川柳句会ビー面 4月号

作品一覧

本の紙すべすべというだけのおまつり (小野寺里穂)

「すべすべの紙に対するピュアな喜び、イノセントな喜びが「おまつり」と表現されていて楽しくなった。実は明るいだけの句ではなくて、「だけの」のやや後ろ向きな限定があって、それが跳び箱の踏み込み板のようにおまつりの嬉しさに勢いをつけている気がする。心が乗りました。(雨月茄子春)」
「本の紙がすべすべだとつい触り続けてしまう。たいてい一人で声も出さずに、けど内心では結構盛り上がっていたりする。
そのときの気分を「おまつり」と言われてみれば、そうかもしれない。見抜かれたようで可笑しいし恥ずかしい。
お祭りに行くことも簡単じゃなくなった今だから、日常の細部に溶け込んだおまつり気分を掬い取って見せているのかもしれない。神妙な印象を残す一句。(嘔吐彗星)」
「だけ!!? ほんとに!!?? それは一体、なにをあがめる意味を持つのか……。
動作が伴うんでしょうね、各自本をこう、肩に担いで。すべすべって言うんですから辞典とかかな。うわー、もーこの時点で女子供はとか言い出しそうー、Gosh.
で、撫でるんですね、本の紙を。
ページ、って言わないあたり、紙に神を響かせてそうですが、だからどうしたと。もう響かせただけにとどめるのが良さそうなほどの絵力です。並んで、回りながら、火とか囲むのかな、で、すべすべ、すべすべ。朝が来るまで。
でもふざけて広げてみたものの(ふざけてましたすみませんm(_ _)m)、もし紙の本がほんとうに無くなった世界のおまつりだとしたら、笑ってばかりも見ていられない眺めです。その二面性の深みを狙っていたならよし。狙っていなくてもよし。それではみなさま、お辞典拝借。(西脇祥貴)」
「きっと良いおまつりですね。(佐々木ふく)」

茹でキャベにポン酢↓ミツカンのやつですをかけたらマグロ味 (雨月茄子春)

「素朴な発見を教えてくださり和みます。ルビを使った句が、あまり得意ではないのですが、ルビを使って追記情報を教えてくれる感じがいいなと思いました。ミツカンのやつですね。わかりました。そもそものルビの使い方と違うし、川柳的な狙い?というより、最後までおすすめを教えてくれるだけなのがとても良いです。自分には書けない、見習いたい感覚です。(下刃屋子芥子)」
「すごいウソっぽいけど「ミツカンのやつです」と注釈が入っているのが面白い。ミツカンのでもマグロ味にはさすがにならないでしょう。ならない、よね……?(スズキ皐月)」
「ルビが効いています。川柳ってリアル句会では縦書きになるものらしいのですが、これはノートとかの紙にこのまま横書きにしてほしい川柳。オンライン句会や夏雲システムの横書きの妙だなと思いました。↓、いいですよねえ……(城崎ララ)」
「夏雲システムのルビ便利問題。折しも海馬川柳句会の方でも話題になりました(あちらではコードをルビとして、ことばに重ねていました)。それがビー面に来ると、こう。もう、こう。としか言えません……。しないし、マグロ味! マグロ食ったことある?? でなに、ミツカン縛り!? なんのこだわり!!? 口調がていねいだからまだああ、ミツカンのね。って思えるけど!!!
……はあ。楽しませていただきました笑 でもこのこだわり部分、川柳の特性とされる「断定」の新表記だとすると、くにゃんぼう、半角スペースにつづき、また新たな可能性がビー面で開かれた、と言えるかも知れません。言えないか。だってポン酢は馬路村のがおいしいし、たぶんだけどあなた、普段からポン酢でマグロ食べてるでしょ。マグロの味なんて七割、つけダレの味ですよ。あ、それを喝破したってこと?? 回りくどいわ!!!!!(西脇祥貴)」

曇天の上の景色を見るきりん (スズキ皐月)

「シンプル。と思ってよくよく考えたら、きりん、首長っ。そしてイメージの含有量がすごいです。厚揚げの炊いたんみたい。
まず曇天。低気圧。頭にどーんとくる感じ。上、と言われて上を見るけど、曇天だからなにも見えない。一面灰色。曇天のとき、雲は頭上に一面のっぺりとあるだけでなく、そのうえに雲が何層も重なって曇天になっている。飛行機に乗るとよくわかることですが、そのイメージを保ったままきりんに着くと、首は雲をいくつもいくつも貫いて、上の景色に抜け出しているのだと分かります。
雲の一層一層に、読み手それぞれがそれぞれ持つ雲を重ねることでしょう。それをきりんが、代わりにぶち抜いてくれる。その先は、しずかです。『紅の豚』屈指の名シーン、若きポルコが雲の上に出て、飛行機乗りたちの墓場を空高くに見る光景、あの空の青さを思い出しました。どこまでが空、どこからが宇宙、という、青。そこにきりんの首が一本。シンプルさがしずけさをあらかじめ用意してくれるので、うつくしさがより際立ちます。お守りにいつも持っておきたい句です。(西脇祥貴)」

首都高を解体中の仁王像 (スズキ皐月)

