【短編小説】オレンジチョコレートハウスまで

「あの人達、最近私が指輪を付けてないって噂してるの」そう少し年上の後輩が僕に言った。
 耳に入った声に、使い捨てタオルで机を拭く手を止めた。不安というよりかは、少し嘲笑うようなそんな声色に、僕が不安になった。
 
 青森の田舎で高卒で仕事をしようとすると、選択肢が貧乏人のラックにかかったTシャツくらい少なくなる。結局、何かを選ばなきゃいけなかった僕は、金払いの良さそうな少し大きな工場で働いていた。
 この5年僕は何一つ得てない。この空間で必要な技術はどうにか得たつもりだが、この空間から出ると何一つ要らなくなるものだ。
 
 ここでの関係性もその一つだった。
 頭に被っている帽子が、中で結んだお団子を浮き立たせている。ツルツルとした素材の帽子は僕が嫌いな素材だ。男の僕とは違う独特な頭のフォルムは、この会社だとよく見る。その帽子から漏れた茶髪は、僕よりも年上なのに僕よりも若く見える。梨花さんは、一年くらい前にこの会社に中途の派遣でやって来た。
 「ねぇ、真樹どう思う?」
 「あー、大変っすよね。こういう女の人が多い会社って結局噂話が中心になりますからね」
 「そう!そうなの。面倒くさいよね本当」
 そう、僕に訴えかける梨花さんの事を僕は一度だって見なかった。僕のことを名前で呼ぶこの人も、結局はこの中の女の人だったからだろう。
 僕が覚えた技術のうちに入っている一つは、相手を肯定し不快感を与えない事だった。これをする事で困ることも多少あるが、反論する強い気持ちなど持ち合わせていない。ならば、結局はこうするしか他ないのだ。僕は、僕の安寧にルールとラインを決めてその中に潜り込むことを決めていた。深い緑と土の田舎でそれをすることは、息をしないことに近いように思うが、どうしたって息がし辛いから変わらないと思うのだ。
「そうだ。真樹さ今度飲み行こうよ」
「あぁ、そうっすね。行きましょう」
 僕が嬉しそうに笑顔で返すと、梨花さんも嬉しそうに笑った。
 浮気がどこら辺までなのか答えは無いが、そうやって独身の男を簡単に誘ってしまう性格が、噂の元なのではないか。事実、火のないところに煙は立たない。――僕はその言葉を確かだと思っている。
 まぁ、梨花さんからすれば、ただの同僚に過ぎない僕を飲みに誘うのは普通の感覚なのだろう。
 ただ、下の名前で呼ぶのはやめてほしい。これは梨花さんに限った話では無く、他の同僚達にも言える事だが、それこそ、僕目線で見て関係性が出来上がってないなら尚更だ。僕はこの年になっても少し女っぽい名前を好きになれていない。子供だと思うだろうか、子供かもしれないと僕は知っている。
 なんて思っていると、掃除終了の5時のチャイムが鳴った。
 ルーティン業務の一つの掃除が終わると、定時推奨の会社から一斉に皆が帰りだす。
 定時推奨を謳ってる割には、管理業務をする一部社員に途方も無い負担が掛かっていることを、会社は容認している。どうなんだろう、と思うけれど、5年経った今でも管理業務を任されようとも思われてない僕からすればどうだって良いことだった。
 ゴミ箱に使い捨てのタオルを捨てると、肩に手を叩かれた。振り向くと梨花さんが居た。
「じゃあ、飲みの話し考えといて。今度行ける日行けない日教えて」
 僕が分かりましたと答えると、じゃあねと手を振って部署から歳が近い女性社員と出ていった。
 その後を続いて、噂話が好きなおばさんやタメ口で話し掛ける後輩、死んだ顔をした男の派遣社員が僕の横を無気力に通り過ぎていく。
 僕は人が少なくなった部署で少しだけ呼吸を整えた。消毒臭いこの部屋の匂いで、緊張型頭痛と相まって頭がバクバクと脈を打つ。仕事中も痛むが、仕事が終わると更に痛む。元来の頭痛持ちではあるが、仕事を始めた19歳のあたりから更に痛むようになった。
 帰ろうとすると、また後ろから声を掛けられた。
「工藤」
 はいと返事をして、振り返る。少し遠い所から高村さんが歩いて近付いてきた。一つ歳上の高村さんは、僕と違って管理業務を3年も前から任されていた。
