います。水平に広げていくホリゾンタルなプラットフォームは、イオンやセブンイレブン、アマゾンです。ありとあらゆる商品を揃え、その店に行けば何でも購入できるということを謳い、水平展開していくビジネスです。


では流通におけるバーティカル(垂直的)なプラットフォームとはどのようなものでしょうか? わたしは成城石井がその典型だと捉えています。


成城石井については、2016年に刊行したわたしの著書『そして、暮らしは共同体になる。』で取りあげています。ここでは同書に紹介した内容に沿って、説明していきましょう。


成城石井は都市型のスーパーチェーンで、ハムやチーズ、ワイン、スイーツなどのセレクトが非常に良いことで有名。店舗はどこも比較的小さく、そのかわりに棚にぎっしりと多様な商品を並べ、典型的な「少量多品種」の品ぞろえです。東京を中心とした首都圏中心のチェーンですが、最近は東北や関西にも進出しているようです。


一般のスーパーにくらべれば、値段はかなり高め。しかし紀伊國屋などと異なり、成城石井は「富裕層向け」とは打ち出していません。金持ち相手の高級スーパーではなく、「少しスペシャルな食事を」という時に使うお店だと定義しているのです。


成城石井ではワインはおおむね1000円〜2000円台、またチーズや総菜は、1000円ぐらいで収まる価格帯になっていて、これらはいずれも街のフレンチビストロと同じ価格帯にしてあるとか。つまりお手軽なビストロに食事にいくぐらいの気持ちで、かわりに成城石井でチーズや生ハムやお総菜、ワインを購入し、家飲みする。これは「外食から家めしへ」という近年のトレンドにも合致しており、新しい消費動向の良い受け皿になっているということなのでしょう。


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