川柳句会ビー面 9月号


タコス・飲茶・キンパ・ヤムウンセン・安眠

おまじないのようにものづくし。『枕草子』、"マイ・フェイヴァリット・シングス"からつながるメキシカン、中華、韓国、そして安眠。最後の安眠はほんとにすてき。ヤムウンセンだけ知らなかったけど、春雨サラダなんだ……。この知らなさ加減が絶妙で、ヤムウンセンがあるからおまじないと思えるところもあります。
いちおう語呂の件は指摘した方がいいのかな、と思いつつ、作者のなかに決まった節がありそうな気もして。何のメロディーが合うのか知りたいところ。タタタ・タタタ・タタタ・タタタ・タンタン、とヤムウンセンさえ三音節のようにとらえるのが目下一番しっくりくるような。どうなんでしょう。────────西脇祥貴 

群衆で粧う山を登る役

一句にして、ありふれた現実世界の情景を不安定に、あるいは不穏にさせてみせるのはまさに華麗なる川柳の御業そのものだと思いました。────────松尾優汰

焼き芋がずっと舌打ちする相手

焼き芋に対してずっと舌打ちしているのか、それとも焼き芋が舌打ちをしていてその相手がいるのか。後者は少し上品なので焼き芋に対して舌打ちしていると読みたいところ。焚き火で焼いている焼き芋を見つめながら、誰にもぶつけられあい心のイライラを舌打ちで表す。焚き火のパチパチという音もどことなく舌打ちに聞こえます。のどかな見た目と裏腹に描かれた情けなさと悔しさ、その滑稽さに一票。────────二三川練
意思のある焼き芋くんが憎たらしいと感じている存在がいるという読みも面白いのだけど、焚き火で芋を焼いている時のパチパチという音を焼き芋の舌打ちとして捉えてるという読みでも面白い。自分はどちらかというと前者で読みたい。────────スズキ皐月
どんな相手なのか、つい気になってしまいました。
「ずっと」が良いですね。「つい」してしまうのではなく、「ずっと」してしまう。うっかり、思わずの舌打ちではなく、確信犯。
焼き芋に対して、穏やかそうなイメージを持っていたんだなとこれを読んで気がつきました。そんな焼き芋を舌打ちするほど苛立たせるなんて、どんな相手なのだろう。
もしかすると、舌打ちはパチパチ焼かれる焼き芋の愛情表現かもしれないですが。────────佐々木ふく
焼き芋に舌があるのか、舌打ちと同じ意味の別の何かをやっているのか……などと生物の授業をむりむり持ち込むより、芋の舌を想像する方が楽しい句です。しかし相手は誰なんだろう。焼き芋の相手となるものといえば、焼き芋屋? それとも客?? いや、それならそう言えばいいものを言わない、つまり「焼き芋がずっと舌打ちする相手」としか言えない対象=そうでないとからっぽの存在を名指ししようとする、ある意味挑戦的な句、なのかもしれない……と思えてきました。
でもそもそも川柳って、そういうものなのかもしれないな。こうとしか言えないものを名指すために、あらゆる語彙・語法・修辞・蘊蓄が投入される。ことばの総力戦。戦、っていまあんまり軽く使いたくないですけど……。なんて、深くしていきすぎるとじゃあこの句でなくてもいいじゃん! となりそうなので、ここまで。────────西脇祥貴

