確認男 握手会編

 俺は天にも登る気分を味わっていた。
 楽しみを目の前にして、すでに幸福感で満ち溢れている。
 抽選が当たってからの、ここ数ヶ月、このときの為に行きていたと言っても過言ではない。

 俺は今、握手会に来ている。なんと言っても、推しメンのみなみちゃんの握手会だ。
 今までは、ライブくらいしか現場に行ってなかったが、間近で、みなみちゃんと話してみたいという欲求が高ぶり、俺はついにみなみちゃんの個人握手会の抽選に申し込んで、それが見事当たった。

 当たった日から今日までの間、どれだけ嫌なことがあっても、今日という日があるから耐えてこれた。
 しかし、耐えられてはいたが、すでにメンタルはズタボロではあるから、この世で最強の薬とも言える、みなみちゃんに治療してもらおうと考えている。

 初めての握手会だから、握手会経験者の人たちの会話の内容などをひたすら目に通して、どのくらいの時間でどれだけ話せるかを計算し、話せることをまとめてきた。

 とりあえず、ずっと前から推しメンであることを伝える。そして、お兄ちゃんお仕事お疲れ様と労ってもらう。それが今回の目標だ。

 一部しか取れなかったが、握手券は五枚ある。だから、俺の作戦は十分実行可能な尺はあるはずだと予想している。

 レーンに並び始めて、何分経ったかなんて分からない。どんどん、前に並んでいる同士たちが減ってきて、みなみちゃんを隠したパーテーションが近づいてきていた。

 俺の前の同士が残り4人くらいになると、かすかに、みなみちゃんの「パン!」と言ってる声が聴こえてきた。

 もうそれだけで、心臓が跳ね上がった。
 呼吸もだんだん浅くなり、荒くなった。
 すこし落ち着こうと手を胸に当てて、深く息を吸ったが、余計に息が荒くなった。街でこの状態になったら、通行人に「大丈夫ですか?」と声をかけられてもおかしくないくらい、身体がおかしくなっていた。

 しかし、こんな異常な様子で、みなみちゃんに引かれる訳にはいかないと、母親と握手をする想像をして、なんとか落ち着かした。

 そんなこんなしていると、残り2人になっていた。
 そして、荷物をスタッフに渡して、身一つになった。そして、パーテションの隙間から、同士と握手をしている天使が見えた。

 想像よりも小さいみなみちゃんに、いっそう愛しく思えた。
 そして、同士に向ける笑顔を盗み見しただけでも、俺の弱りきった細胞が活性化していくのが分かった。このまま握手すると、肩甲骨から翼が生えてくるんじゃないかと思った。

 服装は、オーバサイズの白のパーカーに黒スキニー。お兄ちゃんのパーカーを勝手に着ちゃった妹を彷彿とさせられ、もう眼球がその眩しさに耐えきれる気がしなかった。サングラス、いや溶接マスクが必要なくらいだ。

 目の前の同士が握手を終えて捌けていって、ついに俺の番が来た。
 みなみちゃんは、前の同士に笑顔で手を振りながら見送ると、俺の方を向いた。
 その時に、パッと顔が明るくなったのを俺は見逃さなかった。待ち合わせ場所に来た彼氏を見つけた時の喜びの表情に見えた。

 その瞬間に、俺の脳はオーバーヒートし、思考が止まった。
 「可愛い」で埋め尽くされると、人は何も考えられなくなるんだなということを身を持って知った。

 ただ、身体だけは幸いにも脳の司令を受けずして、本能のまま、目の前のみなみちゃんに向かって、歩みを止めず、手を差し出していた。

 震える俺の手を、みなみちゃんは、大丈夫だよと言わんばかりに、両手で包み込んでくれた。

「あっあの!」と口を開いたはいいが、何を言うか全て飛んでしまって、口をパクパクと動かすのだけで精一杯になった。
 みなみちゃんは、笑顔のまま俺の目を見つめて、首をかしげた。

「あっ......可愛い」
 その瞬間に、俺の頭の中を駆け巡っていた、可愛いが言葉になって出た。
「ありがとー」とみなみちゃんは優しく微笑んでくれた。それに、俺の手を強く握ってくれた。
 このまま、心臓が破裂する気がしたが、大天使みなみを目の前にして死ぬわけにはいかないと、俺は踏ん張った。

「す、好きって言ってください!」
 好きと言ってもらおうなんて考えてなかったが、俺は無意識に言っていた。細胞レベルでみなみちゃんの好きを欲していたのだと思う。

「好きだよー」
 みなみちゃんは俺を、天まで連れて行くかのような、甘く、ふわふわとした雰囲気で言ってくれた。
 その瞬間に、全身の血が沸騰し、浮ついた気分どころか、実際に数ミリ空中に浮かんだんじゃないかと思った。

 そのまま、ありがとうございます!と全身全霊の感謝を伝えればいいものの、俺は、「え、なんて?」と聞こえないふりをして確認していた。こんな体験を一回だけじゃ終わらせられないと、身体が勝手に判断したのだろう。それに、普段ラジオで聞いていた確認男が出てきていた。

「好きだよー」
 みなみちゃんは俺のわがままに怪訝な顔をせず、笑顔のまま、もう一度言った。

 その瞬間、みなみちゃんの手から、電気を流されたように、手から腕、腕から胸、胸から頭、胸から足へと、痺れていった。この瞬間に、凄まじい勢いで細胞が分裂したのかも知れない。これまであった嫌なことが全部吹っ飛んでいた。

「え?......聞こえない」
 俺は耳をみなみちゃんの元へ近づけて、再度確認した。今度は無意識ではない。もっと聞きたい。確認したいという意思のもとの行動だった。
 この時既に、俺は完全なる確認男になっていた。

「もー、だから、好きって言ってんじゃん」
 みなみちゃんは眉間にシワを寄せ、少し怒った口調で言った。
 それでも俺には、彼氏のわがままに、怒りながらもなんだかんだ付き合ってくれる彼女のように思えた。
 もう、俺とみなみは付き合ってるんじゃないかという錯覚に陥った。
 だって、こんなこと、俺のことが好きじゃないやってくれないじゃないか。
 
 もうこのまま結婚しよう!と心に決めたのも束の間、「お時間でーす」の剥がし役の男性スタッフに肩を捕まれ、出口の方へ、誘導された。

 無情にも剥がされるという現実に、俺とみなみちゃんは、ファンとアイドルという関係であることを突きつけられた

 みなみちゃんとの距離は徐々に離れ、ずっと包まれていた、小さな手からも剥がされた。

 みなみちゃんは引き剥がされていく俺に向かって、笑顔で手を降っていた。
 すぐさま、みなみちゃんの元へ駆け戻りたくなったが、さすがにそれはしなかった。
 それでも、どうしても抵抗したかった俺は、肩越しに振り返り、剥がしの男性に向かって言った。

「えっ、どうして?」

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