「呼び止めてごめん。帰るとこだった?」
「そうっすね」
「あ〜、じゃあ残業出来ないよね」
「いや、何かあるなら手伝いますよ」
 高村さんは、本当?と言ってマスク越しに少し嬉しそうに笑った。僕と一つしか歳が違わないのに、僕よりも沢山の仕事をこなし僕よりも他の社員に好かれている高村さんに頼られるのは、やっぱり嬉しい。歳が近いからという理由もあるだろうけど。
「俺一人じゃ持てない荷物が合ってさ、少し手伝ってくれない?」
「もちろん」
 多分、僕が高村さんを尊敬に近い念を感じているのは、僕の嫌がることを感覚的に理解してくれるからだと思う。しかも、それ以降は必ずと言っていいほどしない。結構、適当な先輩だなと話の節々に感じることは多々あるが、それでも嫌いにならないのはそういう事だと思う。
 高村さんの近くに置いてある、何が入っているか僕には到底分からないダンボールの箱を二人で持った。持ってしまうと、僕からは高村さんの顔は見えなかった。
「花粉症大丈夫ですか?」
「あぁ、大変だよ。本当嫌になるね」
 なりたくないなと、呟くと高村さんは声を出して笑って確かにそうだよねと言った。
 涙と鼻水が止まらず、コントロールが不可避になるのは常に溢れ出してしましいそうな僕にとっては、死活問題に近いだろう。いつだって我慢しているのに、というかそれが癖になっているというのに、一度出てしまったものは止め処なくなりそうだ。
 マスクが合っても無くても、鼻水が出ても出てなくても高村さんという人格は僕よりも大きく見えて、それがいくら虚像だとしても羨ましく見える。鼻水が止まらない自分を想像すると、ただでさえちっぽけな背中が更に小さく縮んていそうだ。
「工藤、重くない大丈夫?」
「大丈夫です」
「少し辛そうだったから、声」
「全然大丈夫っす」
「そう?」
 目的地に、膝をついて荷物を置いた。高村さんは、腰に手を当てて伸びをする。僕は重さが乗っていた手を見つめた。赤く軋んだ関節とシワがついたまだ若い手。
「ありがとね」
 僕はいやいやと手と首を振った。礼を言われる程の事はやっていないつもりだし、高村さんに礼を言われるむず痒さも感じる。
「あと何かすることありますか?何か手伝いますけど」
「いや、今日は大丈夫。でも、また頼むかも」
 いつでもと僕が言うと、幼気な笑顔をマスク越しに向けた。気にする必要が無いはずなのに、僕はやっぱり一年という間が空いた、高村さんと自分の差に悲しくなってしまった。悲しくなったところで意味なんて無いのは分かっていても、それでも。
 帰ろうとすると、あぁっと声がした。高村さんがもう一度僕に話しかける。
「今度俺の家で飲み会しようよ」
「え、はい。いいんですか?」
 もちろんと嬉しそうに笑って言った。高村さんは実家から会社が遠くて、一人暮らしをしているとだいぶ前に聞いたのを思い出した。陰気な僕にも(陰気だと思っているのは自分だけかもしれないが)格差なく誘ってくれる事で僕の中で増々存在感を強くなった。
 話が終わり、じゃあお疲れ様ですと告げ、部署から出た。ロッカーまでの長い廊下が嫌いだ。さっきまで楽しく会話していたはずなのに、急に冷めてしまうこの空間があまり得意になれそうにない。一人の時間は好きだけど、一人なると落ち込むことが多い。皆が何も考えてない時間、僕は自分自身の反省点を洗い出して自尊心を自らすり減らす。ため息は、誰も居ない廊下でも響かず自分だけに帰ってきた。

 作業着を着替えてロッカーに閉まって、とぼとぼと繰り返される足のまま駐車場までへと向かう。自分以外の車が数台残った駐車場はどこか寂しさを感じさせ、空っぽな僕に似たような雰囲気が流れている。春先の少し冷たい風。青森の冬明けの春はそんなに暖かくない。カラスが1羽がコンクリートからこれ見よがしに飛んだ。寒さなんて、孤独なんて、あざ笑うように。
