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世界が目標にするスイスのダイレクトデモクラシー

ダイレクトデモクラシーの旅」からの抜粋です

プロローグ

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2015年11月、ある日の夕暮れ、スイス、バーゼルの旧市街にあるカフェの屋外のテーブルで、エノ・シュミット氏への長いインタビューを終えてひとりになり、ぼんやりと街を眺めていた。長旅と長いインタビューの疲れと、今まで感じたことのない不思議な高揚感。普段みる街並とは違うヨーロッパの真ん中の小さな街で人が行き交うのを見ながら思った。

ここ、ほんとに同じ星かよ・・・

彼の言葉は、とても当たり前なことに違いない。でも、日本では、聴いたことがない言葉ばかりだった。彼は言った。

デモクラシーで何かに投票するということは、白か黒かを決めることではない。闘うことでも、何かの競争でもない。普通の人たちから生まれたアイデアをパブリックな議論にして、新しい規則を憲法の中に盛り込む。
社会に新しい意義をつくりだして皆で深めていくのがデモクラシー。社会に属する人たちのアイデアで社会を発展させる、これがスイスのデモクラシーのプロセス。政府じゃなく市民が本当に主権者なんだ。


さらに続けた

デモクラシーはきちんと取り組まないと後戻りしてしまう。
君主制やマフィアの国のようになる。
だからきちんと取り組まないといけない。
ケアして、リニューアルして、考え直して、リフレッシュする。
時間が経っているんだから、進化させないといけない。
デモクラシーと人権を発展させないと、本当に後戻りする。
わずかな言葉だけが残り、いい意味があっても、意味がないんだ。


そうだよ、そうだよ、これだよ。

ここから私の長い探求の旅は始まった。
ほんと、探し求めた。

ベーシックインカムの国民投票

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2015年11月13日、この金曜日は、偶然にもパリで大規模なテロが起こった日だったから、出会った日を忘れることがない。その日私は、フランスとドイツの国境に隣接するスイスのバーゼルにエノ・シュミット氏を訪ねた。バーゼルは、ライン川沿いの古い町並みの残る人口15万人ほどの街で、中心部のマルクト広場にある市庁舎、古くて赤い壁にフレスコ画が描かれている建物が街のシンボルだ。待ち合わせ場所は、その広場から大通りを少し歩いたところにあるカフェ、ウンターネーメン・ミッテ。ビデオカメラと三脚を片手にホテルを出て、路面電車を乗り継いでカフェを探し、到着するとそこはカフェというより大きなホールのようだった。カフェの中は、あまりに人が多く、話し声が響きわたって騒然としている。とてもシュミット氏を見つけ出せそうにないと困っていたら、ちょうど、入り口に大柄で額の広い男性が現れた。そして、人を探している様子のアジア人をみつけると、微笑んで声をかけてきた。このカフェは、市民活動の拠点になっていて、ここでの話し合いからさまざまな運動が生まれるということを、彼は最初に教えてくれた。シュミット氏と一緒にベーシックインカムのイニシアチブを始めたダニエル・ハニ氏が、銀行だったビルを買い取って運営しているスイス最大のカフェで、もちろん、彼らの活動拠点でもある。それから、外のほうが静かだからといって、注文したコーヒーをもって通り沿いの外のテーブルに座った。そこで、彼のベーシック・インカムの国民投票のプロジェクト全体を、じっくりと説明してくれた。