「書かれている光景がパッと頭に浮かぶ句が好きで、この句はこわい顔をした大きな二人が黙々と解体工事を行なっている映像がすぐに再生されて笑ってしまいました。夜のオレンジ色の光の中の首都高でした。「首都高」「解体中」「仁王像」の三つが「う」で終わっていて抜け感があるので、内容の重厚さと見た目の漢字の重さに反して読み心地が軽いのもよかったです。(小野寺里穂)」
「仁王像くらい筋骨隆々だと良い仕事をしてくれそう。阿形と吽形の息もぴったりで頼もしいし、しかもちょっとありがたくて、首都高が解体されると困る人も多そうですが、良い感じですね。(佐々木ふく)」
「日本橋の上を走ってる首都高。あれは本当にみっともない眺めですね。恩恵を受けていないと言えばうそになるのでしょうが、それでもあれはみっともない。都市開発失敗の模範なんじゃないでしょうか。
それを解体してくれている、というだけでも仁王樣バンザイですが、この句、二通りに読めるのがぶれを生んで、バンザイばかりもしきれません。
ひとつはいまの、仁王様が首都高を解体する場面。怪獣映画みたいに荒唐無稽、しかし「首都高」「解体」「仁王像」の具体性が、絶妙に絵になっています。漢字を三文字ずつにそろえて、段階的に絵を組み立てるのも工事のようでおもしろいです。
もうひとつが、首都高を解体中に出てきた仁王像、という読み。『夢十夜』第六夜みたいですね。解体していたら、中から仁王像が出てくると。はじめに言った都市開発への警鐘みたいにも思えます。お寺の縁起でも、思いがけないところから仏像が出てきたり、見つかったりしますね。説話的。
この二つのどっちの読みも好みなんですが、それゆえ、なにかもったいない……。おいしい、とも思えるはずなのに、もったいないのはなぜか。二つの読みどちらもが、おいしすぎるからかも知れません。どちらかがもう一方を膨らませてくれるようなら厚さが増してよかったのかもしれませんが、殺し合ってしまっているらしい。こんなパターンは初めて見ました。いい句にはちがいない、なのにこんな。どうしたらよかったんでしょう……。。。(西脇祥貴)」

 "亜音速とかダサすぎる"つて馬が言ふ (ササキリ ユウイチ)

「形式美的には“ ”はなくても良い気がしました。あえて“ ”を入れる効果があまりないかなと。そのくらい、句として面白いと思いました。投げっぱなしくらいの勢いが欲しいなと思ってしまったり。馬だし。イキってるし。しかもできないことをディスってイキっている。(下刃屋子芥子)」
「ダブルクォーテーションって音速感あるなと思ったのが選の理由です。馬に言わせたのもよかったと思う。馬は全ての速度だから……。 (雨月茄子春)」
「「馬が言ふ」で採りました。この馬、競馬でも馬術競技でも観客が入っていること、人間が走るのをみて楽しんでいることをご存じなんだろうな……という気がします。皮肉ってるような、斜に構えたところが好きな句です。(城崎ララ)」
「今回旧かなの句がいくつかありますね、口語脈旧かな。この句はダサすぎる、の現代っぽさから、町田康さんみたいなおかしさが感じられます。
ダサいのはなんでなのかな、亜、だからかな。じゃあこの馬は音速で駆けるのか……? 天馬?? 亜音速って速そうですけど、調べたら旅客機は亜音速で飛んでるそうです。意外に身近。どうしても競馬の句と読みたい頭が働きました。(西脇祥貴)」

初心LOVEうぶらぶ に戻りたがっている時計 (雨月茄子春)

「時計を使ってるうちに時刻がずれてきて直す作業は「初心に返る」感じがする。擬人法で主体になってる時計だけど、自力では調整できないらしい。LOVEで刻まれる時って、恣意的に伸び縮みしそう。初心者の不器用さも加わってそうだし不安になる。うぶらぶの、音と表記の小っ恥ずかしさも効果的。(嘔吐彗星)」
「ごめんなさい、うぶらぶって聞くとどうしても、ファービーのパチモンの卵産む奴が頭の中をぐるぐる……。
それをなんとか振り切って読むと、これ、戻りたがっているのは本当に時計か? という気がしてきます。主体が戻りたがっているんで、それを時計に押しつけてんじゃないか。そういうポエマー(という英単語は存在しません。正しくは、poet)なダメ男(女でもあるのかな、なにか男っぽい)を創作として描いた句、とするなら、その複雑な構造が新しいかも。連作なのかな。作者別発表が待たれます。(西脇祥貴)」

苔の一人称を知った日 (小野寺里穂)