 車に乗り込むと、煙草の匂いと意味を無くした芳香剤の纏まりのない匂いがした。そんなものにストレスは感じなくなったのは、一年もこんな状態が続いているからだろう。エンジンも付けずに、車の中でスマートフォンの電源を付けた。もう何年もメールが溜まっているような状態が無いのも、自分が理由だと分かっていても悲しくなる。メールが溜まっているという事よりも、一人になることを選んだ後悔が一番目に映るってのも悲しくなる要因だ。
 座席に浅く腰掛けていた体で目つきの悪い目を光らして、SNSを眺めていると、あまり聞かない通知音が流れる。ピリリと鳴るスマートフォンに僕は胸を高鳴らす。
 明るい画面に浮き出たのは、浜野聖乃という名前だった。懐かしい名前に少し躊躇いながらも電話に出る。
「もしもし」
『あ、もしもし真樹?』
「うん」
『久しぶり』
 昔よく聞いた声だった。何も変わらなそうな声。ひどく安心感がある。
「久しぶり、どうしたの?」
『えっとね、私日本に帰ってきててさ、会えないかなって思って』
「いつ?今?」
『今』
 やけに強い語気で今と言った聖乃は、なにかあったのだろうか。高校時代の級友だけど、僕なんかよりも彼女には合わなければいけない人や会いたい人がいるだろう。けど、何かしら理由があったに違いない。
「いいよ、今どこにいるの?弘前?」
 確か実家は弘前だったと昔の記憶を頼りに聞くと、彼女は隣市の平川市の祖父母の家に居ると僕に告げた。
「じゃあ迎えに行くよ」
『ほんと?』
「うん、会社からだから20分もあれば着くけど、大丈夫?」
『うん、大丈夫ごめんね。住所送るね』
 分かったと言って、僕は電話を切った。
 久しぶりの彼女との電話で疲れたのか、大きなため息を付いて、昔の事を思い出す。彼女は僕に対してごめんなんて言う人だっただろうか。

 暑さにやられている高校2年の夏休み。首筋に浮かんだ、汗粒はどんどんと大きくなって、少しの体の揺れで流れ落ちていく。大きな木の下の日陰にいてもこんなだ、待ち人が時間になっても来なくて、ため息が出る。部活終わりの部室棟近くのベンチで貧乏揺すりをしていた。ダラダラと着替えていた僕以外の部員達も、もう着替え終わって、僕にじゃあなとかお疲れ様ですとか声を掛けていった。僕も同じ様な言葉を返して、スマートフォンを覗いていた。
 待ってられないと思って、イヤホンをスマートフォンに繋いで、耳に突っ込んだ。画面をスクロールして、好きなバンドのEPを最初から流した。このへんじゃ僕だけが知ってるバンドだと思いながら、少し悦に浸る。目を閉じて遠くから聞こえる野球部の野太い声がイヤホンの音とが入り混じりながら、遠くない未来を考えていた。進路ややりたい事、取捨選択の余裕が無い事、自分自身のちっぽけな存在の事。寂しくなる心の内をどこに発散すれば良いのだろうとか、人よりも考えなきゃいけない事が多いのに苦しくなった。
 目を開けると、待ち人がいた。
「よっ」
「来たなら声掛けてよ」
「集中してたからさ」そう笑って、聖乃は隣に座った。悪気は無さそうで、何もかも違う考え方なんだろうなと思った。ただ、だからこそ楽なのかもしれない。自分自身のことを同じ年の人に言えるのは、聖乃くらいだし聖乃も僕に言ってくれる。それって、案外凄いことなのかもしれない。汗がまた下へと流れた。
「遅刻だけど」
「いやぁ、部活なんかやって無いとさ、夏休みなんて生活リズムなんてグダグダでさ」
「待ってる僕が変な人に見えるだろ」
「こんなあっつい所で待ってる奴は変人かドが付くマゾのどっちかだね」
「どっちにしてもキツイな」と僕が言うと彼女は手を叩いて笑う。
 笑い事じゃないけどな、とか言おうと思ったけど言ったところで聖乃には何も響かなそうだ。それならば言う気力を割く必要はないだろうな。
 古びた青いプラスチック製にポカリスエットの文字が掠れたベンチに音を立て座る聖乃を横目に、僕は片耳のイヤホンを外した。彼女は、普段使いには大きい弁当用のクーラーボックスを膝の上に置く。ファスナーを開けると、保冷剤の冷気が隣に座る、僕の足にも触れる。