実はシュミット氏はドイツのオスナブリュックという街で生まれたドイツ人だ。片足をひきづって歩くのは、若い頃バイクで事故にあったからだけど、乗っていたのはヤマハで、事故のあとに懲りずにもっと大きなのを買ったんだと笑って話していた。彼は、フランクフルトの美術アカデミーで学んで画家となり、フランクフルト芸術賞を受賞している。画家として商業的にも軌道に乗っていたのだが、「アーティストはアトリエを出て社会と交わるべき」と言って仲間と起業、さまざまなアートプロモーションの仕事をしていた。
それから、2006年にスイスのバーゼルに移って、ハニ氏と一緒にベーシックインカム・イニシアチブを設立して、活動を始めた。ハニ氏とは、今の社会で一番大事なことをやろうといって、話し合を続けてたどりついたのがベーシックインカムだった。日本に招いた時のインタビューでは、この運動を始めたのは息子さんの死が大きな影響を与えているとも話していた。若くて元気な若者がある朝本当に突然亡くなったようで、その後の父親の人生に大きな影響を与えたのだ。また、シュミット氏は、ドイツの著名な実業家で、アントロポゾフ(ルドルフ・シュタイナーの人智学派)でベーシックインカムの著作もあるゲッツ・ヴェルナー氏と懇意で一緒に活動もしている。ドイツには国レベルの市民発議による国民投票の制度がなく、ベーシックインカムが関係者の議論で終わってしまう。だから、スイスで国民投票にかけて世論の喚起をしようと考えた。

彼らは、まずベーシックインカムに関する世界初の映画「ベーシックインカム – カルチュラル・インパルス」 をつくった。このドキュメンタリーは広くインパクトを与えて、20カ国語以上で翻訳され、視聴者は200万人にのぼっている。シュミット氏は、私にこう話したことがある。「障害をもつアーティストがこの社会で生きていくことは簡単じゃないんだ。本当に深く社会を見つめて必要なものを表現しないといけない」。確かにこの映画もそんな視点でつくられていて、一見、荒唐無稽に思えるベーシックインカムというアイデアは、実は、誰もがより人間らしく生きられる社会をもたらすのではないかという深い気づきを与えてくれる。


彼らがベーシックインカムの署名集めを始めたのは、2012年だ。そして、2013年の秋に12万6千筆の署名を連邦政府に提出した。彼らが提案した憲法改正案はこうだ。

1.連邦政府は無条件ベーシック・インカムを導入する。
2.ベーシック・インカムは、すべての国民が尊厳をもって存在し、公共生活に参加するために設けられる。
3.ベーシック・インカムの額とその資金調達は特に法律で定める。

もし、こんな条文が私たちの憲法にも盛り込まれたら、いったいどんな社会になるんだろうか?と想像を膨らませてみるのは悪くない。

意図的なのかは分からないが、この条文案が世界のマスメディアに載ることはなかったし、国民投票が憲法改正のためだということをちゃんと報じるところも見当たらなかった。そして、困ったことには、スイス国外のメディアでは、たまたまイニシアチブのメンバーが例として出したベーシックインカムの支給額、月額2500フランという金額だけが一人歩きして、スイスの物価水準については一切触れずに「働かないでこんな高額な収入を得ようなんてとんでもない」という風潮作りに利用された。


市民による法の提案をイニシアチブという。スイス国籍をもたないシュミット氏は国民投票の投票権がないのだが、外国人でもスイスにとって良い提案は歓迎ということで、イニシアチブは起こせる。外国人比率が世界屈指に高く2割を超えているこの国は懐が深い。そして、彼は、署名提出後に閣僚に招かれて言われたという。
「すべて順調ですか?何か問題があったら言ってください。私たちはベストを尽くします。すべての役人もサポートします。市民イニシアチブなのですから」
政治家も役人もベーシックインカム導入については反対意見をもつ人が多かったのだけど、それが10万人の署名とともに提出されれば、法的拘束力を持った国民投票を行うことが憲法上決まっている。このダイレクトデモクラシーが社会制度の根幹にあること、最終決定権は国民がもっているということについては、ほとんどの国民がとても大事なことだと認識し、誇りをもってそれを行使している。

「国民投票の投票率ってどれくらいですか?」シュミット氏にたずねた。
「ん?なんのこと?ああ、誰も投票に行かなかったら過半数取れるからいいな」
驚いたことに、投票率についてまったく関心がない。国民投票は、今では向こう20年間のスケジュールが決まっていて、3ヶ月ごとに定期的に行われる。もちろん、毎回行く人は多くないけど、年に1回以上行く人は9割を超える。