「苔!!なんて言ってましたか?!と身を乗り出してしまった句。気になりすぎる。苔のお喋り……を聞いたのか、お喋りに加わったのか、はたまた苔の日記とかを垣間見たのかあらゆる可能性が考えられますが、「一人称を知った日」。苔も植物なので勿論生きていて、彼ら自身からの発信だってあるかも知れず。一人称を用いたからにはなんらかの苔自身の情報が開示されたと思われるので、その内容も気になります。ただ内容よりも一人称のほうに気を取られた句だと思うので、やっぱり気になる苔の一人称。一人称のバラエティのある日本語だったのか、それとも我やIだったのか。いやいや言語でなかった可能性も……!興味の尽きない句です。(城崎ララ)」
「いいですねえ……。
説明が野暮なほど整っています。「苔の一人称」がもう素敵すぎるし、それをこちらが知ることが出来るんだ、そんな素敵な日なんだ、と思うだけでもうマジカル。メァズイック・スペェルとは、まさにこういう句のことを言うのでは、と心底思いました。おみごとです!
野暮と知りつつもう少し。まず全体の句姿があまりに整っているので、「苔」の一字が、ふだんはそうも思わないのに、苔そのものの姿に見えてくる。ちいさい苔の一本の立ち姿にも、繁茂しているようすにも。一字の映像を呼ぶ力が、こうして強まることがあるんだ! と字配りの妙を感じずにいられません。
そして、「一人称を知」る、というふしぎな並び。一人称が、なにか本来知れてはいけないもののような、神秘的な単語になって見えます。そしてそれを「知った日」。まちがいなく特別な日でしょう。なにかが大きくひっくり返る日、見たことのない道が開けた日。宇宙にとっては変わらない一日でも、主体にとっては宇宙とつながるくらいとんでもない一日に違いありません。こんな大きなことも書ける!  川柳がまた好きになる一句です。ありがとうございます!(西脇祥貴)」
「あまりいい日ではないんだろうなと直感的に思うくらい苔が持つ負の引力は強い。また、「一人称を知った」からは「知ってしまった」というニュアンスが出ている気がする。それは苔という負が前に置かれているからだと思う。(雨月茄子春)」
「花や木でなく苔というところで静かさとやさしさが極まっている。
苔の一人称ってなんだろう。気にはなるけどこの作中主体と苔の間の秘密であるからこの句の魅力になっているように感じる。
この句の意味自体は普遍性が高いわけではないけど、自分と何かがある情報を共有するというのは誰にでもある体験であり、その記憶や感覚を思い出させる。(スズキ皐月)」
「生まれかわるようなことがあったなら、苔だとありがたいとおもっているのですけれども、そうは問屋が卸さないのかもしれないと、この世にたいして攻めの姿勢をもちなおしました。(公共プール)」
「一人称、なんだろう。ないかもしれないけど、あるかもしれない。言われてみれば気になる。という絶妙なところを突かれていておもしろいと思いました。(佐々木ふく)」

千一夜 タンクの中はゆるがせに (嘔吐彗星)

「『ドライブ・マイ・カー』旋風は、『千夜一夜物語』再評価にまでつながるのでしょうか。つながらないか。それはさておきこちらの句。千夜一夜ではなく「千一夜」。具体的な千と一の夜のようで、しかし要するに、長い夜のようで。遠く砂の海の、丸みを帯びた砂丘の連なりを呼び出します。
そして一字空けて転換。千一夜の余韻からタンク、と聞くと、石油かな、という想像が膨らみます。重たく、ゆうらり揺れる石油。その生み出された年数、悠久の時間も抱いて揺れるようです。その時間の中に含まれる、たくさんのもの。生。死。笑い。涙。発展。没落。繁栄。破滅。金。肉。知恵。謀略。戦争。戦争。戦争。戦争……。
ゆるがせの「ゆる」がよぶ周期に乗って、死と死と死と死がゆうらり揺れます。本来「ゆるがせにできない」と使うものを、前だけ千切ってくっつけた暴力も、死を匂わせるのでしょうか。しずかなのに、血の、死の、つまり生のにおいとあぶらにまみれるような、怖ろしいながらもうつくしい句。(西脇祥貴)」

電脳山車のひかり、ひろがり (スズキ皐月)

「電脳とひかり、ひかりとひろがり、近いけれど心地がよかった。電脳山車のドタドタした音も楽しい。(雨月茄子春)」
「ロボットレストラン、ってもう誰も言わなくなりましたね。まだあるんですかね?
電脳、ということばで思い出すのが、もはや秋葉原や猫耳萌え絵やメガネという言っちまえばノスタルジックなものばかりに成り果てた昨今、あえて電脳、と使われたとき、こんなにも「脳」に目がいくとは我ながら思ってもみませんでした。AI時代に「電脳」のもつ肉感よ。妙に「山車」との距離が詰まったじゃないですか。十年はひと昔、二十年はなほになほなほ。
けどこの句の「ひかり」の使い方は嫌じゃないです。「電脳山車」ですでに光っていそう=エレクトリカルパレードそうなところへさらに「ひかり」が来て、ダメ押しのように「ひろがり」が来る。これであたりの暗さがいっそう深まり、果ての無い闇の底にぽつん、と「ひか」る「電脳山車」の孤独が、やわらかく浮かび上がってきます。日本沈没のあと、とも言えるかも。じゃあ闇の底は本当に海の底か。「ひか」る、からといってなにも始まりはしないでしょう。ただ「ひか」る句。それで十分です。それが十分です。勉強になります。(西脇祥貴)」

待合室のベンチをめくっていく仕事 (佐々木ふく)

「ベンチをめくるという分かるようで分からない曖昧な仕事。その後に床の掃除をするのでしょうか。一日の仕事の一部を取り出して「〜仕事」と書くと、途端に架空な設定のような気がしてくるので不思議です。他のお仕事シリーズも読んでみたいと思いました。(小野寺里穂)」

バス停は林 いきてちゃ下りられない (西脇祥貴)

「説明ができないので、どうしようか迷ったのですが、とても気になりました。バス停は林、なんとなくそんな気がする。いきてちゃ下りられない、そんな感じもします。ぱっと情景が繋がってしまったので、脳裏から離れないというか。染みついているのはトトロのイメージかもしれない。彼岸的異世界と隣り合わせの日常のような。言い切ってるけれど、やや意味不明な、説明しきらないところが良いのだろうなと思いました。混乱させる感じ。(下刃屋子芥子)」