 ん!っと彼女は左手を僕に差し出す。ハテナマークを浮かべていると、「イヤホン!」と言った。ならば最初からそう言えという思いもさっきと同様に飲み込んだ。外した片耳を彼女に手渡すと、なんの躊躇いもなくそのまま右耳にぶち込む。
「好きだね、これ」
「まぁね」
 何度か同じ様なシチュエーションで同じ様に曲を聴いてきたからか、彼女も鼻歌を鳴らしていた。肩を揺らしながら、クーラーボックスの中に手を弄り入れる。ようやく差し出したのは丸いピカピカしたチョコレートだった。
 聖乃は、パティシエの祖父と両親に小さい頃から憧れて自分も洋菓子に携わる人間になるという目標があった。数ある洋菓子の中で彼女を輝かせたのはチョコレートだった。それからショコラティエになると決めたらしい。私は女だからショコラティエールだけどね、という言葉も同時に教えてくれた時の事を思い出す。
「今回のやつ綺麗だね。前回のやつはちょっと歪だった」
「ちょっとずつ私も成長してるんだよ。ささ、食べてみて」
 じゃあと、僕は彼女から貰ったチョコレートを口に入れた。聖乃も隣で同じチョコレートを口に放り込んだ。隣で口を動かしながら、人差し指で親指の爪を擦る。何かを探すように。
「うん、前のより美味しい。ちょっとビターだね」
「いや、駄目だね。雑味がする」
 普段適当な様子なのに、夢中なものになると目を吊り上げて、真面目な顔をする。ストイックな姿勢に僕も真面目に対応せねばと思う。
「冷たいのもあると思う。硬さとか違う気がするし、でも美味いよ。嘘じゃない」
 本当?と不安がちな目で僕に聞いた。本当だよと言うと、肩を撫で下ろしてベンチに背をつけた。
「まだまだだと思うけど、それでも誰かに肯定されるのは大事だわ。おじいちゃんは贔屓目で見るし、パパは厳しいし」
「でも、そのおじいちゃんのお陰で留学を許されたんだろ」
「それはそう」
「スイスだっけ?」
「そう。おじいちゃんの知り合いのスイス人のショコラティエの元で修行する」
 未来を簡単に言い切ってしまう彼女が、とても眩しくとても尊く僕の目に映る。さっきまで不安でいっぱいだった目が、もうすでに楽しそうな顔をしていた。隣りに居るとよく分かる、僕という存在が翳っている事が。大人になってもこうなるのは嫌だなと思いながら、年をとっても、こんななんだろうなと悟った。
「応援してる」
「真樹は?」
 ストレートに淡々と、僕が聞かれたくない事を素直な顔と声で聞く聖乃の隣は、僕には荷が重い。
 諦めて、さぁとだけ返した。僕の味方は、耳の中で歌う声だけだった。だったと思う、多分。聖乃は僕の味方だと思う、心の底から。矛盾した感情を揺らめかせながら野球部が白球を追う姿を見つめた。
「お母さん大丈夫?」
「今の所は。寝込んでるけど」
「大丈夫じゃないじゃん」
「でも、僕は側に居ることしか出来ないから」
 そっかと悲しそうに溢して、僕と同じ方向をただ見つめている。そんな中でも手元に冷気が当たっていた。僕が冷たいのか、聖乃が冷たいのか分からなくなっている。
 父さんが、幸薄そうな女と出て行ってから、母さんは体調を崩して鬱病になった。この前、駅前で見かけた父さんとあの女はとても幸せそうに笑っていた。それに、あの女はアルバムの中に居た昔の母に似ていた。父さんは母さんとの縁を切って、自分好みの女とまた新しく1からやり直そうとしているのだ。そして、その間に僕はいないのだ。確かに、母さんの性格は共同生活には向いていないくらい難しいと言えるものだった。マメというよりかは細かい性格に加え、年を取るとそれにヒステリックさが増した。上手くいっていない家族は、軋んだトロッコみたく不安が溢れ出し一人また一人とそれから降りていった。もう戻れなかったのだ。孤独をひしひしと感じ、僕自身もそれから目を背けたかった。
 聖乃は僕の顔を見ていた。
 何?と聞くと、チョコまだいるかなって僕に聞き返した。僕はそれにいると返して、彼女の手からまたチョコレートを貰った。そっぽを向いて一口で食べる。蟀谷から何度も何度も汗が流れ落ちた。

