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3章 社会学の機能・役割

1節 分析、改善案、その際の思考のあり方について

社会学的な状況改善の作法について

社会学では、構造・表彰があると申し上げました。似た概念で、前提・背景(手持ち)を考えます。
これを含め、状況の改善に際しては、
現状分析>前提・背景の把握>処方箋
をセットにして考えます。
現状分析>処方箋
にしてしまうと、逆効果にもなり得るため、「なぜそれが、そこで起きたか」の考察が肝要になります。

言い換えると、「その事象は、どういう条件下で起きたか」となります。その条件に、ある作用が直接的な原因となり、ある状況がもたらされるわけですが、「その条件の変更・改善、何かを変える時、良かったものまで無くしてしまわないか」への眼差しがユニークな点と言えます。

この思考は保守主義に遡ります。

保守主義と変化

保守主義の父エドマンド・バークは「かつて何かの理由で塀があったとしたら、今その塀の必要性が感じられなくても、大きな不利益がない限り無くさないべきだ」と言う趣旨のことを語っています。保守主義の思想は古いもの=優れたもの、と言う枠でなく、古くからあるものには何かの意図、効果があってあ理、時にそれは人の叡智・論理を超えているので、変えるさいは慎重に変えるべきだ、と言うことになります。

もう少し発展させると、変える時に、何か元々あった大切なものが損なわれるのではないか?と注意をして変化させる。気持ちよさ、やった感のためは論外として、然るべき変化の理由があったとしても、見えていないメリットはなんなのか?に思いを巡らせた上での変化が重要です。
このような時代ですから、どちらかと言うと変化は重要で必要と思います。ただその際に、意思決定者は謙虚に自分の知性やデータの限界、そもそもの人間の知性の限界を知った上での決断を推奨します。覆水盆に返らず、一度失ったものは元に戻せないことが多いですから。

専門家について

この原稿を書いている時(2024年年始)で、松本人志氏の所業が週刊誌にリークされました。私の専門家ではないので、この件については意見を伏せます。
そもそも、この「私は専門家でない」という構えが、日本でほとんどないことは驚きではないでしょうか?例えば起業家、例えばタレント、などが、いろいろな問題について公の場を借りて意見表明し、それに納得している。もちろん事前に台本や、コンプラの確認をした上でだと思うのでよっぽど変な発言はないのですが(それでもたまにありますが)、あまりにも無意味と感じます。
もちろんこの問題はメディア(が都合いい知識人だけを使う、なぜならスポンサーなどの利害関係がとてつもなく複雑なので)問題に帰着しますが、それ以前の「社会における専門家・学者」について言及したいと思います。

キーワードは、力と知識社会化です
力について言えば、社会学では「知識人は知恵はあるけど力はない、民衆は力はあるけど知恵がない」と言われ、その融合がとても重要視されていました。
取り組み例としては、映画『コングレス未来会議』、また欧州での市民会議(今は気候市民会議として有名)のように、専門家+市民からなる会議のあり方があります。そこでの専門家の役割は、「学術的な事実や見解をアドバイスすること」であり、あくまで決定はそこで生活する市民の手に委ねられる、ことがポイントです。アナロジーを使うと、コンサルタントおよび経営者が意思決定するのでなく、従業員がそれを聞いた上で意思決定する、ことになるでしょうか。
当然ながら人は、自分で意思決定したこと、納得したことに力が湧きます。ゆえにこの構図はとても重要と言えます。*一方で、政治家が意思決定したことを、理解・納得・共感させる技術もまた政治家にとって重要になりますが、この話は他述いたします。

もう1つは知識社会化です。人も社会も過ちを起こすものです、重要なことは孔子の「過ちて改めざる、これを過ちという」、この言葉のように、改めることです。そのためにはなぜそのようなことが起きたかの、専門家による分析と当人たちの反省が不可欠です。また誤った人へが復帰できる寛容な社会設計も不可避でしょう(そうでないと、容認・反省してしまったが最後になってしまうので、容認・反省しなくなる)。
この過ち・反省・適切な内部帰属化・外部(社会)帰属化(すなわち知識社会化)を経て、社会も人もより倫理的になっていくことと思います。
どの点も現在は十分ではなく(それでも以前のように揉み消されるよりはだいぶマシだと思いますが)今後も正しく社会が発展していくために忘れたくないポイントです。

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