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贅沢な「ノイズ」への投資を

こんにちは。佐々木です。

今朝父から良い記事が送られてきたので共有します。




"東大の「トップ」が、パリ大学の教授をつい「妬ましい」と思ってしまった“意外な理由” (現代ビジネス)"

4月、多くの企業に新入社員が入ってきます。

その大部分は、高校専門学校、あるいは大学を卒業してすぐの、10代後半から20代前半の方たちで占められていることでしょう。

日本では、大学の学部を終えた「学士課程修了者」が大学院へ進学する割合はだいたい10%ほど。
20代半ば、あるいは20代後半になってからいわゆる「社会に出る」ことは、まだまだ「一般的」とは言いいがたいかもしれません。

そしてなんなら、早く社会に出ることにポジティブな意味があたえられる傾向がなくもありません。

しかしこうした状況に、不安疑問を感じる人たちも少なくないようです。ここでいう不安や疑問とはすなわち、若い人が「早く進路を決めること」評価される社会でよいのか? というものです。

たとえば、かつて東京大学で総長をつとめた、フランス文学や映画、表象文化論の研究者である蓮實重彥氏は、1998年に『山岡育英会会報』という媒体に寄稿した「贅沢な「ノイズ」への投資を」という文章でこう述べています(現在、この文章は蓮實氏の講演や寄稿を編んだ『齟齬の誘惑』という書籍で読むことができます)。

〈ついせんだって、マルセル・プルースト研究の世界的な権威であるパリ大学の教授にお会いしたのですが、その方との食事中の会話でも、同じような妬ましさをおぼえたものです。その教授は、フランスの工学系の秀才校ポリテクニックの出身で、土木技師の資格を持っておられました。その教授が、自分はある基金から奨学金をもらって数年間にわたって畑違いの文学研究を試み、二〇代の後半になってから、それを職業とすることに決めたのだといっておられたからです。〉

〈これも、日本に比べてみると、なんとも贅沢なことだというべきでしょう。奨学金が、あえて専門の学業から離れ他の領域での知識見識を身につけようとする迂回期間の生活保障するために与えられているからです。

欧米での平均的な就職年齢はほぼ二五歳であり、周辺諸国の韓国や台湾においても、兵役の関係もあってそれよりやや遅くなっていますが、あたりを見まわしてみて、日本ほど職業選択の年齢が低い国は存在しておりません。このことの異常さに気づくべきときにきております。

なるほど、生産に主眼がおかれていた高度成長期まではそれでよかったのかもしれませんが、知識集約型の社会の到来とともに、事態は明らかに変化しているはずです。このままでは、学生たちはあまりにも貧しい体験とともに社会に出てゆくことになるのですが、そのことが二一世紀の日本社会から活力を奪い、国際的な競争力を弱めるように思えてなりません〉

そして蓮實氏は、これからの「知識集約型」の社会に必要なのは、「ノイズ」なのではないか、と語ります。

〈知識集約型の社会における豊かさとは、手にしている情報をとりかこむ「ノイズ」(雑音)の量に比例するものです。「ノイズ」とは、当面の記号の解読には直接かかわりを持たぬ情報にほかなりませんが、情報社会にあっての最大の問題は、正しい情報処理貧しさしか保証しないというところにあります。

日本では、的確に「ノイズ」を排除することの得意な人を「秀才」と呼んでいますが、そうした「秀才」が向かい合う情報はあくまで潜在的なものにとどまり、それが顕在化される瞬間に立ち会うことは避けられています。顕在化された情報は決まって「ノイズ」にかこまれているものです。山男から弁護士への転身や、土木技師から文学研究者への転身が煽りたてる妬ましさは、なによりもまず、彼らの職業の選択にあたっての「ノイズ」の贅沢な豊かさにあります。〉

〈例えば、一八歳で官僚──(研究者とおきかえても話は変わりません)──となることをめざした「秀才」が二二歳でその夢を実現した場合は、そのとき、彼または彼女が手にしている「ノイズ」の貧しさは歴然としています。その貧しさ故に、「秀才」たちは閉ざされた縦社会に保護されることを求めざるをえません。真の奨学金は、この貧しさを贅沢さへと変貌させるための迂回期間にこそ投資されねばならぬはずだと思っていますが、はたして、現代日本社会はそれを容認するでしょうか〉

「ノイズ」のもつ豊かさに、私たちが目を向けるべきタイミングがきているのかもしれません。

学術文庫&選書メチエ編集部



奨学金を使って大学に行って22歳で就職することが人生のスタート (当たり前の道) なのか?


25歳から就職することは日本の世間から見て当たり前じゃない。
でも大学を卒業して大学院にいくなり迂回して経験を積むことは間違っているのか?

20前半や半ばで本当に大事なのは稼ぐことなのか?お金を使って経験を積むなのか?


話は少し外れるけれど...

5年後世界情勢がどうなっているか予測ができない世の中と言われている中で、例えばこの先コロナみたいなイベントが起こってしまったら...
今就いている職業、職種が世界的にも国内的にもいきなり必要とされなくなる可能性だってある。

そんな中で一つのことしかできない人間はどうなるかというと転職活動をした時に雇ってもらえないどころか、面接の条件すら満たせない。
今までしてきた一つしかないキャリアは価値がなく、使い物にもならないものになる。

(過去に教員や指導者しかしていなかった自分が求人を探した時に同じ境遇に立った経験があるからこそ。)


そのためにも必要なことは専門から外れた経験をしたり、知識を身につける。記事の言い回しで言う迂回だと思う。


多分、10年前20年前と同じような当たり前はこの先当たり前じゃなくなる。
多分、人と同じことをしててはこの先競争に勝てない。



俺だって今している経験と、今までしてきた積み重ねが認められて求められるタイミングが必ず来ると思っている。その時のためにお金だってギリギリな生活を我慢して経験に投資している。


これが結婚をして責任が生まれたら別の話だけれど...,


若い時にしかできないことは他人からどんな目で見られてもやるべきだと思う。自分のために。



ひで

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