 夕焼けが眩い最後の光を放っている。横から来る光に脇目も触れず、信号待ちの道路の中、僕は不安と緊張に苛まれながらハンドルをもう一度強く握りしめた。アクセルを徐々に踏み込み、彼女の待つ街へと向かう。僕の心情をよそに、多分彼女はそんなに変わらない顔をするのだと思う。それならば、それで良い。
 彼女から送られてきた住所へと、最後の角を曲がる。住宅街の中の一軒のクリーム色の家の前で車を止めた。彼女にメールを送ると、その家から昔懐かしい聖乃が少しバツ悪そうな顔を装って出てきた。黒のパーカーに黒のスキニーという、なんともラフな格好だった。助手席側の窓を開けると、電話越しで聞いた様にごめんともう一度言った。僕は声が上擦らないように大丈夫だよと返した。
「車、乗ってもいい?」
「うん、どうぞ」
 近くで聖乃を見ると、高校時代の頃よりも顔の肉は削ぎ落ちて、やつれたように見えた。僕が知らないうちに、聖乃も大人になったのだと思わざるを得なかった。
 取り敢えず車を出して、この後どうする?と聞くと、ご飯が食べたいなとボソッと溢した。
「何食べたい?」
「思い出の味」
「凄く抽象的じゃん」
 僕の言葉に彼女は薄く笑った。この笑顔にどこか見覚えがあった気がした。ただ、誰のどんな笑顔だったかは、今は思い出せない。
「ラーメンでも食いに行く?思い出かは知らないけど」
「良いじゃん。一回だけ二人で食べに行ったよね」
 車を右折させながら、そうだったっけ?と返した。
「そうだったよ。忘れたの?ひどいなぁ」
「うそうそ、忘れてないよ。弘前でだよね」
「そう、死んだ目をした君と二人でラーメン食べた」
 それは覚えてないなと思いつつ、きっと僕の死んだ目は、あの頃から変わってないかもしれない。きっと死ぬまで変わらないだろう。齢23だが、感覚的にそういう様な気がしてならない。隣に居る聖乃も昔よく見たキラキラした目は、なぜだかくすんで見えた。話を聞くべきなのか、聞いても良いのだろうか。数年ぶりに会う友人への距離感が一人で居た僕にはわからないものになっていた。
「どうして帰ってきたの?」
「おじいちゃんが亡くなったの」
 高校時代一度だけ会った彼女の祖父は、とても元気で僕の少ない活力を持っていかれそうなくらいだった。車内では気まずい空気が流れる。
「静かにならないでよ」
「ごめん」
 彼女は笑っていた。顔についた皺が少しきつそうだ。昔、聖乃の口からよく聞いた祖父の話を思い出して、大切な人の死は経験のない僕からすればどう距離を取ればいいか分からない問題だった。
 車は国道102号線へと出た。暗くなった道の中、外灯を越してはまた越して、僕らの顔をチカチカと照らした。
 気まずさとか、苦しさを経験して、知らぬ間に大人になっているのは子供の必然だったりするのだろう。そして、それを外に放出することを認められる時代で意固地に心に収めている僕は、どちらに傾いているのだろう。少し大人びた聖乃を見て、僕の悶々とした感情は更に答えというゴールから遠のいたように思う。そう走り続ける車のように。
 どちらも一言も発せられないまま、昔一度来たであろうラーメン屋に着いた。駐車場で車から降りた聖乃は、運転上手いねと言った。
「初めて言われた」
「今まで乗った中で一番怖くなかった。真樹が優しいからかな」
 笑ってパーカーのポケットに手を突っ込んで、入り口へと歩いた。初めて言われたというか、初めてまともに人を乗せた。母親は数回乗せたけど、その時は何も言わずに降りただけだった。友人という類いの人達はよくよく考えると初めてだった。
 おーいと呼ばれ今行くと彼女の元へと歩いた。ラーメン屋の入り口に何故か掛けられている赤ちょうちんが照った顔は、窶れているのに何故か昔見た顔に見えた。僕の目がくすんでいる訳ではなく、僕の頭がそう見えて欲しいという願いが光を歪ませたに違いないだろう。安くさい光が、僕らをふりだしに戻す賽を投げたように優しく広がる。
