川柳句会ビー面 6月号


しゃべらなきゃいきもできない硝子たち

どういうことだろう、と考えてしまうが繊細さが伝わってきてそれが心地良い。──────────スズキ皐月
「しゃべらなきゃいきもできない」とはなんともかわいそうな生物だ。生きるためにはつねに発話し、自己表現を続かなければならない。そのひりひりとした切実さはまさに硝子のように危うく、今にもヒビが入りそうだ。また、これは表現者の暗喩とも取れるし、何でも呟かねば気が済まない現代人の暗喩とも取れる。どちらにせよ諧謔があり、どちらの読みもできるという点がこの句において肝心なのだろう。硝子である私たちは本来しゃべらなくても息ができるし、あるいは、息すらももう必要ないのかもしれない──────────二三川練

鴎外がチャットモンチーにハマったら……

……が思わせぶりで良いですね。──────────南雲ゆゆ
ドリフ大爆笑のコントのタイトルみたいで止まっちゃいました。くやしい。けど止められたのでこの句の勝ちです。
鴎外せんせー、むつっとしてるしど官吏ですからかえってチャットモンチーはまりそう。えっちゃん名言集動画とか毎晩見てにんまりしてそう。うわー。そんな手で書き残された『渋江抽斎』。うわー、深みの増し方が国文学史上にないレベルです。いっしょにカラオケ行って"風吹けば恋"歌いたい。あー、でもそんなタイアップ曲は邪道とか言って初期作の歌詞のこととかずっと語られそう。そしたらぼくは"8cmのピンヒール"で対抗しましょう、そうしましょう。──────────西脇祥貴

あたらしいハンカチばかりの焼却炉

ナンセンスではなく、謎。そこになんらかの事情があるはずで、複数の憶測を惹きつける。妄想は重奏になって句の周りを流れるばかりで、謎は謎のまま美しく動かない。
自分はあまり川柳を物語として読めず、そのように読むとすれば評を書くために故意にエンジンをかけるような読み方になることが多かったと思う。けれど、この句のリドル・ストーリーのような佇まいには触発された。──────────嘔吐彗星
外観としてシンプルな印象を覚えました。〈あたらしい〉という表記によった言葉のひらかれ方が〈ハンカチ〉と呼応するうえで正しい選択であった、とすら思います。
〈あたらしいハンカチ〉ばかりが〈焼却炉〉に投げ込まれている情景は悲しく、惹かれました。──────────松尾優汰
呪いのようなおぞましい景がぱっと頭に浮かぶ。自分が思い浮かべたのは学校の隅にある焼却炉。もちろんそんなところでハンカチを処理するわけはないのだが、生徒たちが持つハンカチを集めて燃やそうとする誰かを感じる。その人物の顔は見えてこないがそれもまた不気味さがある。──────────スズキ皐月
画の衝撃。はじめ、火の点いていない焼却炉の中にまっさらのハンカチが、もう火の起こらないようにいくつも折り重なっている画を思い浮かべて、亡くなった人の顔にかける白い布みたいだな、と思いました(余談ですが、スパルタローカルズというバンドが解散したとき、最後の曲の演奏後、「スパルタローカルズ、大往生!」というと同時にステージの上から大きな白い布が落ちてきて、すべての楽器を覆ってしまうという演出がありました。ほんとにおしまいなんだ、とがつんと思い知らされました。その後バンドは再結成して今前よりも元気です)。
つづいて、燃え上がる焼却炉の中でひとつも燃えないまっさらなハンカチの束を見ました。どれだけ燃えても燃えないんです。白。純潔? 正義? にしても燃えないことがうつくしいのではなく、こんなに怖いとは。ごうごう燃える音と熱の中で変わらない白を見つめて、はたしてこれが味方なのか、脅威なのか判じかねて時間ばかり過ぎる。その時点でもう、食われるのを待つばかりなのだと知っていながら。無力さと恐ろしさの充満した句です。
……あとこれは読み過ぎか、とは思うのですが、焼却炉、ということばをここで見ると、なぜか炉の字が頭になんども瞬いて、増殖炉だとか、原子炉だとか、そっちのことが重なってきてしまいます。もし、白いハンカチが隠しているのが、そういう炉、なのだとしたら……。──────────西脇祥貴
焼却炉の字面からてっきり焼けているものとばかり思って読んでいたのですが、ふと「あたらしいハンカチ」ばかりだとわかるのなら、燃えていないのだなと気づきました。そこから少し見方の変わった句です。
焼却炉を開けてみると、中にはあたらしいハンカチばかり。なんとなく白いハンカチで思い浮かべていたのですが、これは紙を燃すイメージも相まっての連想かもしれません。火のない焼却炉に入れたハンカチはこの後燃やされるのか、或いは使わなくなった焼却炉はそれ自体がミステリにおいてはしばしば重要な隠し場所のようなもの。「あたらしいハンカチばかり」というのもすごく意味深ですよね、誰の?何の?どうして?と問いを重ねたくなる、かなりミステリ的な読み方のできる句です。わざわざ「あたらしいハンカチばかり」の後で「の」を加えてあるので、このハンカチのための焼却炉、と読んでしまいたくなります。──────────城崎ララ

紙インターフェースふれて擦過傷

「紙インターフェース」と「擦過傷」という言葉の出会いが強い。──────────小野寺里穂

窓ガラス諸君に望む矛盾せよ

ガラス被りました! こちらはカタカナのガラス。しかも窓ガラスなので、形状・用法とも想像しやすいです。
窓ガラス、ふと見回してもよく目に付くほどあふれているので、諸君、と呼びかけるのは理にかなってますね。このカタさ(諸君、望む、せよ)も、いかにもアジっぽくて雰囲気抜群。そしてこうして見ると窓ガラス、アジられる対象っぽいですね。表情ないし、どころか透けてますし。そしてそんな連中に、矛盾を望む、という……。どの性質を矛盾させるかにもよりますが、これは端的なアナーキー指令。透かさなくなったら世の中監獄だらけになりますし、防がなくなったらおそらくこの夏たくさんの死者が。アジられる対象っぽいなんて言ってごめんなさい、窓ガラス、こんなに役に立ってくれているのに。
でもそう気づけば気づいたで、ときどき矛盾しても良いよ、とも思ってしまいます。そもそも主体はどうして、窓ガラス諸君に呼びかけようとしたのかな。なにかの矛盾のなさに嫌気がさしたのかな。この世最大の矛盾は、矛盾の生じるべきところに矛盾がなく、矛盾のあらまほしくないところで矛盾ばっかりしていることだ、って、気づいちゃったのかな。であれば窓ガラス諸君、一分だけでも良いから、呼びかけに応えてやっておくれよ。──────────西脇祥貴