島国のイスをあたためあうぬめり (公共プール)

「「島国のイス」はパワーワードですね。(南雲ゆゆ)」

老いらくのベビードールおまえは船 (西脇祥貴)

「すごくいいのだと思います。ただ、今の自分の言語感覚では把握しきれていない。だから評が書けない。構造や意図がわかる、推測できるのも川柳の面白さですが、把握しきれない句があってもいいのではないかと思います。どうしても言葉で語りきれない部分が大事で、だから川柳でこねくり回すわけで。もしかしたら言葉で表せないけど絵とか映像が浮かんでいるかもしれません、ぼんやりと。具体化を避けるような言葉の連なりなので、紋切り方ですが煙に巻かれる。あと、この句の強さは詩性、なのかなとも少し思いました。詩的な強度があるなと。(下刃屋子芥子)」
「もちろん、読み込める余地があるようには思えない(川柳はいつもそうだ)。しかし、「おまえは船」という魅力的な締め方に誘われてみることにする。身を任せてみる。ベビードール……、ランジェリー、もちろん官能的な響きを持っていて、少なくともこの国ではある一つの性的な趣向の一つとさえ言えるかもしれない。まったくの正当性を欠いた形でこう指摘しているのではなく、「老いらく」に誘惑されてそう言っている。その誘惑に思い切って乗り込んでみるとすれば、老いらくのベビードールとは、おそらく痛さのことだろう。もう年老いてしまった誰かの、なけなしの色目使い。その痛さ。「おまえは船」、確かにそうかもしれない、わたしは誘惑され、乗り込んだ。乗船した。そして船酔いをしたのだろう。「おまえは船」、おまえは船。(ササキリユウイチ)」

Good night の oo でタイヤ交換をする (嘔吐彗星)

「oはタイヤだったんだなと夜の疾走感を感じました。タイヤ交換、季節の変わり目の行事ですが、good nightのタイヤ交換はそのまま朝を迎える準備みたいにも思えて素敵です。(城崎ララ)」
「ザ・川柳じゃないですか。かえってビー面らしくないと言えそうな笑 そう思うと、ビー面で読んでいるのはまちがいなく川柳なのに、どうしてこれをザ・川柳だと思ってほかをそうだと思いもしなかったのか、へんな気持ちですね……。
つくりがわかりやすいからかな。「Good night」が来て→その一部を抜き出す、という通常しない絵としての見方へ曲がって→そこで絶対しないだろうことをする。そもそも「oo」は場所ですらないからそれもおかしい。堅いつくり(いい意味です)。でたしかに「Good night」なら「oo」がタイヤ交換にはいちばん良さそう、というみょーな納得も与えてくれる。し、「Good night」のせつなさをちょっと茶化してくれもする。あまりにその堅さに忠実なのが既視感も呼びますが、「タイヤ交換」のゆるさが好ましく、笑って読めそうなのがうれしいです。(西脇祥貴)」
「Good nightが汽車に見えてきました。交換されたooはどこへ行くのでしょうか?(南雲ゆゆ)」

永井くんおつむのビスが青いんだね (西脇祥貴)

「永井くんがだれなのかもわからないけど、なんか良いです。おつむのネジではなくビス。ビスが青い。もっと読み込んだら理解できるのかもしれないけど、良いですよね、でとりあえず留めたい気持ち。(下刃屋子芥子)」
「まず最初に一撃、「永井くん」の良さについて、わたしは留保する。そのあとの、「おつむのビスが青いんだね」における豊穣なイメージの重なりの仕方については、嘆息した。ビスの錆の"青"。青はむしろ銅がもつイメージで、今やステンレスが主流のビスにおいての錆は青というより黄に近いが、しかし一概にそうとも言えないし、むしろ真新しいステンレスのビスの持つあの鈍い青の輝きに、おつむの青さ=若さ=尻の青さを読み込むことが正当かもしれない。が、ビスの錆の"青"、何故か、永井くんは相当に歳を重ねて=錆ついているようにも見える。これがこの句の豊穣さである、気がする。(ササキリユウイチ)」

もういらないルのまえの人は (公共プール)

「ルという音というと、しりとりのル攻めが思い浮かぶ。「ルのまえ」と書かれると五十音表が出てくるのが不思議。五十音表が出てきた上で、そこに連なる無数の名前たちが見えてくる。それらをいらないと言う。本当にいらないんだと思う。この有無の言わせなさは破調と相性がいい。壊れているところで因果が合っていて、自分はこういうものを本当だと思う。(雨月茄子春)」
「冒頭の「もういらない」で惹かれました。強い拒絶の台詞。くちに出して伝えるには結構勇気がいる言葉ですよね。それで、何がいらないかというと「ルのまえの人」。
もう、ということはこれまでがあったのだから、もう充分にルのまえの人は務めを果たしたのか、数が足りたのか、尺を稼いだのか、正体不明の、いらないと言われているルのまえのひとにこそスポットライトを当てたくなる気持ちです。(城崎ララ)」

視覚的アーメン聴覚的般若 (南雲ゆゆ)