スイスのダイレクトデモクラシー

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ほとんどの日本人は、スイスと言えば「ハイジ」を連想し、牧歌的なイメージをもっているだろう。でも、この国の一人当たりのGDPは世界2位、国際競争力ランキング世界1位だ。因みにGDPの1位はルクセンブルクで、人口70万人のこの国におよそ30年前に抜かれるまでスイスがずっと1位だった。この国には最低賃金の制度がないが、労働組合がそれを設定しようとして2014年に国民投票が行われた。提案された最低時給は22フラン(約2500円)だったが、圧倒的多数で否決された。実際のところ、わざわざ最低時給を設定しなくても、多くの人はもっと高額で雇われている。当然、物価もそれに連動して高いので、誰もが有り余るお金をもっているわけではない。でも、相対的貧困率は日本の半分ほどで経済格差はそれほど大きくない上に、働く人の権利は保護され休暇も十分にある。シュミット氏が「常に経済的な競争に追い立てられるドイツと違って、スイスは流れる空気がゆっくりしている」といっていたが、それで競争力が世界一なんだ。また、若い友人が「スイスでは金持ちは、決して金持ちぶらない。そうしないと、健全な社会生活が送れなくなるから」と言っていたのも印象的だった。ジャンジャック・ルソーは、贅沢は、金持ちも貧乏人も腐敗させる、金持ちは財産で腐り、貧乏人は物欲で腐ると言っているが、そう言う価値観を社会全体で共有しているように見える。そして、スイスは、ウィーン条約で永世中立が認められる前から、長きにわたって戦争をしておらず、ヨーロッパが戦争にまみれた20世紀でさえも完全に戦争から免れている。だから古くて個性的な街並みが破壊されずにそのまま残り、どこも手入れが行き届いていて美しい。もちろん、農村も山岳地帯もそれは同じだ。

さて、もともとこの市民イニシアチブの制度を最初に提唱したのは、フランス革命期に活躍したニコラ・ド・コンドルセ侯爵と言われている。革命後すぐに出されたジロンド憲法の中にあるのだが、その後のジャコバン派の台頭でその憲法は陽の目を見ることはなく、コンドルセ自身も革命の荒波の中ですぐに不慮の死を遂げた。その後、フランスは中央集権化が進み、ダイレクトデモクラシーが制度化されることはなかったが、これはやがてスイスで開花する。

1830年にパリで起こった七月革命では、ウィーン会議で復活したブルボン朝を市民が蜂起して再び打倒したが、これは他のヨーロッパの国々にも波及した。スイスでは、主に特権を持たない人びとが広場に集まってランツゲマインデと呼ばれる集会を開催し、そこで特権の廃止や政治経済上の平等を求めて新しい憲法が請願される。その結果、1年で11のカントン(州)で自由主義的な憲法が制定されて新しい政府ができた。その中で、一番先進的だったのは、ザンクト・ガレンで、その憲法には、「国民は立法権を自ら行使し、すべての法律は国民の承認によらねばならない」と定められた。スイスは、もともと小さな自治国家であるカントンの同盟というかたちをとっていたが、フランス革命後のヨーロッパの混乱の中でいくつかの国家形態が施行され、やがて分離同盟戦争という内戦を経て、1848年に連邦憲法が制定される。この憲法では、有権者5万人の要求で憲法の全面改訂の発議ができることが定められた。

さらに1860年代にも民主化の波が押し寄せる。特に、チューリッヒでは、「すべては国民によって」というスローガンが生まれて運動が大きくなり、カントンの憲法改正が行われた。そこで、住民がイニシアチブを通じて法律を提案できるようになり、また議会が制定した法律も、レファレンダム(住民投票)によって賛否を問うことができるようになった。やがて他のカントンもこのダイレクトデモクラシーをとりいれるようになる。

そして、1891年の連邦憲法の改正で、連邦憲法の部分改正に対する国民発議権が認められた。これにより、国民の手で常に憲法が改良されていく今のスタイルが確立される。その条文は、「10万人の有権者は、発案の公示から18か月以内に連邦憲法の部分改正を要求することができる」。 その後に具体的な手続きに関する記載が少し書かれてあるが、いたってシンプルだ。

