【ショートショート】「錆、ぽろぽろ」

 身から出る錆。確かにそうだった。煙草をふかす半田はそんな事を考えていた。

 迎えにある空っぽな椅子と対面して、机にある灰皿には何本もの吸い殻と灰が溜まっている。あれが居なくなってから、この部屋には甘い匂いはしなくなっていた。クイニアマンやタルトタタン、それに柔軟剤や香水の匂いも全部、今では煙の匂いに置き換わっていた。

 あれはとても従順だった。半田はそれを良いことに、自分の思いだけを優先させ、あれの言うことは何ひとつだって聞かなかった。

 それなのに、この部屋はいつだって甘い匂いが漂っていた。私も、私を大切に思うあれに何度だって救われていたのだ。乾ききった私の心までをあれは潤した。

 半田は、深くため息をするように煙を口から吐く。

 この部屋には、まだあれの面影が引きを潜めていた。花がらのクッションに、男が持ってなさそうなケトルそれにピンクのスリッパ。半田は、それを見るたびに目を逸らしていた。

 あれは非常に忍耐強く寛大であったと、気付いたのだろう。


 半年くらい前でしょう。

「凌介、さっきの店のお金。割り勘にしようって言ってたじゃん」

「あぁ、うん」

 半田は、机に置かれた千円札を横目で見てまた煙草を吸っていた。あれは、優しさに溢れ約束など私が見る限り一度たりとも破ったことはありませんでした。私目が見ても半田が気に入らなそうな顔をしていて、この男はどこまで行っても素直になれず見栄っ張りなのだろうと思いました。優しいあれは、気付いていたように思いますがそれでも半田の負担にならないように努めています。

 別に、と半田は口を開けた。

「そのまま奢られてよかったのにさ、格好がつかないだろ俺の」

 あれはまた優しい顔をして、ごめんねと半田に笑いかけたのです。でも、私はあれの気持ちを考えると、とてもじゃないが半田を許せそうに思えませんでした。


 私は、半田が今になって苦しそうな顔をしていると可笑しく見えるのです。彼はようやく、私とあれの気持ちを理解できるでしょう。もしかしたらその感情も忘れてしまうかもしれませんが。

 私は、だいぶ前からあれの本当の名前を知りません。昔は名前で呼ばれていたように思うのですが、聞かなくなっている内に忘れてしまったのです。でも、あれはそんな私にさえ優しく愛情を注ぎました。

 彼の部屋はどんどんと荒んでいきます。焼け野原のように暗く濁っていきます。

 窓辺の鉢に植えられた花も枯れ始めていました。

 私ももうすぐなのでしょう。

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