天窓に積もったからだと目が合って

「からだ」を身体としてさいしょ読んだけど、理由説明の口語?でも読める。どちらにせよ、天窓ににんげんの気配が濃厚でグロテスクになのがいいと思いました────────公共プール
一読ホラーです。天窓=下から見上げるしかない。しかも高い位置にあるので、見えるものは窓自体によってかなり限られてしまう。そこへ積もってくるからだ、視界を埋めつくすからだ=逃れられなさ。しかも「からだ」というモノっぽい呼び方が、ホラーの空気を支えます。戦時とも言えるし、悪夢とも言えるし、シュルレアリスムとも言えるけれど、狙い通りホラーに読むのはちょっと癪というか馬鹿正直な気がして、別の可能性をかんがえます。
「天窓に積もったからだ」まではただこわいけど、ひょっとするとからだはからだでも、部分かもしれない。「目が合った」とあるのでつい全身を想像してしまいがちですが、積もる、で部分(手、足、肉片――)を連想することもできそうです。……いや、にしてもこわい。あとは……しずけさ! そう、積もっ「た」ならすでに音はしていないんじゃないでしょうか。そこに気がつくと、ホラーと言うより叙景になってくる。そしてつい霊とか無念とかを付加してしまうけど、「目が合った」ときの感情の詳細は書かれていない=読み手にひらいてある。あなたもこの景の中に入ってみてください、というように。そしてその景は、戦争が現在進行中のいま、決してない景ではない。どころかこの空はウクライナの空とつながっている以上、日本のわが家の天窓にも、すでにうっすらからだは積もっている可能性は、ある。その気づきを呼ぶ句、つながりを思い起こさせる句、なのでは。と取って並選。────────西脇祥貴
天窓に積もるものと言えば埃か雪かと思いきや、「からだ」。「体」でも「身体」でも「カラダ」でもないので、やわらかくて、やさしそう。
何の「からだ」かわからないけど、天窓に積もるということは、ひとつやふたつではなさそうで。しかも「積もる」ということは、たぶん「からだ」本人の意思とは関係ない。たいてい無機物に使う言葉を持ってきていることの気持ち悪さ。
どんなにやさしそうな「からだ」でも、大量に積もっているとちょっと不気味。そんな「からだ」にしかも「目」がついていて、その「目」と合うということは(もしかするとその「からだ」は生きていないかもしれないのに)開かれていて。ますます不穏な感じです。
せっかくの天窓なのに。天窓の持ちぐされですが、でもそれが天窓の本質なのかもしれないと思いました。────────佐々木ふく
私はこれを推敲の手前だと感じた。────────ササキリ ユウイチ 

娘にはいけしゃあしゃあの水をやる

まず音が良い。意味としては「いけしゃあしゃあ」は水にかかっているのだけど、そんな水を渡そうと思われる娘もきっとにくたらしいところのある人なんだろうと想像が膨らむのもおもしろいです。────────スズキ皐月
「いけしゃあしゃあの水」がおもしろいです。
「いけしゃあしゃあ」という言葉がそもそも魅力的。
素直に読めば人間であるであろう娘に「水」をやるのも良いのですが、さらに「いけしゃあしゃあ」。
これから生きていくうえで、色々あるであろう「娘」に、せめて「いけしゃあしゃあ」と生きていってほしいという願いかなとも思いましたが、そんなことは全然なくて、いけしゃあしゃあとした娘さんへのアンチテーゼでも良いし、そもそも意味なんてなくてもよい。
そういう力強さが「いけしゃあしゃあ」にはありますね。────────佐々木ふく
いけしゃあしゃあを中7に持ってきたところがえらい。────────ササキリ ユウイチ
言葉遊びの面白さ。「いけ」は池で「しゃあしゃあ」は水の擬音っぽい。何を言っているのかよくわからないけれど、なんか笑える気持ちよさがあります。────────二三川練
いい水。まずそう思って、でもどうしてそう思ったのかひとつもわからないこの言い回し。フィット感がすごいんですよね、娘といけしゃあしゃあ。で、給水所的に水を差し入れる、という画より先に、娘が植物に見えるこの不思議。あれか。しゃあしゃあがじょうろで水をやる音に聞こえるからか。しかしながらそのフィット感のおかげで、「水をやる」についたときのねじれ方がよりきゅっと、こう、きゅっ、と極まっているようです。
……娘、ふつうに「若い女性」とかdaughterの意味でいいのかな。娘的な概念というか、そういう性質そのもののことを指しているのかな。あるいはこれから娘になっていく素、というか。未分化の娘。そこへやる、いけしゃあしゃあの水。かくして娘、娘となりぬ。────────西脇祥貴

ああこれは良い釘ですね秋の空

良い釘に感嘆する秋の空、錆びた釘が浮かんだ秋の空、一年が暮れはじめる秋に、ああこれは良いですね、と評価される感じ。釘(錆びた?)だけど。────────下刃屋子芥子
良い釘ならコレクターに高く売れる世界なのでしょうか。そもそも釘の良し悪しとは?良い釘ですねって言ってるあなたは誰?釘はたまたま拾ったの?それとも探したの?…いろいろ想像が膨らんだところで、秋の空にぽーーーんと放されてしまいます。飛んでゆけども届かない、澄みきった水色に途方に暮れながら、あの人が言っていた良い釘の定義について考え続けている…そんな句だと思いました。────────南雲ゆゆ
良い釘ですねの語りかけるようなところが好きだな〜と思ったのですが、俳句のような落ち着き方が気になって予選とした句です────────城崎ララ 