これまで世界全体では、およそ2000回の国民投票が行われているが、そのうちおよそ1/3に当たる600回以上が スイスで行われている。連邦レベルでは毎回およそ3項目の投票が行われ、他に自治体やカントンの投票を合わせると年間数十件の事項が直接市民の判断に委ねられる。当然、投票の結果はすべて法的拘束力があり、それに応じて憲法までも随時改変される。彼らにとって憲法とは「ライブ・ドキュメント」であり、移りゆく社会の中で、常に改善の議論がなされ、投票によって変化し続けるものだ。普通の個人でも、志を抱いて一念発起して憲法を変えることができる。さらに、市民が直接判断できるように、法律は誰にもわかりやすい平易な言葉で書かれているし、マスメディアの役割は市民が投票の判断ができるように情報を提供することだ。政治家個人の人間性やスキャンダルがトピックになることはない。うんざりする有名人の個人情報のたれ流しにつき合う必要はない。

市民イニシアチブのテーマは人権に抵触しなければ何でも可能だ。例えば、最近、公共放送の受信料廃止が国民投票に付されたが、圧倒的多数で否決された。その後、そこに勤務する友人を訪ねて話を聞いたら、この投票をきっかけとして、本社移転を含めた体制の見直しが大規模に進められているといっていた。否決されても、国民投票まで持ちこまれたことを真摯に受け止めて、内側から改善の動きが起こる。また、税法についても、例えば、連邦消費税は15年ごとの更新が投票に付され、これも最近圧倒的多数で継続が決まっている。そして、法律の提案権も最終決定権も国民にあるので、一般にできた法を国民は守ろうとするし、脱税も少ない。

政府に認められたイニシアチブは、18ヶ月以内に10万以上の署名を集めれば法的拘束力のある国民投票が行われる。投票の前には、政府がイニシアチブについて検討して見解を発表する。スイスの国会は、各州2名の代表者(準州は1名)合計46名で構成される上院と、各州から人口比例で200名を選出する下院からなるが、それぞれイニシアチブを審議し、見解を表明する。審議にともなって必要に応じて代替案も出され、原案とともに国民投票に付されることもある。世界の多くの国とは逆で、政府や国会の見解が諮問に過ぎず、国民の提案は、投票した人の過半数と全26州の過半数の得票で、可決成立する。

このダイレクトデモクラシーをベースとしたスイスの政治体制もとてもユニークだ。この国の大統領は7人の閣僚が1年ごとにもちまわりで就任するため、国民のほとんどはその名前さえ知らない。そして、そもそも与野党という概念がなく、右派左派含んだ主要4政党、急進民主党、国民党、キリスト教民主党、社会民主党に7つの閣僚ポストが常に割り当てられる。言語圏は、70%がドイツ語、23%がフランス語、6%がイタリア語で、閣僚の人選にあたってはその比率も考慮される。因みに4つ目の公用語であるロマンシュ語を話す人はわずか5万人しかいないが、1938年の国民投票で9割以上の賛成を得て公用語になっている。マイノリティへの配慮の典型例といえる。スイスの国会は四半期毎に3週間開催されるだけで、議員報酬も普通に暮らせる程度で低く設定されている。社会との接点を維持するために兼職が奨励され、当然のこととなっている。こういう制度の下では、国民投票ですぐに否決されるような法律を政治家が無理やり通すことは意味をなさないし、直接民主制を補完する代議制を担う政治家たちはおおむね国民に信頼され、汚職にまみれた薄汚い存在だとは思われていない。

世界ではこれまでおよそ2000回の国民投票が行われているが、一度も経験がない国は決して多くない。かつて北京の清華大学の学食で若者たちと話していて、このことが話題になってびっくりしたのだが、中国でも共産党が政権をとった後で、大規模な憲法改正が何度か行われていて、その都度、形式的には違いないが国民投票が実施されている。数少ない未経験国である日本で、「国民投票なんかすると、国民はメディアに騙されて間違った判断をして大変なことになるからやるべきではない」という意見は少なくない。特に私は、知識人や政治家からそういう発言を直接聞いたことが何度かある。そういう人たちは、知らないことを印象で語ってるに過ぎないのに、言葉が影響力をもって、普通の人たちはすぐに同調しちゃうから、本当にガッカリだ。