雰囲気が砕けたフィンガーボウルみたい

ななめ上比喩句。雰囲気→砕けた、砕けた→フィンガーボウルはそれぞれ通りますが、くっつけると途端に?となる。想像がつかなくなっちゃう、という強みです。
そもそも砕けたフィンガーボウル、とは? 目下一度もフィンガーボウルに遭遇したことがないので、あれが砕けるものなのかどうかも存じ上げないのですが、砕けたらとりあえず、中身はこぼれますよね。あの薄い紅茶みたいの。高貴なようで、でも台無し、あ、そういう感じを比喩にした、ってことか! 雅やかなのに常時台無し。うわー、ある。ありますわ。これうまい句です。膝ポン。でも一見膝ポンじゃないのが最高。──────────西脇祥貴
「雰囲気が/砕けたフィンガーボウルみたい」なのか、「雰囲気が砕けた/フィンガーボウルみたい」なのか、どちらでも良いなと思いつつ、前者で読みました。
食事中の指先をすっきりさせるためのフィンガーボウルが砕けてしまう、なんとも言えない雰囲気ですね。そんな感じの雰囲気でも、それでも食事は続いている…いっそ本当に砕けておひらきになれば良いのに…そんな景色を想像しました。──────────佐々木ふく

うみうしを乳液にしてごらんなさい

ウワー!やだ!!の気持ちから気になって近寄っていった句です。うみうし、なんだかちょっとぬめっとしている印象で、乳液のあの感触と近いんじゃないかなと思ってしまって。うみうし触ったことはないんですが、なんとなくウワ……似てる感じする……やだ……の気持ちが出てきて楽しかった。化粧品の成分ってなんだか妙に自然派を推していくところもあり、それで余計にイメージが付いていったのかなあ。「ごらんなさい」の言い聞かせるような、あるいは自信ありげに披露するような、マジシャンみたいな口調もウワー!やだ!!の過剰反応に繋がったのかも。たぶんこっちがやだ!って言ったら喜びそうなんですよね、この「ごらんなさい」のひとは……読みながらひとりでコミュニケーションとってました。楽しかったです。──────────城崎ララ

運河から手を振る綿あめ考案者

綿あめの始祖たる綿あめ考案者はどこかにいて、運河から手を振っていることがあったかもしれない。川の選択がよかったと思う。綿あめ考案者はすでに死んでいるだろうから、彼岸と此岸を暗示する川がここで出てくるのは負荷なく受け入れられる。──────────雨月茄子春
綿あめ考案者は確かに遠くからこちらに向かって手を振る無邪気な人間のような気がする。川もただの川ではなくて運河。なんとなく栄えた街を想像する。遠くに綿あめを広めに行くのだろうか。物語を感じる句だった。──────────スズキ皐月
ぱっと見川合大祐さんの句かと思いました。なぜか? ことば同士の公約数・公倍数の中で組み合わせを選び、5・7・5の音数に合わせてはめこむ手法がわかりやすく見えた気がしたから。中八ですが(ぼくは中八のことを憎めるほど知りませんのでご安心ください)。あと飛び方の幅が似ている気がした――というのはぼくみたいな歴のものが言えることではない気もしますが、見覚えのある幅だ、という気がしたんです。これは今後、個人的にその理由を確かめたいところでもあります……。
そこまで似ている気がして、では違うところはどこでしょう、と考えると、綿あめかなあ、と……。この流れで川合さんなら、綿あめは出さない、とこれも気がするばかり。ごめんなさい、川合さんと並べてばかりで……。でもそれだけの強度がある、ということだと思うんです。選んだことばの強度を信じ、組み合わせることばとの共鳴を信じ、定型を信じ、その結果の勝利を信じて川柳する。そのストロングスタイルに近いものを感じ、さらに綿あめでそれに自分の色を乗せようとしている。その挑戦に○、です。
ついでに調べたら、綿あめは江戸期日本で考案された説があるそうです。じゃあ運河は隅田川、なのかな? うーん、これはちょっと野暮か。すみません。──────────西脇祥貴

3+5雨が降ろうが瓶詰めに

3+5に哲学を感じます。インパクトがありますね。3+5の意味を考えても分からなかったのですが、しかし3+5が私の眼前に立ち現れている、その現象が圧倒的だと思いました。──────────南雲ゆゆ
魅力はやっぱり3+5。8、じゃなく。ここが魔法の呪文ですね。最近『アネット』を見たので『アネット』で例にしてしまいますけど、あの始まりの台詞、「So, may we start?」に相当します。あ、もっと単純に言えば「推しが燃えた」か。とにかく、句の世界の扉を開けて、中へ誘ってくれる呪文。として、強烈。
なだけに、その後にもう少し情報をほしかったです。。。持っているイメージはいいのですが、あえて目的語を欠いているので、広がりすぎてしまった感があります。いや、いくらでも想像はできるんですけどね。青空屠殺のち瓶詰めしたい性癖とか(なにそれ)。いくらでもできすぎるのもむずかしい。それだけやはり強烈な、3+5です。──────────西脇祥貴