 煮干しの匂いがした店の中。外とは温度が5度くらい違う。ほんのり温かい空気を纏い、二人でカウンターに座った。二人共前と同じ、醤油ラーメンを選び彼女がそれを店主に伝えた。
 「最近どうなの?」
 「どうって?」
 仕事、と言って目の前にあった、個包装の手拭きをで手を拭いた。そのまま服の匂いを嗅いで、臭くないと聞いた。僕は、臭くないよと言って、自分から振った話題を違うものにしてしまう事に笑みが溢れた。
 「そう、家の中線香の匂いしかしなかったから、つい気になって。で、どうなの?」
 「どうもこうも、ずっと同じだよ。毎日同じ時間に起きて、同じように会社に向かって、同じように家に帰るよ」
 ふぅんと興味なさげな言葉を返した。聖乃が何も変わらないのは、変われなかった自分からしたらありがたかった。
 「聖乃は?どうなの」
 「変わらずチョコ作ってたよ」
 「そっか」
 うん、と相槌を打ってそのままため息を溢した。店の中は、昔見たあの頃と何も変わっておらず、僕らだけが微妙に年を取ってしまっただけのように思えた。店主とアルバイトの女の子との話し声が聞こえる。奥のテーブル席からは、家族連れの目をすする音が響く。不意に襲った沈黙は、昔と違って少し居心地悪い。
 「私はさ、真樹に負けないで欲しかった、昔はね。」
 沈黙を割るように、小さな声で、この店の中で僕にしか聞こえない声で、聖乃は話し始める。人差し指で親指の爪を擦って、何か言葉を探してるようだ。今は違うの?と聞こうと、息を吸った時「今はね、そうは思わなくなった。色々さ……色々、なんていうか大人の事を知ったからさ」と呟いた。呟いた後、俯いて僕とは目を合わせなかった。色々の中には、5年で得た経験が詰まっているのだろう。もしかしたら、祖父が亡くなった事も影響しているかもしれない。
 それからは一言も出なかった。店主が笑顔で置いたラーメンを、二人で必死に啜った。味付けのせいか、二人共溢れそうな鼻水を口を動かしながら吸っていた。
 カラコロと扉の鈴が鳴って、もう一組客が入って来た。部活終わりだと思われる高校生の男女だった。二人仲良く、テーブル席に座って話をし始めた。会話の内容は聞こえなかったけど、順番を守るように交互に口を開いてる様子が窺えた。隣の聖乃を横目で見ると、最後のひとくちを啜り終え、コップに入った水を、音を鳴らしながら飲んでいた。僕も最後のひとくちを啜り、水を飲み込んだ。
 「行こっか」
 頷いて、手の甲で鼻を擦っていた。ふぅと、息を吐いて座席から立ち上がった聖乃を、僕はレジ前から見ていた。アルバイトの女の子から、お釣りを貰うとあとから来た彼女は、私も払うよと言ったが僕はそれを突っぱねた。ありがとうと小声で言い、少し微笑む。
 鈴が鳴る扉を開けて、店を出た。車に乗り込もうとすると、聖乃は「煙草、吸ったら?」と言った。煙草吸ってる事言ったけ?と疑問が浮かんだが、その後に「車から少し匂いしたから」と聖乃は言った。消したはずの匂いは、僕の鼻から消えていただけで、聖乃からすれば消えてなかったんだと少し恥ずかしくなった。煙草を吸うことも、一度は遠慮したが、いいからと言われるまま一本取り出していた。
 「ありがとう今日」
 「別に気にしないで、昔から聖乃は急だったし」
 8時間以上ぶりの煙草は、僕の平静を手助けた。空気が澄んでいる春先の空気とポツリと浮かんでいた星を眺めて、昔と違って何でも話せなくなっていた関係を思い返す。僕は、今の生活がずっと同じって言えるほど、人間として出来ているわけじゃないのに、旧友に格好をつけていた。同じ中でも、様々な感情が浮かんで消えている。人間関係を上手く出来ていない自分を隠している、自分を少し後ろめたくさえ思い始めた。
 「真樹」
 「ん?」
 僕の名前を呼んだ聖乃は、曖昧な顔をして何かを躊躇う顔をしている。俯いて少し恥ずかしそうに笑って、でも何かを伝えようと口を少し開けては閉じてを繰り返している。僕は、それを急かさず煙草を吸いながら待っていた。彼女は息を吸って、声を出した。