スイスの歴史の中でこんなことがあった。1930年代に世界恐慌の影響で失業率が上がり社会不安が広がるにつれて、極右勢力が台頭し、「戦線」と名のついた団体がいくつも生まれる。既存政党の右派もこれらと手を結んで社会民主党との対決姿勢を強めた。そして、1934年にこうした勢力は憲法の全面改訂のイニシアチブを起こし、カトリック系の保守派も巻き込んで大きな勢力になった。でも、翌35年に行われた国民投票では、賛成30万に対して反対が51万となり、予想外の大差で否決されている。そして、これを機に極右勢力は衰退していった。 政治家より国民が賢明な判断をした例だ。極端な圧力がかからない限り、国民はかなりまともな判断をするのは、日本でも個別案件の世論調査の結果を見るとよく分かる。利権に飲み込まれた代表者よりはるかに健全なのは言うまでもないが、反論あるかな?

ハッピー・ルーザー


ベーシックインカムの国民投票の投票日は、2016年6月5日だった。

歴史的な国民投票をぜひ現場で体験したいと、友人を誘ってバーゼルを再訪した。投票の前日に到着したが、街は思ったよりも静かだった。そもそも実際の投票のプロセスは、投票日の1ヶ月前に、有権者には賛否両論が同じ分量で書かれた広報誌が投票用紙とともに郵送される。そして投票は郵送する人が多い。カントンによってはインターネットでの投票も可能で、投票日に投票所に行く人は多くない。

投票当日は朝からパーティだというので、早い時間に会場を訪れた。ウンターネーメン・ミッテの一角がキャンペーン・オフィスになり、隣接する広場は、イベント用に装飾され、キッチンカーがいたり、人が集まって討論会をしていたりする。テレビの中継車が入り、内外からのさまざまなマスメディアもいて、あちこちでインタビューをしている。
私も、広場でたまたま同じテーブルに座った人にビデオカメラを向けてインタビューしてみた。レマン湖畔の小さな街でアトリエを営んでいる品の良い中年の女性だった。
「最初は、彼らは一体何を言ってるの?火星からでも来たの?って言ってたの。でも、彼らはその考えの背景をうまく表現したの。そう、今では随分変わったわ。尊厳をもって人間が生きるために、ベーシックインカムは必要。今日は結果がどうであれ、スイスにとって歴史的な日、だから来たの」と言うので、「ミー・トゥー」と返すと「グッド」と。

お昼ぐらいからカントン単位で結果が分かってきて、その都度ステージに張り出されて歓声があがる。広場では、シャンパンが無料で振舞われ、弦楽器のトリオが演奏したり、大道芸人がパフォーマンスしたりしている。ゆっくりと心地よい時間が流れていく。夕方になって、全体の結果が分かってビルの壁面に数字が大きく張り出されると、紙吹雪が舞い、歓声と拍手が大通りに響き渡る。


結果は23%の賛成、つまり否決されている。

中心メンバーの若者に声をかけた。
「悪くない結果だよね」
「いや、過半数を取らないと意味がない」
彼だけ悔しそうだった。他の人たちは長い長いキャンペーンに一区切りついたことに、ほっとしているようで、夕暮れの街のあちこちで親しい人どうしハグをしていた。

同じように何かを選んで投票箱に一票投じるのだけど、人を選ぶ選挙と事を選ぶレファレンダムは随分と違う。そしてレファレンダムでも、公権力が推進することに対して人びとが賛否を示す投票と、市民の未来社会への新しい提案に対しての賛否の投票では、また随分と違うだろう。私は、選挙の経験は自分の立候補を含めて数え切れないほどあるが、スイスの国民投票は、私の知る選挙の世界とはあまりにも違っていた。私にとって、自分が優れているとアピールしたり、人を蹴落としたりするのは、できればやりたくないことだ。そもそも人に優劣をつけるのは本当に嫌なものだ。そして、負けた事務所に流れる空気は限りなく重く、悲しい。もっとも、私個人が選挙に負けた時は、選挙そのものがいつも無謀な挑戦だったので、結果にはサバサバした気分だった。周囲はそれに驚いていたけど、それでもこのレファレンダムのような達成感や祝福という空気からは程遠い。