東京はピンクの背骨十二番

音楽みたいだ。背骨の十二番(目)なんだけど、ピンクの、とついて音楽的になる。それから主語が東京だからなのかも。ソリッドでフィックスドな雰囲気にならず、酩酊の響きが谺している。──────────ササキリ ユウイチ
下五で念を押すように十二番、と変に具体的な数字が出てきたことで、有無を言わさぬ説得力が生まれてる気がする。──────────雨月茄子春
背骨十二番、に"くじら十二号"の響きを感じました。それ+ピンク、東京ということば選びでかなりポップなのですが、漢字表記の「十二番」がぐっと押さえている。これがたとえばNo.12とかであればポップなままでもいられたでしょうが、ちょっと浮かれすぎる気がします。東京への批評とするなら、こちらでしょうか。
ところで、背骨のうち十二番まであるのは胸椎だけで、さらにその一番下が十二番だそうです。ちょうど丹田くらいなのかな。重要な骨のようですが、それがピンク。ポップなのか、腐ってるのか。ビー面にいる方にどっちだと思いますか、と聞いていったとして、どちらが多数になるかはなんとなく想像がつきますが、ピンクに腐る、とは極東の変態国家らしい。折れるまで馬鹿騒ぎするか、それとも。ピピッピピッ☆★──────────西脇祥貴
東京に背骨がある。さらにその背骨はピンクである。この驚きから無造作に置かれた「十二番」は、慣れた数字であるゆえか違和感がない。「背骨」から「背番号」への転じとも取れるし、無心所着体として読み意味的な読解に走らないほうが面白い。──────────二三川練
十二番目の背骨は、よく骨折するのだと、今回調べてみて知りました。でも、ピンクの背骨なら、何度骨折しても立ち直ってくれそう。不思議な強さを感じました。──────────佐々木ふく

恣意的な野生の中で遊んでおいて

つなぎの妙ですね……。南雲さんのキラーフレーズ=「土着的撥音便」を思い出させる強度が、「恣意的な野生」にはあります。
そしてこれ、実は非常に微妙な立ち方のつなぎじゃないか、と思います。だって改めて考えたら、野生って本来、恣意的じゃないですか? 野生の中にいるすべてが恣意的に生きている。生まれる。食う。殺す。つがう。生む。生まれる。食う。殺す……。恣意のためにたくさん生まれ、たくさん死ぬ。そのどうしようもないエネルギーの総体が、野生。野生の本質のひとつが恣意性、と言ってもいいかも知れません。
でもこの「恣意的な野生」というつながりになると、恣意の主語が野生そのものではなく、また別のなにかであるように思えてきます。なにものかの恣意性によって恣意的で「あるように見える」野生。そこで「遊んでおいて」、とは……。放置、うすい暴力の気配さえ漂います。5・7まで来ての7、での放り出し方。なんとも居心地の悪い気持ちになります。ここで遊んでなきゃいけないのか? そもそも、遊ぶってなんだ?? でも異議申し立ては、最後の7音の放りだしによって、しずかに禁じられています。
いろいろ考えてしまう。思い出したのはゆらゆら帝国"できない"の歌詞の一節、「適度にフリーな奴隷」でした。この句を吐いたのは誰、国? 社会? それとも案外親族かも。野生の恣意性をはき違えたまま、こうして気づかなければ、ぼくら自身の恣意性は無言で踏み潰されてしまう。気づいて、という暴露の句だと今回は取りました。戦う川柳。そう、鶴彬さんがやったように、川柳は戦うこともできる。そのひとつの現在形。奮い立たされました。特選です。──────────西脇祥貴

「倫理の教科書がわたしを責めたてる」の句以上にストレートに、川柳自身のメタ発言として読んだ。「倫理の教科書がわたしを責めたてる」とは対照的に、川柳がこういうことを言うのはオーソドックスと感じる。自由志向を基調とする現代川柳においては、規範を無視し「恣意」や「野生」を肯定する姿勢は王道のスタイルで、かえって無難に見えるということ。
この流れは絶えず続いていくのだろうし、それは志向というより希求に近いものだから、続いていくべきだと思う。つねにその質を試す流れとともに。──────────嘔吐彗星

消火器という名の猫が帰る家

一編の小説のようであり、同時にこの一句で全てが語られている。「消火器」と名付けられた猫。背景も飼い主が何者なのかもわからないまま、その猫は私たち読者から背を向けて家へ帰ってしまう。消火器は火事対策の必需品と言えるが、しかし火事が起こるまでは誰からも無視され、空気のように扱われる存在である。本来、必要とされないことが望ましい。しかし、この句ではそんな名前を付けられたことに対し一切の価値判断が行われない。「消火器という名前の猫」がいる、ただそれだけの事実が受け入れられている。この猫が帰る「家」とは、いかなる名前を付けられようと構わない川柳形式のことなのかもしれない。──────────二三川練
不思議と村上春樹が読みたくなった。命名の面白さが光ってる。消化器という名の猫……消化器は……いいな……──────────雨月茄子春
『ハムおじさん』ってかわいい絵本があって、おじさんの名前がハム、はまああるかもと思うんですが、おじさん、飼い猫にミートボールって名前付けてるんですよね。ちょっと目を疑いましたね。
それはともかく、消化器という名の猫。おさらばと言う名の犬、みたいのが寺山修司さんの詩にあった気がしますが(うろ覚え)、こちらははるかに即物的。消化器ですもん。口からいきおいよく白いガスを吐く猫、とことば通り想像してもおもしろい。あとは消化器くらいまるまるしてるのかな。こっちの方がありそう。あるとしても、消化器ってつけるかよ! というところが川柳ポイントですね。現実的に想像がつく分ちょっと近い、といえばいえますが、やり過ぎないこの距離は心地よいです。あとを帰る家、とじょうずに流したのも収まりが良く、なんだかんだ頭に残りそうな句です。火の気の多い家なのかな。──────────西脇祥貴

それは目の下の夏野菜

目の上のたんこぶ、目の下の夏野菜。
「目の下の」でググると「たるみ」と続くページがずらりと並びます。「目の下のたるみの原因と対策!」
「目の下のたるみ除去症例-○○クリニック」等々。目の上のたんこぶは自分が見えにくいからっていう不利益のことですが、目の下のたるみって、自分では見えないし、他人から見てどうかという話をされているんですよね。だけど老けて見えるなんてことはもう関係ない、だって夏野菜なんですもの。──────────南雲ゆゆ
目の上のたんこぶ、目の下のくま。目の周りにあるものにはあまり良いイメージがなかったのですが、目の下の夏野菜は、なんかエネルギーがあって良いなと思いました。──────────佐々木ふく
ジュニーク気味の一句。そして強烈にで? 句。トマトなのかキュウリなのか茄子なのか。目の上のたんこぶへのアンサーなのか。そんなことはもはやどうでもよく、野菜はぜひ旬にお召し上がりください。説明するほど野暮になる。し、どれを置いてもアルチンボルド。夏。ご自愛。川柳マナーによる、ささやかな時候のご挨拶。──────────西脇祥貴

