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川柳句集、なかはられいこ、『くちびるにウエハース』、から、川柳人は何を学ぶか?【柳論】

 ひとつのレトリックを用いることによって浮き彫りになってしまう、自分の作品の引き出しのなさへの負い目と恥ずかしさを、乗り越えてみたときに何が見えるか。何かが見えるのだとすれば、この負い目と恥ずかしさとを乗り越える勇気が湧いてくるだろう。大抵、ある程度の内省を行う人にとってそれは勇気の問題だ。
 『くちびるにウエハース』に収録されている「とと、とと、と」と名付けられた章は、13句を含み、うち10の句に格助詞の「と」(比較の対象)が用いられている。要するに、それが"ひとつのレトリック"なのだが。なかはられいこは、"ひとつのレトリック"を用いている、より詳しくいえば、一つの章の中で集中的に格助詞「と」に向き合っている。

無花果と柘榴どちらが夜ですか
くしゃみから雨と梔子は生まれ
くちぶえとさざんか急に降ってくる
「と」にするか南瓜炊けたか「を」にするか

『くちびるにウエハース』「とと、とと、と」

 4句を抜いてみたが、まず最初の1句目は、「と」の句の第1の技法を示している。無花果、柘榴を夜でまとめること。
 次の句は、その派生で、くしゃみを雨、梔子に分解すること。
 この二つは、「と」の初級編としてもいいだろう。
 3句目は1句目と同じ技法なのだが、4句目がこの章にはある。「と」に向き合う句作の自体が句にされ、掲げられている。この句をまじめに捉えてやると、3句目を別様に読むことができる。1句目の「と」は「を」に変えても成り立たないが、「くちぶえをさざんか急に降ってくる」は成り立つ。
 「くちぶえをさざんか急に降ってくる」とすれば、くちぶえが入力となり、さざんかという出力がある、と読めるのだが、なかはら句では、「くちぶえとさざんか」が出力されるのだ。(なかはられいこの川柳の特徴は、出力が、〈降る〉という仕方で現れることも後に確認したい。)
 さて、すると、連作タイトル「とと、とと、と」の一つの解釈が浮かんでくる(以下の解釈はなかはらさんに少しお話してみたのだが、否定されている、がそんなことは私が昨日泣いた理由くらいどうでもいいことだ)。
 すなわち、「と」で結ぶことしかできない〈とと〉と、3句目のような「と」で結ばなくともよい〈と、と〉とが存在する。この連作には、「〈とと〉、と〈と、と〉」の"ふたつのレトリック"が存在すると読むことができる。
 2句目も、「と」を「を」に入れ換えてみるといい。この置換によって、意味レベルの区切りが生まれる。「くしゃみから雨を梔子は生まれ」。こうするとくしゃみという入力から雨という出力が生まれ、完全に孤立した梔子の出力が現れる。しかし、なかはらの川柳はそのようにはなっていない。 
 「雨」と「梔子」が、こちらも半ば〈降る〉というイメージを付随しながら出力されるのだ。おそらく、この意味において、この句は入力と出力の逆転によってなかはらの川柳となっている。〈降る〉が出力に現れるのであって、くしゃみは日常における出力側の領土から追い出されてしまっている。
 足早な結論。〈と〉には接続と同時に分断が存在する。すなわち、〈とと〉と〈と、と〉である。権力関係は、かなりの差がある。かなり弱い条件によって〈とと〉は作動する。例えば、1句目のような「どちら〜ですか」という何れかを問う形式、あるいは、初めのページにある、

空と犬とちくわが好きなぼくの女神

など。
 これらは、〈と、と〉句になり得ない。すなわち、二つの「と」を分けることができない。
 このようにふたつのレトリックが現れた。この連作から、川柳人であるあなたはこの事実を持ち帰ることができる。

 …それだけでも良いのだが、ここからよりなかはらに近づくことはできるだろうか?私は近づこう。〈と、と〉に奇妙な仕方で挿入された読点に。
 なかはられいこの読点「、」には注意を払わなければならない。以下の句は、なかはらの最も有名な句と言ってもよいだろう。今から約20年前に作られ、以降、幾たびも、いくつもの仕方で読まれてきた句。

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ

『くちびるにウエハース』「2001/09/11」

 この句によって、時事、定型、川柳の形式としての穿、その他もろもろ、何れの発明についてもサポートされているように思える。
 20年、この句が忘れられることはなかった。なかはらの読点に注意を払う権利はここにある。この句が、句集『くちびるにウエハース』に長い時間をかけてもなお収録されることになったのだから、私はこの句の発明を分割しようと思う。チャレンジングだろうか。

 この句の発明は、詩の表現形式における読点にあらかじめ備わった「分断」の機能に、「降る」の機能の付加をしたことである。これが私の請求である。 
 いくつか句を抜いてみよう。

落下する、ひと、かみ、がらす、コップをたおす p57
読点を置くべき箇所に笠智衆 p69
どうも、どうも、どうも、と春の雪が降る p98
朝がきて、空が青くて、なんかごめん p106
はらはらと金輪際が降ってくる p121
ひじき、ひじき、踊ってくださいと言う雨だ p137

 「落下する、ひと、かみ、がらす、コップをたおす」は「ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ」の2句後に登場する。「、」は、落下する、〈降る〉仕方の出力として読める(2001年時点で、空から降ってくるのは、人であり、瓦礫だったのだ・・・雨ではなく、花びらでなく、葉っぱでなく・・・)。
 「どうも、どうも、どうも、と春の雪が降る」は、この911の句とは異なり、春の雪が会釈をしながら降る様子が「、」に委ねられている。「はらはらと金輪際が降ってくる」は、空から降ってくる出力を、なかはらの仕方でねじまげている。金輪際が、秋の西日を連想させる川柳的な写生句(もちろん写生句ではない)に仕立てあげている。
 「読点を置くべき箇所に笠智衆」は、置くべきというのが面白い。なかはらの句における読点は、意味の分割だけでなく、〈降る〉のイメージがつきまとう。本来降ってはいないものが、事実を描写しようとしたときに、降ってしまう。「笠智衆」は、911の句に対する遅れた「※これからショッキングな映像が流れますので、ご注意ください」という注意書きのようだ。
 「朝がきて、空が青くて、なんかごめん」では空の青さが降り注ぎ、事実降っているし、しかも降ってよいものが当たり前のように出力されていて、だからこそ「なんかごめん」と出てきてしまうのだろう。
 
 「ひじき、ひじき、踊ってくださいと言う雨だ」と、この句集の最後の句のように、開き直れ。20年以上の時を経てもなお「、」と〈降る〉との残酷なイメージに引き寄せられつつも、「踊ってくださいと言う雨だ」という川柳的な断定によって開き直れ。

空に満月くちびるにウエハース

「ウエハース」

 この句集のタイトルにもなっているこの句。読み味が甘すぎるだろうか。しかし、今までのような句集の方向をうまく決定している句に思える。空への眼差し。「空に満月」と「くちびるにウエハース」が≒で結ばれ、くちびるに張り付くウエハースのあの奇妙な感覚が、空に満月があるという当たり前の景色に違和感を与える。あの空に、満月が、奇妙にも張り付いているような。満月も、剥がれて〈降る〉のだろうか?
 なかはらは、〈降る〉という仕方で出力を歪ませる川柳人だ。

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