粘り気のない亀が俺を見ている

甲羅干しをしている亀は乾いているイメージがあるので、ぱっと、そんな亀を想像したのですが、だからって「粘り気のない」なんて言い方をしなくても…でもこの「粘り気のない」という表現が魅力なのだとも思います。「ない」と言いつつ、どうしても嫌な「粘り気」の感触を一度は思い出してしまうから。
何を考えているのかわからない、それでいて見透かされていそうな目。
そんな目で見られて、俺は何を思ったのでしょうか。────────佐々木ふく
亀ってそんなに粘り気のあるもの? というしょっぱなの疑問。は虫類……でもそんなにそもそもの亀に、粘り気を感じたことがない。水気はあるけど、粘り気までは行かないかなあ。蛙とかはありそうだけど……。あ、18禁の方? でもだとしても、亀そのものが粘るのとはちがうしなあ。
え、どうですか。そのせいでぼくこの句、叙景ではないと思ってしまいました。いわば観念的粘り気のない亀。それが表すものとは。しかもそんなものが客体として目の前にいて、こっちを見ている。この緊張感……のわりに気がついたのはその粘り気のなさ、なのか? そこなのか? と突っ込んでしまいたくなる句でした。ほんとに何を意味してるんだろう。がんばって粘り気のない亀を想像してみる……枯れてる? あとなに亀かにもよるのか。ミドリガメなのか、はたまたアーケロンなのか。ゾウガメがいちばん粘りけなさそうですけど、だとすると叙景としては単純すぎるような。あー、ごめんなさい、気になるけどここが限界でした。────────西脇祥貴

あの日あの時あの場所で赤ラーク

「あの日あの時あの場所で」までは韻律的にすごく順調です。7(3・4)・5の文字数に、「あの」の三連続。3→4→5と1文字ずつ増えるのがリズミカルですね。ところが、4文字の単語かつ「あか」から始まる「赤ラーク」で二重の順調さが破れてしまいます。また、ポップソング「ラブストーリーは突然に」の非常に有名なフレーズなので、心の中で歌いながら読んだ人もいるかもしれません。私は川柳を読むとき、「タタタタタ…」って感じで特にメロディーはつけないのですが、この句にはその余地が生まれています。相手が自分の川柳をどのように読み上げるか――作者でさえも関与できない問題です。句会で想定と異なる箇所で切られたということはよくあります(それが句会の良さでもありますが)。しかし、「あの日あの時あの場所で」の知名度であれば、メロディーをつけて読むことを半ば強制できるのではないでしょうか。それだけでも実験的で面白いのですが、その上で裏切る、その仕掛けにぐっときました。────────南雲ゆゆ
小田和正からのラーク。ラークって、こんなにいろいろ種類が出てるの日本だけなんですって。がらぱごす……。
主題歌になったドラマも考え合わせると、ずいぶんレトロな匂いぷんぷんの句です。赤ラークまでに畳みかけるリズムはありますが十七音に収めているの+頭のa音そろえは良くて、赤ラークまではスムーズに運ばれていきます。あとはその、赤ラーク。これが喫煙者界隈で持つ何かの意味があるのか、と調べてはみたのですがついに分からず。読もうとするなら、固有名詞に止められる感じになってしまいました。。。────────西脇祥貴

ねぼすけの蟻に教えてやる臓器

臓器の落差がすさまじい。これはすごい落ち方ですね……。働き者レッテルべたべたの蟻をねぼすけにしているのもひねりなら、教えてやるものが臓器というのもひねり。教わって、蟻はちゃんと目覚めるまで覚えていられるのか? そしてなぜ、寝起きでそんなことを教えなければならなかったのか……。
臓器にいろいろ代入していくと印象が変わって面白いですが、あえて総称にしているのがちょっとぼけちゃったかも。
あるいは、臓器全部を教えているとしたら、なんというか、残酷な景も浮かびますね。臓器が全部出ちゃった状態のなにか(だれか?)。そこへたかる蟻。遅れてやってきたねぼすけさんに、ほら、あれが肺、で胃、こっから腸、いま肝臓そんなにたかってないから、そっからいきな! って、教えてやっているのかも。世界のどこかで、そういうことは起こっているかもしれませんし、いま。────────西脇祥貴 

川柳の犠牲者読み上げ深夜放送

川柳に関わる者としては、ひとこと言いたくなる川柳ですね(笑)かくいう私も川柳の犠牲者なのですが…しかし深夜放送とはいただけないですねぇ!深夜は深夜でも、多くのヒットドラマや人気バラエティを生み出してきた23時枠じゃなくて、午前2時30分とかなんでしょう。金曜ロードショーが良いです。────────南雲ゆゆ
深夜放送はいいな、というところで。
川柳の犠牲者、犠牲者といえばそうなのかもしれない。深夜放送で読み上げられる、映像的なイメージがある。────────下刃屋子芥子
川柳という詩形に、川柳という態度に、ときおり、言葉を失うほどの恐怖を感じることがあります。────────松尾優汰