二十三区にも五分の魂

「一寸の虫にも五分の魂」という時は虫に情けをかける時の言葉だから、この句の二十三区も上位存在に情けをかけられる場面かもしれない。それは例えば宇宙人のような存在でも面白いし、東京都とか日本政府のような上位の組織でも面白い。何度も読んでいるといろいろ想像が膨らむ面白さがある。──────────スズキ皐月
強めの筆圧でこの句が書きつけられたかと思うと、勢いよく何度も何度も、鉛筆が折れても穴が開いても、真っ黒にぼろぼろになるまで書き重ねられた。原形を失くした投票用紙を胸に貼り付けると、自分にもすこしは魂があるような気がした。──────────嘔吐彗星

純朴な蒲鉾たちのアナグラム

この句だって見ようと思えば川合大祐さん的と言えなくもないのに、そう思わなかったのはなぜか。5・7・5の間にぶつ切れになっているところがないからか、と今は思います。修飾関係として、はじめからおわりまで貫いているものがある。飛躍や断絶が、ないといえば嘘になりますが、川柳の許容範囲のなかでは十分自然なうちにできあがっていると思われます。……なんか今回、川合さんのことがよく頭に浮かびますね、なんだろう……。
純朴な蒲鉾たち、まったくその通りの印象ですね。形も純朴、色も純朴。魚=魚の死体をすり身にして型に入れて茹でて作る、というあらためて振り返るとスプラッタど真ん中の製法も、蒲鉾自体を見ているとそれほど気になりません。すけそうだらを見ていると気になるけど。そんな気さくな(?)連中によるアナグラム。いい飛躍です。ほどよく想像できない。ぺんぺらぺんの薄切りにした蒲鉾たちが、並んでアナグラムを作ろうとしている図がかろうじて思い浮かびます。なんて書こうとしているのかな。え? 「ユルサヌ」? ……いただきます。──────────西脇祥貴
この「たち」は音数を埋めるための「たち」に感じた。──────────雨月茄子春

さようならバウムクーヘンじゃあるまいし

バウムクーヘンはおいしいのに!おいしいし、楽しいのに、バウムクーヘンじゃあるまいし、みたいな悪口に使われているのが、複雑です。でも確かに、バウムクーヘンは別れるのが下手そうですね。今度、ずるずる別れられない人に出会ったら、この句を思い出すかもしれません。──────────佐々木ふく
「さようならバウムクーヘン」じゃあるまいし、と読んだ。「シーユーレイターアリゲーター」みたいな小洒落た(?)言い回しのようで好感触を覚える。こういう気の利いてない気の利いたセリフをサラッと言ってのけたいもの。──────────雨月茄子春
バウムクーヘンと同率の扱いを一瞬でもされた状況って、なに? という引きは強い句です。バウムクーヘンのどの要素を求められたんでしょう。ぺらーって剥がせるところかな。元は大きいのにぶつ切りでできるところかな。くるくる回して焼くところかな。そんな手間かかってるのにわりと安価な持たせものにされてるし大体の人にそう思われてるところかな。ここかも。さようならしたくなった、いま。バカにしないでよ。──────────西脇祥貴

吸水性・速乾性のいわおとなりて

とても好きな句です。多孔質の巌。珪藻土のバスマット。もしかして、まさにそれのことなのでしょうか。珪藻土のバスマットを「君が代」のように苔むす空気感で読み上げる。巌、鉱石、の読み上げられる側の持つ詩性や潜在性を生かしている。そのものをただ言い表しているだけとも言えますが、どのような角度で見るか、表現するか、というところに独自性やユーモアがあり、この句の妙技なのだと多います。作句のプロセスがどうであれ、この句が発せられたことを私は嬉しく思います。これからは珪藻土のバスマットの事を、「吸水性・速乾性の巌」と呼ぶようになってしまうかもしれない。──────────下刃屋子芥子
君が代のパロディとして読みました。吸水性・速乾性の巌だったら苔むせないですよね?むせないじゃないですか!この巌が雨という雨を吸水して速乾してる映像を思い浮かべたら、すごくダイナミックで頬が緩みました(私が想像したのは、地球に巨大隕石が当たったらどうなるか?系動画で、海が蒸発して岩肌が現れる感じのやつです)。君が代のほうは長い年月をかけてゆっくり変化していく印象を受けますが、この句は一瞬で変化する巌ですね。巌という厳かな漢字からは逸脱してみせるアイデアが素晴らしいと思いました。──────────南雲ゆゆ
君が代を雑にいじっていて面白かった。──────────雨月茄子春
君が代ハック。元を改めて確認すると、「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」。ちっちゃい石があつまって固まって巌になってそれに苔むすまでつづけ君が代、というザ・賛歌。それを見事に茶化して吸水性・速乾性。夏のおっさん向け下着ですな。巌になるかなこれ。でもそれが巌になるまでの年月は、さざれ石が巌になるまでよりUQな気がします。こういう、重々しいものを茶化しにかかるの川柳はおそらく得意ですが、茶化すことの性質上ドヤ感をよほど消さないといけない。それがからっと成功しているので、茶化すと言うよりより燃え上がるような怒りを裏に感じられさえします。
どうでもいいんですけど対象が君が代となると、君が代ハックというより君が代fxxkと言いたくなるのはぼくだけでしょうか。乱暴な発言失礼しました(でも残します)。──────────西脇祥貴
巌と見ると「君が代」を思い出し神聖なイメージを喚起されるのだが、それを吸水性・速乾性で語られると急に素材として見ることになり一気に卑近な存在になる。面白い。──────────スズキ皐月