「アーメンが聴覚的か、なるほど。……そうは書いていないし、むしろそう書かないことがこの句の試みなのだが、まずここでなるほどと立ち止まってみる。あるいは、普段からアーメンを唱える人は立ち止まらずにこの句の前を通り過ぎるかもしれない。同様の理由で、聴覚的般若の前を通り過ぎた。(ササキリユウイチ)」

T字路の先が割れたらクロアチア (小野寺里穂)

「T字路の先が割れた道はクロアチアにつながるのか、見た目のイメージかわかりませんが、心地よいリズムで思わず口ずさみたくなります。ラ行とア音の繰り返しが楽しいです。クロアチアのことは詳しくないのですが、割れるという言葉のせいか、少し不穏な感じもあって良いなと思いました。(佐々木ふく)」

服装自由、三位一体であること (ササキリ ユウイチ)

「バシィィィン、と決まりましたね、「服装自由」と「三位一体」! この取り合わせはクリティカル! 四文字四文字で揃っていて、一見両方とも体(とそれにまつわる文化史の光と影)に関わっていそうに見える。でも「三位一体」は実はちっとも関係なく(神、精霊、イエス)、しかも聖書由来で分厚い奥行きを持っているパワーワード。まさかこれに、「服装自由」が釣り合うとは……! おみそれしました。
聖性と人間生活を強引にくっつけちゃう句と言えば、
杉並区の杉へ天使降りなさい/石田柊馬
があり、「杉」という具体物に「天使」という存在が想像できるものが降ります。しかし今回の句ではより抽象的な「服装自由」というゆるい取り決めに、「三位一体」なる概念をぶつけています。抽象×抽象。だから修飾になっているように錯覚してしまう……! こういうバランスを微妙、と本来呼ぶんでしょうね。今後もいろいろなときに思い出しそうな句です。(西脇祥貴)」
「服装と自由と宗教の相性のよさって直球だけど今まで自分は思わなかったな、という選。「三位一体であること」という命令?の形がどことなく滑稽で、でも笑ってなさそうで、どきどき?ひりひり?しました!!(雨月茄子春)」

糸状(しじょう)へとほどける車と人と猫 (スズキ皐月)

「立体アニメーションのワンシーンのようだけど、陽気な感じではないし、事故現場の暗喩と読むには重さが抜かれている。
奇妙にフラットな静けさがあって、不思議と見入ってしまう画のような。(嘔吐彗星)」

王将の芽ぐむ歌(トータル・セリー) (西脇祥貴)

「直観で、最も良いと思った。ところで、わたしはトータル・セリーという言葉を知らないし、調べてもいない。少し知っている気がしてきてなんとか思い出そうとする。まず引っかかりはセリー。たしか、フランス語で〈列〉を表す語だったはずで、箇条書き、項目、"系列"のイメージがまず浮かんだのだが、「芽ぐむ歌」につられてみれば、音の列のことだろう。そう、確か、トータル・セリーとは、任意の音列の全て、ではなかったか……、じっさい、本来の意味はどうでもいい。ところで、括弧書きは奇妙だ。一読(それもほんの一瞬の時間幅で行われる一読)した限りでは「…芽ぐむ歌」の別名、括弧書きがもつ慣用的なもののひとつ、同格の機能を想起し、即座にこの"歌"のまたの名として読もうとする。ところで(再び、ところで)、翻訳を前提とした公的、法的文書において括弧書きは推奨されていない。例えば同義語の羅列、言い換えの企てを、注釈などと間違えて解す-訳す危険があるため。……どうやら、罠にはまったようだ。一読を終えたあとの、二度目、三度目の一読で、この括弧書きは注釈ではないかと立ち止まらされる。もちろん、今まで横に置いていた「王将」によって。皇帝でも、王様でも、エンペラーでも、キングでも-どれも西洋的な響きがある-なく王将。極めて東洋的な統治者の、(固有の思想が)芽ぐむ歌。このイメージが、トータル・セリーとはあまりにも不釣り合いな仕方で挿入されている。全てを統べるもの、しかし、"将"として、いわば漢字として、五角形の木材に刻まれた象形文字として、全てを統べるものが、"セリー"を扱っている。何かが芽吹いている。一体、どんな音色で?(ササキリユウイチ)」

潮風に自死試みるナメクジ妃 (下刃屋子芥子)

「誰もが一目でわかる言葉、誰もが一目でわかる使い方でこれだけの世界の広さを表現するのに驚きました。
海沿いを行くナメクジ妃という景、「自死」から想像を膨らませるナメクジ妃の感情、「ナメクジ妃」から受けるストーリー性と戯画感、それらの組み合わせの無理のなさが上手い。
もちろん潮風にあたるだけでナメクジには自死になり得るという発想もすごい。たぶん一生忘れられない。(スズキ皐月)」

ペットセンターからあふれでる成果 (佐々木ふく)

「「ペット」からのもう一つの分岐に「ボトル」があって、何かが「あふれでる」景に一役買っている。ペットボトルから溢れる液体が動物のペットに変わる。次々と飛び出てくる犬や猫たち。手品のような句。(雨月茄子春)」
「ペットと成果という単語は、並べるとぞっとする。命が家族として迎えられる場所に、成果主義を持ち込むのはいかにも似合わない。しかしペットとは、本来そういうものであると思う。命である動物たちが、ガラスの箱に閉じ込められ、血筋を評価され、キラキラした顔で値踏みされるという欺瞞があふれでているように思った。(南雲ゆゆ)」