ずっとこころにきな粉とんでる

きな粉とんでる、どんな状況だろうと思って思い浮かべてみたのですが、わらび餅とか信玄餅とかを、フーッてしたしまった時の状況しか思い起こされず。心境としてはウワーやってしまった!になるかなあ。ちょっとの焦りと、もう起きてしまったことへの諦め。そしてそれを見守るしかない自分の姿も。
そんな心象風景としての「きな粉とんでる」、なんだかずっとソワソワしてそうです。落ち着かなくて、はやくきな粉静まらないかな……って待っている感じ。ぴったりです。今後落ち着かないときはもうずっとこころにきな粉とんでる感じって言いたい。きな粉、絶妙ですよね……はよ着地してほしい。────────城崎ララ
シンプルイズベスト。今勢いで特選にして、いいんか、と思いましたが、そういうことかもなのでそのまま特選にします。
とんでるなあ……って思ったんですよね。年齢により個人差はあるでしょうが、ぼくはたぶん2001年頃(当時12歳)から飛び始めて、今に至っている。黄砂かと思ってたら、きな粉だったのか……。みんなとんでるんじゃないでしょうか。あるいはこころの中に、とんでる区画は持ってるのでは。このとんでる現象に狙いを定めて、きな粉というたとえや「とんでる」の「い」抜き言葉(←ビー面っぽい!!!!!)で、あくまでふわっとすくい上げている。このふわっ、が実は、クリティカルなカウンターになるんじゃないのかなという可能性を、つねづね川柳に感じています。その好例では。
きな粉、がたとえとしてため息ものですね。色もそう、粒子の粗さもそう、そしてなんと、食べられる。なんとなれば、うまい。正体が分からなかったから食うことをかんがえもしなかったけれど、え、きな粉ならちょっと舐めてみよっかな。って、舐めてみたとき、きっと視界は変わる。その可能性さえきな粉で示しているようで、うっすら明るい(きな粉の色味のせい? だけじゃないよね!)兆しが秘められているのが、うれしいです。翌朝には忘れちゃう意味のない夜通しのおしゃべりの中で、ふっと出てきちゃった祈りみたいな一句。────────西脇祥貴
これほどにも、これほどにも〈こころ〉の状態を綴りえた句はないと思います。涙がでそうになりました。────────松尾優汰
きな粉のお餅やお菓子を食べる際に、きな粉がとぶ経験をしたことがある人は多いはず。あのときの細かい粒子が目の前にとんで鼻がむず痒くなる感覚が、なんと、こころの中にあると。そう言われると、感じたことがある気がしてくるので不思議だ。過去に自分が経験した違和感を伴った感覚が、後から人の言葉によって輪郭を帯びることがある。とてもよい「名付け」の句だと思った。────────小野寺里穂
「ずっとこころに」まで読んで、どんな美しいものか、あるいは辛い思い出が語られるのか……と想像したところに「きな粉」の脱力。せっかく「粉」以外全部ひらがなという表記のうつくしさがあるのに「きな粉」。
でも、きな粉はテーブルや床に舞い散ると地味に面倒だし、気管に入るとむせるので「とんでるきな粉」はちょっとだけ嫌かもしれない……そういうなんとも言えない気持ちが魅力的です。
「とんでる」というい抜き言葉のかろやかさも合っていると思いました。────────佐々木ふく

あなたを私と思う 脳を同期する

まじめだなあ、終わりまで説明してるなあ、と思いながら、この重ね方にこわいほどの切実さを覚えて目が離せない句です。
ただこれ、人間それぞれもともと別個、と思っているか、人間なんてどの個体ももともとそう大差ない、と思っているかで受け止めは変わりそうです。別個と思っているなら、上の句の思うはそうとう強迫的。なんらかのやむにやまれぬ事情あるいは時勢が裏に想像されます。そして直結する手法としての「脳の同期」。脳が同期できる、と思っている時点で個体の尊厳なんて考えになさそうですね。
……というところまで考えて、あ、大差ないって思ってる人は、そもそも「あなたを私と思う」なんて宣言しないか、ということに気がつきました。やはりどこかディストピアな強迫性でもってそう思わされ、直線的に同期に向かわされる怖さで読む句のようです。技術的にも信条的にも「加速」しきった宗教のような、主義のような。単なるSF句と取れなくもないのですが、今回は時事句と取って、その切実さで並選です。────────西脇祥貴