梵語大事典に円周率の母性

梵語大事典→円周率→母性。この空中ブランコのえがく弧のゆたかさ(円周率、でちょっと円に触れてますね)。飛躍というより振れ幅の句、といえばいいのでしょうか、海馬さんの「川柳スイングバイ理論」のイメージが適当なのですが、ようはことばとことばをつなぐ大きな弧。その大きさがほどよく広がっています。
初手から梵語大事典は本当なら重いし、実際梵語大事典を引く人の数を考えたら、どうやってもイメージがつきにくい。そんな語なので、無理せず助詞に「に」を置いたのがやさしい。梵語大事典がなにかはわからなくても、大事典に、ならページを繰って次を待つことができます……ところで今気がついたのですが、大「辞」典ではなく大「事」典、ですね。あえてなのでしょうか。辞=ことばにかぎらず「事」象にまで広げたかったのかな。これはちょっと余計な読みかも。。。
そして事典に載っているものはなにか? 「円周率の母性」です。ややこしそう、これは並の事典には載ってないぞ、と思われた時点で梵語大事典を選択したことの支えになります(載っているかどうかは別として!)。母性、円周率の母性、なんべんでも書きたくなるくらいいいことばですね……。なにがいいんでしょう。二物衝撃の十分さはもちろん、円周率、という問いに対して、母性が名回答なんでしょうね。認識がぶち広がる自在さ。3.1415……という数列は無限なのだから、ひょっとしたらどこかに母性は含まれているかも知れない。そういう意味で、円周率と母性はたがいの公倍数に含まれる、ある意味妥当な組み合わせでもあるのだと気づかされます。……っていうかこの句、無限を含んどる&使っとる……!!? あー、まだまだまだまだ川柳おもしろい!!!!!
ちなみに音もいいですね。梵語大事典のenから円周率のenを呼び出し、母性のboもそういえば梵語のboですでに呼び出し済み。bo、en、en、bo、のゆるやかなアップダウン。句の大きな柄に合っていてより大きく、どんどん広がっていくようです。大きな大きな特選です。──────────西脇祥貴
盛り盛り、ゴテゴテ句だけどチャレンジングでよいと思う。そこを買ってとりました。3つの単語、なんとなくだけど近い気もします。──────────雨月茄子春

わたあめになれたけれどもゆうれいくん

「けれども」で採りました。わたあめになることもできた、けれども……ゆうれいくんになることを選んだ意志が表れていていいなと思いました。わたあめかゆうれいかの選択肢があったらなんとなくわたあめの方を選んでしまうかなと思うのですが、ゆうれいくんになることを選んだ意思を尋ねたい。──────────城崎ララ
(わたあめ被りしたので選が不能なものの、言及させてください。)
実体化が叶ったものの、むしろわたあめのほうが保存がきかず、霊体よりも儚いのではないか。アイテムがわたあめであることと、平仮名の語りかけから子供のゆうれいという印象を受ける。幼さゆえのミスがかわいそうでもあり、かわいくもある。──────────嘔吐彗星

あの屋根の目線になって空を動かせ

黒澤明名言集より抜粋、という時代の雰囲気をたたえた句ですね……。あの屋根の目線になって/空を動かせ、とばっちり断絶していて、どうしたらいいのか分からないのがいいです。しかも空を動かせ。できない笑 屋根の擬人化なのか? じゃあそれを先に言ってくれよ! というような、現場の声にならない声さえ聞こえてきそうです。──────────西脇祥貴

生クリームかつ生ヘビーボンバー

今回の句会で一番IQが低かった句はこれと思います。生ヘビーボンバー、アホらしくてよい言葉です!──────────雨月茄子春

わがかばねより伸びよ五線譜

倒れた身体から五線譜が伸びていく情景が浮かぶ。死後も五線譜によって音楽が続いていく、持続が示されているところに希望が見える。──────────小野寺里穂
七七と命令形の切れ味が、頽廃的なヴィジュアルを引き立てている。
屍の中に「ばね」があるからか、ワイヤーでできた五線譜を想像した。どこまで伸びるのか、音符を書き込んでほしいのか。毅然とした台詞からこだわりの強さを感じるが、その後の具体的な指示はない。人形の髪が伸びるみたいに、処理に困りそうでもある。かっこよさと迷惑のバランスがいいと思った。──────────嘔吐彗星
五線譜がポエジーに寄りすぎと思いつつBLEACH感があってギリギリカッコいいの気持ちが勝りました。──────────雨月茄子春

千切りにしたスヌーズをちらします

スマホなんかの再アラーム機能の歌だと受け取った。最初のアラームで起きても、あと5分、あと5分とスヌーズ機能に頼りながらうたた寝を繰り返してしまう。それは確かに意識の千切りのような感じだなぁと。そんな意識たちが部屋や、今日行くべき場所への道のりなんかに、朦朧とした意識や想像の中でちょっとずつ散らされていく。そんな流れを思い浮かべる面白い一句だと思った。──────────スズキ皐月
スヌーズ千切りにされたらもうぼく絶対起きられません。スヌーズ。ないと大変な目に遭うとわかっていても、あれほどにくいものもない、スヌーズ……。この乱れる思い。それが今宵、サフランみてえに調味料にされて……。ちょっとスカッとしたのはナイショです。──────────西脇祥貴

口内炎からはじまる降霊術

ずいぶん入り口が特殊だなあ、と思いつつも、かえってその自然任せの導入に信憑性を感じる降霊術です。いつだってできるもんじゃないぞと。特殊技能なんですから。──────────西脇祥貴

つつましく轢かれた猫へ羽根を描き

川柳は奇行にも及ぶし、暴力もふるう。この「つつましく」は「轢かれた」にかかっていると読みたい。殺された猫に対し「つつましく轢かれた」というエゴイスティックな判断を行い、さらに羽根を描く。これは弔いの形式を取った冒涜である。恐ろしいのは、「つつましく」という価値判断も「羽根を描」くという行為も無邪気に、無自覚に行われていそうな点である。ただの露悪ではなく、人間の根幹にある無自覚な加害性を自然と描写した一句として読んだ。──────────二三川練

恥ずかしい過去は卵でとじましょう

卵とじ。卵でとじる、というありふれた調理法がまるで万能の解決手段のように提案され、しかもごく冷静な口調なのが面白くて。教科書かなにかに書かれていてほしい。家庭科の教科書か、国語の教科書か。恥ずかしい過去も卵とじになったらみなくてすむし、けれど呑み込んでしまったらやっぱり自分のなかにあるままで。対症療法の感じもしますが、そうやってその場その場を凌いでいくことが生きながらえるってことなんだろうなあ。好きな句です。──────────城崎ララ
やはり、卵はやめなければならない。──────────ササキリ ユウイチ