かたかなはいまもねむたい青の群れ (公共プール)

「 同じ「青」を使った句を出して、しかも自分の方はふざけたので、こんな風にうつくしい句を出されるとああ、ふざけすぎかなあ……、と反省してしまいます。でもしょうがないじゃない。川柳のきれいばかりを称揚しないところを好きになったんだもの。とかく、方向性が別だったのでよかったです。。。
かたかななのに、カタカナ、とカタカナ表記しないふしぎ。でもこの方が確かに「ねむた」そうに見えます。そのまま「ねむたい」までひらがな表記にしたのはちょうど良い長さです。いい意味でねむたくなります。
そして「青の群れ」。いや、「ねむたい青の群れ」かな。「群れ」というまとめ方がカタカナ、ひいては文字にぴったりで納得させられ、そこへ「ねむたい青」の色が重なる。だったとしてどう、と思えることのはずなのに、「ねむたい青の群れ」が海のようにざざざ……、とうねるようす=世の中の絵がどんどん広がって、頭の中で「ねむたい青」の色合いが刻一刻変わっていきます。じっと見ていられるインスタレーションみたいな句です。(西脇祥貴)」
「カタカナについての句なのにひらがな続きであることで、「ねむたい」感が出ています。可愛いらしいですね!(南雲ゆゆ)」

俺の隣に大西流星だけおらん(泣) (雨月茄子春)

「悲壮感。良いです。でも俺だけではない。大抵の人の隣にはおらんはず。いてほしいという気持ちが伝わってくる。これってただの気持ちですよね?とも言える。(下刃屋子芥子))

顔 変換しクラスメートは絵文字 (城崎ララ)

「友情物にもディストピア物にも捉えられるが、私は前者として捉えた。絵文字でクラスメートの顔を作って遊び、わいわい盛り上がっている教室が思い浮かぶ。最近はアバターのパーツがたくさんあるので、作り込めばかなり本物に近づきそう。(南雲ゆゆ)」

白鳥を連れていさうな手の角度 (佐々木ふく)

「散歩をしている景を浮かべました。もちろん一人で。(ササキリユウイチ)」
「八上桐子さんの句集『hibi』に収録されている「指先の鳥の止まっていたかたち」という句を思いだしながら読みました。「手の角度」という細部に視点を合わせているところ、結局どんな手をしているのか分からないところがこの句の面白さだと思います。(小野寺里穂)」

大硝子全雷雨捕縛プロトコル (嘔吐彗星)

「オオガラス、まず初手の響きが奇妙に思える。不穏だ。大きな鴉?……大"硝子"か、(一体、何のことだろう……)全雷雨、これもまた法外な言葉遣いだ、雷雨に全を付与するなんて。捕縛プロトコル、今日、プロトコルはコンピュータ分野において頻繁に用いられていて、ゴースト・プロトコル=存在しない法的規定(ミッション・インポッシブルのシリーズを思い出してもらってよい)のような、より語源に近い、制度的な意味は漂白されかかっている。大きな硝子が全ての雷雨を捕縛するというものは、極めてネットワークシステム的なものであって、要するに間違いなく、素早く、確実に、より厳密に決められたプロセスにおいてその行程は進むように見える。だが、どうだろう、本当にそうだろうか。ゴースト・プロトコルではなく(ゴーストなプロトコルではなく)、翻ってプロトコルがゴーストなのではないか。要するに、プロトコルは存在しないのではないか、いつでも裏切られてしまうのではないか。草稿や議事録は改竄され焼き払われ、議定書は一方的に破棄されるのではないか。われわれは大きな硝子の破片を浴び、また雷雨さえも浴びてしまうのではないか。
追伸、大きな鴉が、倫敦塔の処刑台に集まって啼くのさえ聞こえたが、一体この句と何の関係があるのだろう。(ササキリユウイチ)」
「拝見して温室の硝子天井、みたいなものをイメージしました。ドーム型の。アメコミ映画とかで上から蹴破ってヒーローとかが入ってくるやつ……字面も固めでパッと目に入った瞬間から格好いい。「全雷雨捕縛プロトコル」の秘密兵器感もバリバリに格好良い。だだっ広い温室だと思っていたら大嵐の日には全雷雨を捕縛するプロトコルが展開されるわけです。格好いいな……避雷針とかバチバチに展開するんでしょうか。嵐の日に遊びに行きたいなと思いました。(城崎ララ)」

倦怠感あふれるゴーストマンシップ (嘔吐彗星)

「すいません、良い、としか。評や分析するのが自分には難しい句の類なのですが、評や分析したくない、というのも本音で。良くないですか?という…。この言葉の連なりを発見した時点で良いじゃないですか。という気持ち。(下刃屋子芥子)」

喘息持ちの子供に悪魔が囁いた (雨月茄子春)

「往々にして、悪魔は喘息持ちの子供に囁く。これはよく知られた事実である。川柳における〈ただごと〉のある一つの極地、の何合目(ただし、目的地にはより近い)かに位置する句。
ただごととは、ただごとではないのだが。(ササキリ ユウイチ)」

恨み石裏がポメラニアンの笑み (下刃屋子芥子)