 「私、このまま青森に戻ってこようと思ってるんだよね」
 「それは、おじいちゃんが亡くなったから?」
 「ん、それもある。けど、それだけじゃなくて……、スイスのショコラティエのお店って見習いが私以外にも数人居てね、その中にフランス人の男の人がいたんだけど、私その人とそういう関係になって子供が出来たんだけど、その人に奥さんがいるって知らなくて、奥さんだけじゃなくて子供も居たんだけど、全然知らなくて気付いてからすぐに中絶した。でも、やっぱりそのお店っていうか場所が住みにくくなっちゃって、おじいちゃんが亡くなったって話聞いて、逃げるように帰ってきた」
 訥々と話す聖乃は、苦しそうに息をして今でも鮮明に思い出す記憶と闘っているように見えた。
 「もちろん、お腹にいた子供にも申し訳ないとも思ってる。ママは私は肯定してくれるけど、でもそれも辛くて、我儘ってわかっててもずっと悩んでて、真樹にこれを話すことも別に意味があるわけじゃ無いし、真樹からしたら、なんで自分にこんな話をするんだよって思うだろうし、でもこういう話をしても受け入れてくれるのが、探しても真樹くらいしか居なくて、自分勝手なんだけど頼ったの」
 聖乃の目は、未だに下を見たままだった。申し訳無さと気まずさが雰囲気として、滲み出ている。彼女の目は、きっと流す涙が無くなるほど、酷使されたのだろう。忘れられぬ夜もあっただろう。今だって、力を入れてないと溢れ出す一歩手前なのだろう。
 自分のことのように、胸がキュッと締まる感覚に襲われた。前にも感じたことがある。父親が再婚相手と歩いてる所を見たあとに、項垂れた母の背中を家で見たあの時の感覚とよく似ている。
 「ごめんね」
 「……ううん、僕は大丈夫だから」
 「なんで泣いてるの?」
 ようやく目が合った聖乃は、目を見開いて僕に近付く。パーカーの袖で、止め処なく溢れていた涙を優しく拭いて、「どうして真樹が泣くの」と笑った。
 「これは僕の憶測でしか無いけど、きっと、聖乃は今涙が出ないくらい泣いたと思うから、泣き足りない分が、僕の目から流れてるだけで……」 
 「なにそれ」と聖乃は笑う。その後、「そんな熱いやつだったけか?」と言った。僕らはやはり変わったのだろう。枯れた愛情がとても淋しい事を僕は知っている。だからこそ、涙があふれるのだ。胸いっぱいに溜まった澱はきっと、時間を掛けてきれいにしていくのだ。
 「聖乃、車乗って」
 何も言わず頷いて、助手席に乗り込んだ。僕も煙草を灰皿に捨てて、運転席に乗り込んだ。エンジンを点けると、僕の心臓もぶくぶくと滾るように熱くなっているのがわかる。車を走らせ道路を出ると、通り過ぎていく車たちの光が濡れた僕らの目を、無理矢理輝かせる。危ないと分かっていても、運転している僕の目からは涙が溢れている。愛とか夢とか何かを追うときに邪魔をする、あの正体は僕にはきっと見えやしないけど、何かを言い訳にするようにただ強くアクセルを踏んだ。国道7号線を北に向かう。
 「ねぇ、どこ行くの?」
 「わかんないけど、何か止まってたら駄目な気がして」
 確かにと聖乃が笑った。僕は、前にある再生ボタンを押した。
 「好きだね」
 「まぁね」
 涙はなかなか乾いてはくれない。だけどもういいのかもしれない。火照った体を冷ますように、窓を開けると冷たい風が勢いよく入り込む。スピードが肌に触れた気がした。包みこんだ夜が、今、この時間だけ自由にする。
 夕焼けがあったとは思えない夜の黒は、少し青みがかって、朝の上に黒を塗り重ねたみたいだ。
 何かを塗り重ね、僕らは歴史を形作る。忘れられない記憶の地層と僕らは生きるのだ。
 「くそー!」
 聖乃が叫びながら、笑ってる。僕はもう少しスピードを上げる。夜を纏わせて、僕らは真っ直ぐな道のりを走る。
 終われない苦しみが少し痛むけれど、それでも僕らは涙を流して走るしかないのかもしれない。

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