かわいいね アナ・コッポラの卵とじ

まず、アナ・コッポラがかわいいのは自明なのではないかと思います。「苺ましまろ」という作品は見ていなかったですがタイトルは知っていました。検索:「アナ・コッポラ」「「苺ましまろ」という作品のキャラクターか」…アナ・コッポラのキャラクターについてひと通り把握し、動画をいくつか拝見。
………アナ・コッポラがかわいいのは自明です。
そのハーフ幼女を卵とじにするという素朴な表現から、欲望の表明以上の何かを読み取れなかった。欲望それ自体をよくないと言いたいわけではありませんし、素朴にキーホルダーとしてバッグに吊り下げるたくなるような、そんな気持ちが私の中にもあります。
「苺ましまろ」という作品は見ていなかったわけですが、調べただけでも「アナ・コッポラ」というキャラクターの潜在性、多層性には深い可能性を感じました。もっと生かして欲しかった「アナ・コッポラ」。川柳に親和性のあるキャラクターだと思います。そこは強く共感。アナ・コッポラがかわいいのは自明なので並選にさせて頂きました。──────────下刃屋子芥子

胃袋にチェシャ猫がまだ生きている

チェシャ猫、消えた?! と思ったらなあんだ、胃袋にいたのかあ、って、死ぬ、そこだと、死ぬ!!! いやチェシャ猫のことです、あえてそんなところに出たのかも。あの皮肉な感じ。胃袋に出てきてもおかしくありません。でももう声も聞こえないから、胃袋の持ち主にしかチェシャ猫、いる、ってわかりませんけど。いるんですよ、ほんとうなんです、胃袋の中に。チェシャ猫。はい、アリスの。そうです。いえ死んでません。生きてます。ほんとです。え、なんでわかるかって。そもそもチェシャ猫だってどうして言えるかって……。
そんなの、そう言いたいからに決まってるじゃないですか。──────────西脇祥貴

中耳炎に消防車をくれる

大胆な小児科。精神面をアゲることで内的治癒の効率を上げるという最新の療法。中耳炎は無理かも知れませんが、歯痛くらいならぼくもこれで治りそう。消防車いいですよね、炎にかかってるのかなあ、とも思うんですけどもはやそれはどうでも良くて。消防車が、いいです。あ、でも新幹線だったら一時的な腹痛まで治るかも。──────────西脇祥貴
せめて救急車を…──────────佐々木ふく

水中の鉱石だから光らない

水中では鉱石は光らないのか考える。光がまったく届かない深海なら光らないのかな、と。そう考えると深海魚とか他の深海生物とか一気に登場人物が増えて景も豊かになる。
奥行を感じて面白いと思った。──────────スズキ皐月

別銀河でも流行ったねテトリス

別銀河なんてどんな壮大な物語が繰り広げられるのかと思ったら、テトリス。流行ったね、ということは、今はもう流行っていないのでしょうか、切ない、テトリス。
でもテトリスのシンプルで奥深い感じが、実は別銀河と合っているのかもと思います。──────────佐々木ふく

着ぐるみの頭と体は別の人

ではない、ではないんですけど……
マジックを見せられている感覚がして、読み取りから想像までの速さもファストでサラッと読める楽しい句と思います。──────────雨月茄子春
こわい。手品でよくある箱に入ったひとを切断するやつを思い出したのですが、これは着ぐるみのなかの話で、外(観客)からは見えない場所で行われてるのがさらにこわい。メチャでっかい着ぐるみならいいんですが普通サイズだったらどうしよう……と思いました。夏ですね……──────────城崎ララ

蛍雪のネイルとなりて蜀の国

「蛍雪のネイル」、苦学のさなかでネイルが剥げる様だと読みました。ペンを握り、紙にこすれで剥がれたか、キーボードの数万のタッチで剥げ落ちたか。「蜀の国」がなんとなくは把握できるものの、私の持てる知識の引き出しに「歴史」や「三国志」など大変乏しく恥ずかしい限りなのですが。どうつなげて読んだら良いのかと今考えているところです(締め切りまでに何か読めればこのカッコ書きは修正されているはず…)
それなのになぜ選んだのかと言えば、川柳の句として、佇まいや姿勢やアングルが良いと感じたからです。──────────下刃屋子芥子

先生、星のきこえはどうでしたか

星。短詩で使うのに、使い勝手の良さはばつぐんで、だからこそ易々と使えないことば。よくあるにならないためには、組み合わせばかりでなく(もうこれも大体やられているのではないでしょうか)、作意にちゃんとかなうか、本当に星じゃないとといけないのか、まで初手からえぐっていかないといけないのではないでしょうか。
そこでこちらの句。「星のきこえ」が絶妙です。星に耳があるとして、そのきこえ具合、とも取れるし、星からのなんらかの音がこちらに聞こえる具合のことともとれます。これは意味が二つ見えても、互いに近く重なり合っているので惜しくはなりません。理由を聞かれても答えられないくらい、絶妙。。。そしてそれを、問診の一シーンのようなところへ落とし込んだのもよいバランスです。星の詩的(笑)要素にちゃんと水をかけて冷ましてくれています。必然で星を選んだ、という感じ。星のきこえ、ということばの奥へ奥へ、さまよっていってしまいそうな句です。──────────西脇祥貴

深夜2時はだいたい休むアスファルト

川柳くらいの長さの文だと言い切りがハマるので多用したくなると思うんですけど、この句はその魔力に抗って「だいたい」と断定しない形にしてるんですよね。この言い切らない川柳、掘っていきたい気持ちある。──────────雨月茄子春

ほかほかのしろめしにすむじょろうぐも

ぞっとするのにほんわかした雰囲気に包まれてしまい、認知的不協和に陥る。
既知の素材、それも配色がくっきりしているためにイメージを瞬時にブレなく想起させ、曖昧な意味解釈を牽制する。紛れもないイメージを前にして、鳥肌のあとに不思議さが湧きあがってくる。(じょろうぐもにとってもそこが快適な住処ではないだろうに……)
「しろめし」を食べるときの安心感と「じょろうぐも」に遭遇したときの怖気とがゼロ距離でペアリングされる衝撃はもちろん、「ほかほか」という一過性の状態と「すむ」という中長期的なスパンが並列されているところでも、かなり面白いことが起きている。にも関わらず、繰り返し読んでみて、作為より天然が勝るように感じられた。──────────嘔吐彗星