「恨み石というと心霊的な曰く付きの石で、人の顔に見えるとかはありそうだけどポメラニアンの笑み……たしかに笑ってるように見えるけれども。想像した途端に焼き付いてしまう絵面。韻の踏み方にこなれた粘度を感じるので、音から連鎖して組み上げたのかもしれない。暗唱性が強くて、選句期間中に何度もリフレインしてきた。笑いを堪えるとポメラニアンの笑みがますます濃くなって、蓋をしても込み上げてきて、参った。(嘔吐彗星)」
「通常ポメラニアンの笑みはほっこりするものだが、ここまで恐怖を感じさせる笑みに変えられるのかと驚嘆した。こんな石が存在することも怖いし、この石を裏返したであろう人間の視界を想像するだけでも震え上がる。これからポメラニアンとすれ違うたびにこの句を思い出しそう。最高でした!(南雲ゆゆ)」
「ちぐはぐで、ソフィスティケイティッドなものは感じない、がしかし、一瞬で「これは句だ、川柳だ」とわかってしまうパワーがある。わたしが定型詩をはじめてしまったからだろうか?笑みのせいだろうか?ポメラニアンの?あるいは恨み(どろどろとした、マグマのような-だがそのマグマのようなどろどろはいつまでもそのままではなく、冷え固まる、固形化しておきながら、その時の記憶を残す、石のように)のせいで?(ササキリ ユウイチ)」

校庭がシェア畑になったの昨日 (小野寺里穂)

「シェア畑なんてかわいい言い方をしながら、戦時中を彷彿とさせて、ぞくっとしました。しかも、昨日。(佐々木ふく)」
「いいっす。とても。そうとしか言えない。分析するのも野暮なのではないかと思ってしまう。情景が浮かびそうでもあります。浮かびそうの手前、想起のバグ…。なんかいい、を句にできるのがすごいんですよね…。(下刃屋子芥子)」
「戦争の句だとおもった。「シェア畑」という現代的なカジュアルさと妙な清潔感の演出、それにこの国が帝国であったころのどん詰まり感が混ざったようなこの造語?のグロテスクさにくらくらした。その語感の良さと、後半へたたみかけて「の昨日」で字余りにしたのもうまいとおもった。(公共プール)」

矛盾をやわらかくする自由な(たいい) (公共プール)

「現在の仮名遣いが、"旧"などと再び呼ばれてしまうような遠い未来において、"その"時代の(当然、我々が今まさに生きている時代の)、官能的な美しさを凍ったままにさせたかのような、熱い一句。(ササキリユウイチ)」

餃子パーティー、ぎょざパ、ぎょパ、パ (雨月茄子春)

「 口に出して読むと楽しい句だと思ったのですが、改めて見ると横書きなのも好きな句。餃子パーティやろ〜!と毎度言っているうちに、ぎょざパやろ!になり、そのうち更にぎょパやろ!になり、ついにはパ。パやろ!で通じ合えるまでの繰り返しと阿吽感を感じました。
、で区切られているのも書き文字みたいで好きです。そういやなんでパって言うようになったんだっけ。たぶんこうだよ、って餃子パーティからの変遷を書いてみせてくれたみたい。(城崎ララ)」
「「彼ぴ」とか「好きぴ」がどんどん削れて「ぴ」になるみたいに、言葉が省略されていくのは親しさを感じさせます。
ここでは省略の推移が書かれているだけなのに、書かれてはいないそれを行う人々の様子が浮かびます。「餃子パーティーしようか」と言っていたのが、最終的には「パ、する?」みたいになっていくのが想起されていい句だと思いました。(スズキ皐月)」

いつからムマとほうようをかわそうか (公共プール)

「「○○と抱擁を交わそうか」の構文と開かれたかな表記で、ベースはエモいコピー。なんだけれど、差し込まれた"ムマ"の異物感でエモが蒸発してくれず、滑りかけた目が摩擦を起こす。読み直すと「いつから」も捻じれていて、ムマが夢魔なら抱擁できる関係なのが謎、さらに夢の予定を立てられるというのも不可解……。ぱっと見がエモいだけに、回収されない違和感に取り残されるのが新鮮だった。エモのメタモルフォーゼを見れた気がして嬉しい。(嘔吐彗星)」

Warp Powerそうださくらは全部梅 (城崎ララ)

「Warp Powerという語や季節感から、回想を呼び起させる。
桜も梅も漢字で覚えていなかった頃、ふたつの見分けがつかなかった。とりあえず花、という以上に気に留めてなかったと思う。物心が付いてくると世間の圧を感じて、区別できないことに後ろめたさを覚えるようになった。そんな時分を振り返ると、さくらと梅の表記の差には、漢字を学習する以前と以降の時間差を意識させられる。
「そうださくらは全部梅」
さくらと梅を混同する認識を、正すのではなく大胆に更新している。普通に考えれば虚偽だけど、「そうだ」は本気で肯定している感じがする。さくらは(全部!)梅。そう呼び直すことで、子供の頃の上書きされる前の世界観へと立ち返っているのかもしれない。飛躍の力業を、共感の急所を押さえることで実現している。Warp不可避な句。(嘔吐彗星)」
「意味は解するのは難しいけど力強さに良さを感じる。間違いであるはずなのに「そうだ」の強さが主体の感動を伝えてくれる。(スズキ皐月)」

校長を大団円になぞらえて (南雲ゆゆ)