貞淑のあぶり照り焼き '99

Z級映画感があって好きです────────南雲ゆゆ

シメサバを締め殺したらシシメサバ

シメサバはそもそも生きてはいないし、シシメサバもよくわからない。「死シメサバ」ってことかな。じゃあ締めるという殺し方の意味は。とか考えてしまうけど初読では何故か納得してしまったので並選で取らせていただきます。────────スズキ皐月
シメサバーッ!!し、死んでる……
脱力してしまうような面白さを感じた句。シメサバのように既に死んで食べ物になっているものを締め殺す、というのも面白いし、締め殺した結果がシシメサバになっているのがもう愉快でした。シシメサバ。死シメサバなのか締シメサバなのか。ちょっとポケモンの名前みたいな感じもします。しかもシメサバ→特殊進化→シシメサバみたいな。ゆるく力の抜けるような感じがしますね。シメサバはたまったものじゃないと思うのですが、人間は食べ物と生き物とでは明確に態度を変えるので、そういう軽薄さ?薄情さみたいなものもうっすら感じで愉快でした。────────城崎ララ
しめ鯖の「しめ」って結局どういう意味なのか?ということを知らずにこの句を読み、後から調べてみたところ"しめる"というのは酢につけて反応させ、身を締めるという意味だそうです。この句においてシメサバはいったん殺されて酢で締められることにより鯖からシメサバとして姿を変えた後、さらに締め殺されることで二重に死を背負った存在=シ・シメサバになったのかなと思いました。しかしその死の重ね方が無造作というか、軽くラップをかけておきますね、くらいのノリで重複させているのが面白いです。平面的に積み重ねることができる、視覚的に加算であるという死のイメージの捉え方が好みでした。────────毱瀬りな
「シメサバ」って一回死んでるはずなのに、さらに絞め殺されてしまう。なのに名前に「シ」を一つ足されて終わってしまう。ユーモアと切なさの同居。────────佐々木ふく 

挨拶の語尾が消えちゃう魔法使い

萌え句? 魔法使いでなくてもわりと語尾消えってやりますよね。ぼくもやる。自分の中へ引っ込んじゃうんですよね。。。ということで、魔法使いだとどうなのか、がつかみきれなかった。でも会ったら仲良くなりたい。
あ、「魔法」にその前が全部係ってるのか? だとしたら相当面白いけど、これは定型の器のせいで、そっちに読むのが相当むずかしくなってますね……。────────西脇祥貴

さいしょのグーは出家しました

さいしょのグーが出家してしまったら、私たちはどうやってじゃんけんを始めたら良いんですか…?失って初めて分かる、さいしょのグーのかけがえのなさ。政争に敗れて出家せざるを得なかった人の、諦観にも解放感にも似た微笑を見てしまった気持ちです。出家したさいしょのグーが俗世を離れて自由に暮らしてくれたらいいなと願うばかりです。────────南雲ゆゆ
「出家」をどう捉えたら良いのか。本来、崇高なもののはずなのに、「さいしょのグー」には、なんとなく、現世に嫌気がさして出家しちゃったイメージもあります。ずっと、何も考えず、とりあえずで皆に出され続けていたら、そりゃ嫌にもなりそう。
あるいは、志村けんさんを悼むためかもしれませんが…
グー・チョキ・パーのなかでは、グーが一番出家してそう。────────佐々木ふく
志村けん発祥さいしょはグー。について、ここまでの飛躍が見られたらもう痛快です。スピード一発勝負の句。キャッチーです。良いで? 句。出家した。だからどうした? という突っ込みをすらっと返せます。
出家がいいなあ……。他の並選句、内容の切実さと時事っぽさでもって今取らなきゃ、で取ったのでちょい重になってしまったんですけど、この句を入れてバランス取らせてもらいましょっと。題「じゃんけん」なら間違いなく特選。「さいしょのグー」を隠して「○○○○は出家しました」として、入れられるか、というよく言うやつです。────────西脇祥貴 

時実といえば何人いるでしょう?

偉大な柳人を賛美するようで、門下生にケンカ売ってるようにも読める句。厳密に言えば売ってないです。時実家、で考えたら何人もいるでしょう、ケンカの売りどころがずれてます。そのずれようが川柳っぽいといえばぽい。実際門下の方が見られたらどう思うんでしょうね。どうも思わないかなあ。こんなの川柳じゃないっていうかなあ。くやしいなあ。せめて苛立って欲しい。────────西脇祥貴

もう一度を何度でもするトムハンクス

プロ意識ですね! 再現可能性ってほんと大変というか一種の才能だ、とむかし青年団さんのドキュメンタリー映画を見て感じたのを思い出しました。青年団さんの稽古、おんなじシーンをおんなじように何度も何度もやってました。ふつうそうなのかな。にしても執拗に見えて。その最たるものとしてのトムハンクス……という読みではふつうなので、演技に限らない「もう一度」そのものを何度でもする人なのかなあ、と思いました。
余談ですが、『マネー・ピット』という映画をだいぶ後追いで見て、トムハンクスそういうとこから来た人やったのか……と衝撃を受けたことがあります。────────西脇祥貴