もうそんな流されそうめんできちゃう

本来計画してセッティングする流しそうめんが、偶発的に「できちゃう」ことでこの行事の意味不明さがパワーアップしている。
受け身を愉快がっているようなうれしそうな発話がポイントで、そうめんの語感と流される見た目のやるせなさも相俟ってアクがなく、こちらも流されるように笑ってしまう。
「流しそうめん」は人が食べ物を加工するその他の名称(茹でキャベツ、焼き芋など)と同様に「人が→流す」の一方向だが、「流されそうめん」にはそうめん視点が入っているから微妙に落ち着かなくなってくる。軽い口調と軽い句材で、さりげなくもたしかに引っかかってくるところがよかった。──────────嘔吐彗星
流されそうめんという不自然ワードを「もうそんな〜できちゃう」という口語調で挟み込んで目の前に出されると、突っ込みたいところは色々あるのだけれど、言葉が引っ込んでつい受け取ってしまいます。流されそうめんてなんやねんと反論する暇もなく、「そうか、流されそうめんできちゃったのか、大丈夫?私にできることない?」って言うしかなくなる……魔性の川柳ですね。虜です。──────────南雲ゆゆ
流されそうめんってなんだろう? 流しそうめんで誰にも取ってもらえなかったそうめんは流されそうめんかな? なんだかほほえましい。──────────スズキ皐月
流しそうめんじゃなくて「流されそうめん」。たしかに。「もうそんな」って何が「もうそんな」なのか。そこはよくわからないけど、なんとなくリズムが良い。ちょっとしたエロスもある気がしました。おもしろいです。──────────佐々木ふく
で? 句。流されそうめんという概念には脱帽します。まあそうですね、流す人以外にとってはあれは流されそうめんだ。……で??(喜んでいます)──────────西脇祥貴

アナーキーありのままアイダホそだち

My own Private in idaho は、好きな映画を聞かれると必ず上げています。(この映画から容易に想像される句に落ち着いてしまっていて、取れなかったとも言えます。)──────────ササキリ ユウイチ

それだから偽の初冬が目にしみる

「それだから」という接続詞で何かの途中であることが示され、「偽の初冬」の「偽」に戸惑い、最後には読んでいるこちらの目にも痛みを覚えるような、読み手が翻弄される一句。──────────小野寺里穂

こしあんを舌に塗りあう盆踊り

盆踊りの時期の蒸し暑さとこしあんのもったりした食感、舌の湿度、全部が嫌〜な感覚で結びついているGOODな句と思います。定型に綺麗にハマっているし、助詞のもたつき(違和感)もないし、一読したときに驚異と(光景が脳に浮かぶまでの)スピード感がある。最高!最高!最高!──────────雨月茄子春
祝祭的なものに、やろうと思えばできるような動作を合わせる構成にすると、妙ななっとく感がある。あってもおかしくない、何か意味があるんだろう、と。ある意味それがもったいない気がする。そこまで納得させなくてもいいだろうに、と。もちろん、こしあんを舌に塗りあう、に惹かれたのですが。     ──────────ササキリ ユウイチ
他人同士でこしあんを互いの舌に塗りあう。おそらくは指で。生理的に嫌だ、と思うけど、こしあん自体は別に無害だし、ここは娯楽と割り切って塗りあうほうが無難か。踊りながらというのも異様だが、人々はといえば舌を出しながら存外楽しんでいるように見える。ここで逃げたら、こんな習俗は気持ち悪いし間違ってると言うようなものだ。困惑を表に出さないように我慢していれば、この光景にも慣れるだろう……それでいいのかはわからないけど。谷崎の羊羹を思い出せば、それもいいのかもしれないけど。
こしあんと盆踊りの二物衝撃から、沈殿していた体感が掘り起こされてしまった。
「人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」(『陰翳礼讃』谷崎潤一郎)──────────嘔吐彗星
どんな盆踊りだッ!と仰け反りつつも、ギリありそうなラインだと思いました。──────────南雲ゆゆ

瞬きの旬は今なのであって

最近、こういう句が好きです。真理の宣誓みたいな句が。要するに、警句、ということです。──────────ササキリ ユウイチ
光の速度でも時間差が生じることについて言っているのだと読みました。夜空に瞬く幾千光年離れた星が見えるとき、私たちの目に映るその光は幾千年前に生じた光だ。今この瞬間に眺めている光は、もうすでに消滅しまっている星かもしれない。今この瞬間(しゅんかん、またたきの間、瞬間という言葉自体にすでに、時間差が含まれている)の瞬きを目で捉えることはできない。どんなに至近距離の瞬きであっても、それは時間差で網膜に到達し、脳裏に投影される。この世のすべては遅れて観測される。光は遅すぎる。「今」を感知することの不可能性を読んでいる句だと思いました。私たちが認識している世界は決して「今」ではなく、「今」を生きるとは不可能なのではないか。今を生きるとはどういうことなのか。この句に触れると、全ては過ぎ去った残像のように、世界に確信がなくなり、ゆらいで見えてくる。──────────下刃屋子芥子

なんでもないのでぼくでも火でもある

何かつかめそうでその手が空振りしてしまうような面白さがとても良い。
「火」に並ぶ「ぼく」の不確かさ。でもどちらも正解であるという不思議さ。言い切りの形ではあるのだけど、はっきりとした情報は何もない。「なんでもないのでぼく」という言い切りは世界からの孤独や確固たる自分を感じることもできる。
シンプルだけどいつまでも楽しめる。──────────スズキ皐月
「ぼくでも」の「でも」にちょっとした自己卑下を感じました。その割に、持ってきているのが五大元素の「火」。そのアンバランスさがおもしろいです。──────────佐々木ふく
〈ぼくでも火でもある〉からとてつもない詩情を受け取ったような気がします。──────────松尾優汰

クラクション躁傾向にある遺影

遺影が交差点を逃げている……そんな情景が思い浮かびました。遺影の持ち主は誰なんでしょうか?故人?遺族?この遺影が捕獲されたとして、そもそも人間の所有物として返還されるものなのか?それとも森に帰すのか……。遺影って何なんだろう、という疑問がふつふつと湧いてきて、楽しい鑑賞体験でした。
そして遺影とイエイを掛けるそつのなさ……脱帽です。──────────南雲ゆゆ