「たしかに、校長は大団円と通じるところがあるような気がします。大団円を望みたがる、というか。でも、集団の中の権力者が望む大団円は、本当は大団円ではなかったりしますね。ここでは逆に、校長が大団円になぞらえられているのが、皮肉めいていて、おもしろいと思いました。(佐々木ふく)」

復権するとティッシュが貰える (嘔吐彗星)

「復権して貰えるのがティッシュ……!?と笑ってしまいました。面白いですね。復権するということ自体、何かが付与されていることなのに、プラスアルファでティッシュが貰えるというシュールさが魅力です。ティッシュが貰える場所と言えば、福引をやってるショッピングモール。あるいは無料配布している街角。一方復権する場所は裁判所でしょうか、とにかく復権とテッシュのギャップがすごいです。ここまで書いて、「復権して復活する権利が、ティッシュが貰える権利である可能性」に気づいてしまいました。もしそうだったらすご~く嫌ですね。(南雲ゆゆ)」
「「ティッシュが貰える」状況はよくありますが、人が復権するという機会はなかなかないし、そもそも対価がささやかすぎる。現実にはそう起こりえないシチュエーションを、堂々と短く言い切ることで言葉がつよく光ってみえる句、うまいなと思いました。(小野寺里穂)」
「好きですね。気の利いた評が書けないのですが、ひとこと言えるとすれば味わい深いです。(下刃屋子芥子)」
「案外気軽に復権できそう。復権するものなんて実は大したことないよと言っているようでもあり。復権という言葉の意味のずれがおもしろいです。(佐々木ふく)」

泉は鏡の誤記であろうか (ササキリ ユウイチ)

「泉の水面が反射してまるで鏡のようであるということを「誤記」ということばを使って表しているのがかっこいい。音としても「いずみ」と「かがみ」は近しいし、濁音+iという意味で「ごき」も含めた三つが韻を踏んでいてリズムがいいと思いました。(小野寺里穂)」

身から出た錆に魚類と言い聞かす (城崎ララ)

「その魚類は鯖であってほしいし、靑という漢字が好きだし、錆では青錆の緑青の色合いが好きすぎて、わたしの身は鉄ではなくて銅であってほしかったのだ。情熱や熱情やいろいろな熱がまわるのが早く、これまで1位や2位になったことは一度たりともなく運が良くても3位どまりだったことが結構コンプレックスだったけれど、銅はわたしかもしれない。言い聞かせる心の痛みが洗練されて、鯖とおなじ背中のまだら模様を得たならば、さざ波に同化するあなたの美しさは極まったも同然です。(公共プール)」
「惜しさを感じる。句の完成度にだろうか、あるいはこの句の言わんとすることにだろうか。
こぼれ落ちた、すでに他者となったものにわざわざ言い聞かす(自己ではなく他者にわざわざ言い聞かす)……、ナンセンスな行為だ。身から出た錆、の身(=自己自身)に魚類と言い聞かせるのでなければ、この慣用的な言葉が持つ意味、報いとしての不幸の到来を、自己の因果としての報いではなく、あくまで自然な、制御下にない、機能的な、先天的なシステムの結果として捉えなおそうとすること、これは成就しないだろう。身から出た錆ではなく、身(=自己自身)に魚類と言って聞かせなければ。
錆に、報いとしての不幸に、他なるものに言い聞かすとこの句が言うのだから仕方がない。好きに言い聞かせればいい。だが、ひたすらナンセンスだからやめたほうがいい、とアドバイスだけはしておく。しかし、いいところまでいった、惜しかった、惜しかった。(ササキリユウイチ)」
「錆じゃなくて魚類だから、たとえば鯖。だから塩焼きでも照り焼きでも味噌煮でもおいしい。言い聞かせている感じがかわいいです。(佐々木ふく)」
「魚類と言い聞かされてみると、「錆」が魚類っぽく見えてきました。鯖と部首違いだし、音も似ている。錆の二文字あとに魚の文字があるから、鯖という感じを連想しやすいのかも…と考えるとテクニカルだなあと思った。(南雲ゆゆ)」

防火水そう出身の棋士 (小野寺里穂)

「防火水そうの中で、棋士は孤独だったのでしょうか。出番はないにこしたことはないけど、出番がないと人に気づいてもらえない。赤い標識があってもあまり意味はない。「水槽」でなく「水そう」なのも(標識に従ったのかもしれませんが)棋士の幼さや幼少期を想像させるなと思いました。(佐々木ふく)」

春の渦神秘学から掻き回す (下刃屋子芥子)

「文字通りに受け取ることもできるし、四月の履修登録の比喩として捉えることもできる。"火曜2限『神秘学Ⅰ』"みたいな。渦が螺旋状にすべてを飲み込んでいくさまは、シラバスを眺め豊饒な知の海に立ち尽くすときの心地のようである。神秘学の授業がお目当てで、神秘学を基点として履修を組んでいくイメージを抱いた。ここまでは、春の渦と学問名の組み合わせに着目した話で、冒頭に述べた通り文字通りに受け取っても面白い。まるで渦潮に引き込まれていくように、「どういうことなんだろう?」ってずっと考えていたいと思わされた。「から」は動作の起点を示す助詞だが、その起点が神秘学という実体のない存在だから不思議だ。春の渦のどこかに、神秘学があるのだろうか?でもそれはどういうことなのだろう。心地よい疑問符と一緒にぎゅっとしたい一句。(南雲ゆゆ)」


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