フィナンシェに掘るあの子の口角

創作意欲のある変態で好感?をもちました。揚げ足とりですが、「彫る」か「ほる」かと────────公共プール

石鹸でこする十七本の指

手足合わせて十七本。三本足りない。その不足へ目を向けさせる句、という読みか、そもそもばらばらのちぎれた十七本の指なのか。いずれにしても残酷な何かのあと、という趣です。それだけ景にインパクトがあるので、そのどちらか言い切れないのが傷と言えば傷になってしまっている印象です。今回、どこか残酷さを匂わせる句が多いので、その点でひとつ下がってしまうかも。ただそういう残酷へ、石鹸片手に立ち向かおうとする地道な生のありようからは、目が離せません。
にしても十七、どこから来たのかな。十七音からかな。────────西脇祥貴

ゴンドラとバスの違いは心意気

どっちも揺れるし、自分で運転しない乗り物ですね。心意気だったのか〜!ところで、心意気というのは不思議なもので、気合いとか、気遣いとか、そういうものが近いのかなと思うのですが、では心意気を見せて!と言われるとどうしていいかわからないし、心意気で勝って!と言われてもどうしていいかわからない。心意気、あまり具体的に提示することに向いてない気がするのです。心意気……これが方針だとか座右の銘だとかならまだしも……そういう見えにくいもの、こうだと提示しにくいものが違いです!と言い切られてしまうところに句の面白さを感じます。結局、ゴンドラとバスの心意気の違いって?と聞いたら、さあ……と返ってきそうな予感までしています。楽しい。────────城崎ララ
ロープウェイのゴンドラ、もうちょい長くてタイヤがあればバスになれる。でも心意気が足りないからバスになれずに吊られているんでしょう。そんなわけないんだけどそう言われるとそんな風に思えてくる面白さ。全然関係ないけど「ゴンドラとバス」って「コントラバス」みたいですね。────────二三川練
コントラバス。バイオリン。目線。────────ササキリ ユウイチ
もっと他にあるやろうけど「心意気」と言われてしまうと、ちょっとそうかも、と思いたくなる魅力が「心意気」にはありますね。ほかにも「違いは心意気」のシリーズを見てみたいです。────────佐々木ふく

野比のび太も話題も過去に流れ着き

のび太が流れ着いてるシーンって多分人生のどこかで見たことがある。実景がリアルに頭に浮かびつつ、話題とともに過去へと流れ着くという虚景、そのグラデーションがおもしろかった。────────雨月茄子春
野比のび太だけならタイムマシンで過去に戻ったんだな、で済むのだけどこの句には「話題」も過去に戻るものとして出てくる。並列で出てきているが自分はこれは別の世界の出来事のような気がしてならない。というのものび太たちは「過去の話題」なんてものが簡単には結び付かないほど若いからだ。
なので初読ではテレビでアニメドラえもんが流れてる傍らで会話をしている人ふたりがいて少しずつ過去に思いをはせている様子が浮かんだ。そう読むともの悲しさも感じる良い句だと思った。────────スズキ皐月

バランスをとるって何?お誕生日

お誕生日という言葉が持つ不満げな表情をうまく取り出した句だと思う。韻律のずらし方も好きだった。────────雨月茄子春
率直な疑問! ぼくも聞きたい。バランスの大切さはわかるものの、実際それをとる、って結局なんなん? みんなどう考えてるん?? でも、聞いて知るものでもないようなのは分かってるし、たぶんこの作者さんも分かってるでしょう。だからつぶやいてみた。お誕生日。これ、つぶやくとかなりじわじわしあわせのにじんでくるワードですね、いまさらながら。ちょっと今つぶやいてみて、「お誕生日」。別にきょうが誕生日でなくても、なんかじわじわ、しあわせ来ません? 難題からダイレクトに突入することで、そのじわわせ性に気づかせるアクロバット。えーい、並選だ。────────西脇祥貴