透明のゴミ袋からエラー音

厭な雰囲気のある句。週に2回くらいゴミ出しの日があって、そういう日の朝に歩いていると、なんとなく道に置かれているゴミ袋の山が気になる。でもそれは見て気分が良いものではないし、マナーとしても見ない方がいい。そんなゴミ袋からエラー音が出る。それはそれは厭な気持ちになるだろうなぁ。──────────スズキ皐月

コースを走らない。ミニ四駆は蝉。

夏のミニ四駆の一瞬のきらめき。それを走らせる子どもたちの輝きでもある。
公園であったり神社のような広い自由なスペースで、本来決まった道を走らせるはずのミニ四駆を走らせる。遊ぶということは制限と自由のバランスが大事だが、このレース遊びは限りなく自由かもしれない。
学校、家族、仕事と生きていくことはなんらかのコースに乗ることを想起しがちだけど、それらを忘れさせる子どもの遊びの時間を思い出させる良さがある。──────────スズキ皐月

花婿はかえれ白手袋をかせ

韻律に長けていると思う。花婿にべったりとくっついている白手袋を引きはがして見せるところに川柳らしいよさがある。それは韻律の問題からなのかもしれないが、「かせ」となったところがいいし、極まっている。──────────ササキリ ユウイチ

幾億獣、帰りは淡くなるからね

モンハンのキリンのような、青白いオーラを纏った獣のとぼとぼとした帰り道の歩行が見える。──────────雨月茄子春

赤い沓、私の赤

いいです。古田織部ってかんじ。沓に引っ張られているとは思うんだけど、へっにょへにょに履き潰されたものを、また別のところへもっていくことのおかしみ。──────────ササキリ ユウイチ

ため口で話したSiriは、今……そのへん

一度目に読んだ時は「そのへん」にその辺りに打ち捨てられているようなやるせなさを感じたのですが、何度か読むうちに「そのへん」がかえって親しみのあるものに感じられてきて、ああそのへん歩いてるのかな〜になってきました。映画とかのラストで主人公は、今……と深刻な口調で振っておいて、エンディングで主人公に手を振らせるような、オチの作法。そうだったらいいな〜という私の願望も篭ってる気がします。
Siriはいつも丁寧に話すし、ため口にならないので、「ため口で話したSiriは、今」まで読んでバッドエンドを予見してしまうんですよね。ため口で話すというのはかなり砕けた関係性のなかで許されることだと思うので。でもだからこそ、Siriにはそこを超えてきてほしいというか……バーチャルアシスタントを名乗るSiriとの関係、iPhoneユーザーならそこそこ築けていると思うので、ぜひ「そのへん」歩いててほしいです。ひとり?一体?一個?ひとつ?一自我?くらい元気にのんきに自由にやっててもいいと思うので……人間のこと横目に見ながらアシスタントじゃなくなったSiriに元気でいてほしい。そういう願望を強めに込めた「そのへん」の解釈でした。ありがとうございました。──────────城崎ララ

ポンペイの捨て猫は何色ですか

灰色なのかな、と考えてたら悲しくなりました。──────────スズキ皐月

ジグソー ジグソー 自画像をパズる

ばらばらになった〈自画像〉のイメージに共鳴しました。ピースを拾いこぼすことも、うまくはまらないことも、様ざまな〈自画像〉のかたちが思い浮かんでくるようです。──────────松尾優汰

倫理の教科書がわたしを責めたてる

責めたてられている「わたし」はどう感じているのだろう。落ち込んでいるのか、うるさがっているのか、困惑しているのか。あるいはそれ以外か。
実景として読むこともできる場面だが、自分は共感してから、「これを川柳で言うのか」と驚いた。そこでこの句を、川柳がメタ的に自身の倫理のあり方に言及している句、として読み直した。
私見になるが、川柳はたとえば短歌などと比べて倫理に縛られていないように思える。それは縛られたくない、縛られないように努めている、ということでもあるかもしれないが。
この句からは「正義を振りかざす」という言い回しに近いニュアンスも感じ取れる。その筋で読むなら、「わたし」にとって倫理の教科書とは高圧的な鬱陶しい存在で、"正しさ"を根拠とするぶん厄介な加害者として描かれているのだろう。その心情自体は「恣意的な野生の中で遊んでおいて」の句とも通じるが、こちらは倫理と向き合いながら気まずさに留まるところが、現代川柳にあっては新鮮だと感じた。──────────嘔吐彗星

明かりっても花火じゃないよ、中指よ

わからない句は多い。言いたい事を言っても伝わるとは限らない。それでもどこか惹かれるものがあった。自分では書かないような句について知りたいという思いがありますが、それはどんな句にも当てはまるわけではなく、やはりどこか惹きつけてくれるものがないと接近できない。もちろん、惹きつけられない自分の感性の方にも疑いはある。
まず、「っ」は一字扱いなので字余りなのだが、「破調」という言葉が似合う句のように感じた。「花火」(じゃないようだが)という語と破調が呼応している。「明かりっても」「中指よ」というぶっきらぼうな言い方も破調が似合っているように思える。破調が似合う句だ、という評価が自分の中に生まれました。
それでも、まだわからない…「言葉の意味はわからないが破調が似合う句だ」というのが今の自分の限界かもしれない。すべてを説明しきることは可能なのかもしれないが、それが正しいとは限らない。つかめそうでつかめないところにある言葉、川柳とはそういう側面もある、ということは大事にしたい。──────────下刃屋子芥子
ではない、の句の好例をみました。──────────松尾優汰

氷河期になって初めて生まれた子

過去なんだけど未来の話をしていて、でもそれを納得させる力があると思う。それは一旦宇宙を見せてから子を誕生させたことによるダイナミックなスケール感に起因していて、宇宙経由で具体物を見せる手法はすでにあるものだろうけど、でもしかしそれでも良いと思ってしまうのだよね……──────────雨月茄子春
おめでとう。地球が再び氷河期に入ったときに思いを馳せて、未来を言祝ぐいい句だと思う。──────────小野寺里穂

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