どこかの彼方でオリンピックが始まった

昨日、どうやらこの国ではオリンピックというものが始まったらしい。この世界的イベントに関しては、多くの人がさまざまに個別な想いを抱えていることだろう。わたしの部屋にはテレビがないので、朝起きて、Twitterに並ぶ文字情報で「こんなことがあったのか」と開会式の内容を知った。とはいえ、それを見たとて「ああ、見たかった」という想いが湧いてくるわけではない。冷めた目で「ああ、そうですか」程度にしか思わなかった。

つい数日前には、「五輪は中止」「あいつに責任者の資格はないので辞任だ」みたいな風がSNS上を吹き荒んでいたのに、開会式が始まれば「あの演出がすごかった」「あの国の衣装は素敵!」という肯定的な声がタイムラインを埋めている。もちろん発信者は違う人なのかもしれないし、同じ人だとして“開会式の出来を純粋に評価している”のかもしれない。それでも世間という「総体」があるのなら、その変わり身の早さにわたしはいささか怯んでしまう。

先日、友人らと会食をした際、「柔道で日本選手が金メダルを獲った時に、その“感動”と“大会開催の是非”をわたしたちは切り分けられるのだろうか?」という話になった。人間の心は事象わけをして考えるのが苦手だ、とわたしは思っている。開催に少なからず反対意見を持っていた人でも、閉幕後に同じ気持ちでいるのは難しいのではないだろうか。そして金メダルはわたしたちの心を簡単に捉え、終わってみれば「やっぱりやってよかったね」という安易な結論に帰結してしまうのではないだろうか。もちろんこれは自戒を込めて言っている。でもわたしはそうはなりたくない。

スポーツを見るのは楽しい。それは純粋に勝ち負けだけを楽しんでいるのではない。努力や葛藤など、その場に立つまでのプロセスをわたしたちは想像し、そこにドラマを垣間見る。人間の身体能力に慄いたりする。でも「その楽しさを享受したいから」というだけの理由で、このシステムに乗りこんだまま自動運転で進んでしまうのは、わたしは違うだろうと考えている。

わたしにとって今回のオリンピックは、「どこか彼方で」行われているイベントだ。今日という日も、”暑い夏の普通の1日”に過ぎない。物事を冷静に考えるために、そういう距離感でいたいなと思う。そういう人がいてもいいだろうと思う。

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