お前しか足を向けて寝てくれない

普段は通り過ぎてしまう系の句なのですが、川柳のフォースを感じました。
世間は余所余所しすぎる。義理があるからって、足くらい向けて寝てくれたって良いのに。寂しいこと言うなよ。お互い様じゃないか。誰も足を向けてくれなくなったら寂しいかもしれない。実際世界はそういう方向へ向かっているようにも思われる。
でもこの句にはお前がいる。友がいることはすばらしい事だ。
お前がいる事は喜ばしいことなのか、お前しかいない(いなくなった)ことは嘆かわしい事なのか、そもそも足を向けて寝てくれる人はそもそもお前しかいなかったのか、そこまでははっきりされていないが、読み手はどう読むのか。
孤独の中にいるお前。作者は孤独ではあるが一人ではない。孤独を嘆くというより、孤独である事を受け止めるための、お前。ややナルシズムを感じる、お前。お前などという存在はどこにいるというのだろう。お前はもうひとりの自分なのかもしれない。孤独な自分を自己肯定するための、お前。────────下刃屋子芥子
ど川柳でんなあ、よろしいなあ……。しかもちゃっかり十七音。こてこて感はあるものの、いぶし銀のかがやきでもって脳にこびりつくタイプの句では。足を向けて寝てくれる相手を望むこころというのは、ひょっとしたらさみしいスーパースターのこころかも。案外そういう相手の方が生きていくには必要だったりして、うまくいかないものですね。────────西脇祥貴

終焉はチャリで40分かかる

韻律よし。Z世代感。終焉とチャリのセットはポケットモンスターダイヤモンドパールを想起させる。この世代からすると、割とうまく想像できる気がするし、そうじゃなくても叙情的な雰囲気を感じるんじゃないかと思う。そしてこの軽さがまさに川柳!という感じ。あっぱれ。────────ササキリ ユウイチ
終焉にチャリできた!!チャリ40分って絶妙に長いところがまた良くて、怠さもありつつ、まあそれでも行くか〜のバランスが取れてる気がします。怠いけどまあ行くか……のぎりぎりのライン。たぶん歩きだったら行かないし、バスだと5分(ただしバスが15分後……)みたいな風情も感じます。好きです、この終焉。チャリの気軽さと終焉の重怠さの取り合わせも良いなと思います。特選と迷った句でした。────────城崎ララ
終焉まで、案外遠いし、体力がいる。────────佐々木ふく

♪粉ーーーーーーーーーーーーチーズ

レミオロメンの「粉雪」なんだろうけど、単純な替え歌としてはチーズはおさまりが悪い。「粉雪」といえばニコニコ動画などで「忙しい人のための粉雪」みたいに消費されていて、歌詞を一部飛ばして別の言葉にして歌の意味を変える遊びがあった。この句はそれと同じことをしているのではと推察して楽しんだ。「忙しい人のために川柳化した粉雪」なのかもしれない。────────スズキ皐月
ファーストインプレッションでは「アメトーーク」のイントネーションで読んでしまいいまいち飲み込めなかったのですが、三回くらい繰り返し読んでいるうちにレミオロメンの方であることに気がつきました。勘違いとはいえ、文字列の情報量の割にこんなに繰り返し読むことを強いられている時点でわたしは既にこの句の渦中に巻き込まれているのだ…と思い点を入れました。
ここまで清々しく言われてしまうと、なるほどまあ言われてみれば雪もチーズもなんとなくビジュアルは似ているし、どっちでもいいんじゃないの別に、という気がしてくるようなしないような…。これが川柳の任意性、ということなのでしょうか。
雪よりも先にチーズが生まれた世界に浸ることを許してくれる句でもあるのだと思います。────────毱瀬りな
この書き方でレミオロメンとわかるのはすごいことだと思う────────雨月茄子春
ある時期、本当にばかみたいにどこからでも流れてきた歌。でもそれだけ流れても、大半の人がこの部分しか知らない。そしてそれが何を言っている部分なのかも知らない。だからチーズにつなげたってだれも気づきやしない。だれも。そんな歌作った人のこころって今どうなっているのかな。ソロでやってらっしゃるんですよね、ググりもしませんけど。大衆歌。まさしくですが、大衆はバカだから、ってペット・ショップ・ボーイズのひとは言ってました。それを墓(ごめんなさい殺して)から掘り返して、そっとチーズを添えてやった。軽いは軽い。おかしくはない。穿……ってるのかな。でももう過去の歌になってる以上穿つ意味もあまりないわけで、大衆文化の高速化を穿ったにしてはあまりにネタが古い、から、たぶん笑った方がいい句。ことによれば最後チーズに合わせてピースのひとつもしてやった方がいいのかも。
あ、ーをひとつ一音と勘定するなら十七音になってます。川合さんも兵頭さんも最近おっしゃられていた、定型への配慮。なのか、な。一応数えたから報告まで。────────西脇祥貴
これ、川柳句会ビーメンだけで許される。しかし、これにも文脈がある。なお、ビー面的文脈だが。────────ササキリ ユウイチ

こうすると聞こえる国家の駆動音

「こうすると」というはじまりが技巧的。ユーモアと現実のバランスがよいと思った。────────小野寺里穂
昨今よく聞こえてきてますね、国家の駆動音。まさかひとり撃たれることで、こんなに聞こえ出すようになるとは。あまりの効果にやっぱりな、と思いつつ、いたたまれない思いです。時事句としていま強烈すぎて、それ以外の解釈ができず……すみません。ちなみにこ、きこ、こ、く、と音の配置がいいので、中八はどうでもよくなります。────────西脇祥貴

ゆらめくものをゆらめきで突く

川柳について自己言及しているようにも読めて面白い句。だんだん文字列自体がゆらめいて見えてくる。────────小野寺里穂
声明のような句です。のらりくらりとゆらめく相手には、こちらもゆらめきで対抗する、真っ当です。ちょっと率直なままだな、とか、「を」が「は」だったらとか、細かいことに引っかかってしまいましたが、ゆらめき、というぼんやりげな名詞のことを言いながら、句そのものは断定しているのがなんともふしぎです。────────西脇祥貴
もはや全然突けてなさそうやけど、ゆらめきなので、それで良いのかもしれません。────────佐々木ふく

こんにちは どうもどうも de ぐりとぐら

まあたしかに、これはスペースが入らなきゃ成り立たないだろう、と思わされた。────────ササキリ ユウイチ 

糸を吐くやうに集まる朝ごはん

どうしても蜘蛛を連想してしまって。人間関係を捕食として捉えるにんげんは、世の中少なからずいるのだろう、といった塩梅の一人よがりの読みとしてさいしょはうけとった。押し出されるような吐く運動に喩えられて、放射状に張られた蜘蛛の巣が心中にできあがる。ただ、これが川柳、というフィルターがかかると、文字通り自分を中心に四方から、トーストやらお味噌汁やらヨーグルトやら目玉焼やき、昨夜の残りのカレーやらが集って来て、あれも欲しいこれも欲しいと出勤や登校前でも構わずにいつのまにかおれたちはさながらモーニングビュッフェの火力発電所だ────────公共プール
糸を吐くで思い浮かべるのはやはり蜘蛛かな。となると朝ごはんの集まり方は蜘蛛の巣状に近い気がする。「集まる朝ごはん」となるとそこに家族とか誰かの存在を感じさせる。人と人を絡めとる糸の句なんだと思った。────────スズキ皐月 

学歴不問(※戦争につき)

本気の戦争には明晰な頭脳が必要だと思うのですが(学歴=頭脳明晰かは置いておいて)、ここではあえての「学歴不問」。
ということは、たぶん、数として人間が必要な、その向こうにはっきりと「死んでも構わない」という気持ちの透けて見える「学歴不問」。
本来、悪い意味ではなさそうな「学歴不問」に「(※戦争につき)」をつけただけで、こんなに不気味になるのは、発見でした。────────佐々木ふく
昨今の時勢から戦争や宗教に関連する言葉が一段と重みを増しているというのは紛れもない事実であり、そのような形で重みを増してゆく単語を眺めていると、あるコンテクストに連なる言葉の強さがいかに不確実であり同時に絶対的なのか、ということを思い知らされるようです。
どのような文脈に埋め込まれようと何らかの意味を見出そうとしてしまう、2022年にそれを組み込んでしまった時点で否が応でも同時代性を付与せざるを得なくなってしまう、戦争という言葉は現在それほど強い力を持っているように感じます。
それゆえに、この句から何を想起するにしても絶妙な気持ち悪さが残るというか、どう頑張っても立ち止まらざるを得ない逆さまつげとかささくれみたいな突起のある句だという印象を受けました。戦争という強い強い言葉を使っておきながらそれをあくまで注釈付きの括弧の中に留めていることで、句が短詩としてのバランスを保ちつつ"ささくれ"としての強度を上げることに一役買っているのではないかと思います。────────毱瀬りな
句会のバランス的に、こういうシンプルなものは上手くいくと刺さりやすい気がする。順番が最後の方なのもよかった。────────雨月茄子春

秋桜が蝋燭になり泣く貴方

これ、ちゃんと美しい。「貴方」……、あなたとか私とかの人称が川柳に入ってくると(たとえ短歌でも)しつこいな、と思う。言わなくてもいいよ、って。泣く○○○、の三文字は貴方じゃなくてもよかったかな、とは一方で思いつつ、コスモスから蝋燭になる、季節の移り変わりとも読めるが、まあそんなことはどうでもいい。庭に咲くコスモスが部屋に灯る蝋燭に変わったのではなく、コスモスがそのまま蝋燭に変わったんだと読むのが川柳。「貴方」はもっと別の理由で泣いているのかもしれない。────────ササキリ ユウイチ


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