シュミット氏は、キャンペーンを振り返って「ひとつひとつのイベントの小さな成功の積み重ねだった」と言っていた。賛同者も徐々に増えて、さまざまなところから寄付も集まり、総額は約250万フランにも上ったという。日本ではおよそ考えられない金額だ。署名活動も街頭で集めることが義務付けられていて、特定の組織に依存することなくゼロから10万筆を集めるのは簡単じゃない。でも、多くのボランティアの手によって成し遂げられた。

シュミット氏と交流する中でなるほどと思ったのは、ベーシックインカムは、デモクラシーや人権といった人類普遍の価値と誰もが認める思想の延長線上にあるので、この制度が実現するのは時間の問題だと考えていることだ。日本では社会保障の再編や合理化としてしか議論されないのと大きな違いだ。そして、かつてそうした普遍的な価値が社会化される際に起こったのと同じ議論が、現在、ベーシック・インカムでも起こっている。
「ベーシック・インカムが実現すると誰も働かなくなって社会が駄目になる」という意見は、「すべての人に選挙権を与えると社会が駄目になる」という百年以上前の議論とまったく変わらない。「愚かな人間が選挙権なんてもったら、とんでもない。社会は、金持ちと高い教育を受けた人が導くべき・・・」 そんな事が当たり前のように言われる時代があった。

女性参政権についても同じだ。スイスの女性参政権の運動は1868年、チューリッヒで州憲法の改正の際に女性たちが起こしたのが最初と言われている。しかし、長く戦争をしていないスイスは、ドラスティックにトップダウンで社会変革をする機会がない。1957年に政府が女性にも民間防衛の役割を担ってもらう計画をたてたが、婦人団体は選挙権がないことを理由に拒否したため、政府が女性参政権を発議、59年に国民投票が行われたが、67%の反対で否決されている。この問題が困難なのは男性にしか決定権がないことだ。反対意見としては、「女性に選挙権を与えると、いったい誰が子育てや家事をするのか?」といったものや、「政治の議論に女性を巻き込むのは女性に悪影響をもたらす」「愛する女性に政治の話なんかして欲しくない」といったことが真面目に語られた。その後、女性参政権がないために欧州人権条約の署名が延期されたことをきっかけに、スイス政府はあらためて国民投票をすることを決めた。そして、1971年に実施された投票で今度は66%が賛成し、可決された。その後もカントンレベルでは依然として認めないところが残り、最後は連邦裁判所の強制によってすべてのカントンで女性参政権が認められたのは、なんと1990年になってからだった。

こういうタイムスパンでとらえると、ベーシックインカムの賛成が23%というのは確かな第一歩と言える。さらに、投票後に行われた世論調査では、今回は反対に投票した人の半数以上がベーシックインカムの導入について引き続き議論を続けるべきとした。

そして一番価値があると思うのは、この国民投票の前後で世界のベーシックインカムに関する論調がずいぶんと変わったことだ。私自身は、自分の政策としてベーシックインカムを掲げて選挙に出たこともあるくらいで、かなり古くから取り組んでいるテーマだが、正直、その実現については、生きている間には無理だろうと思っていた。もし導入されたら素晴らしい世界になるだろうと思う一方で、今の世界とはあまりに隔たりが大きく、実現には見通せないくらい長い時間が必要だろうと。世界的にみても、かつては、ナミビアやインドなどでとても小さなパイロット・プロジェクトが行われているくらいだった。しかし、この国民投票の頃から急に世界の動きが活発になりだした。まず、フィンランド政府やオランダの都市ユトレヒトがパイロットプロジェクトをすると発表した。そして国民投票の1ヶ月後にはイギリス労働党の代表であるジェレミー・コーヴィンが本格的に検討すると発表し、労働組合の連合体もそれに追随する。それまでは、小さな政府を標榜する政治的には右派と言える新自由主義者たちが、社会保障の合理化という観点からベーシックインカムに賛成という声が多い一方で、左派は反対という立場がほとんどだった。貧困が撲滅されるのに、なぜ左派が反対なのか?どうやら、労働組合が不要になるからのようだと私が解釈しだした頃、世界的には、左派からもベーシックインカム推進の声が上がってきた。特に欧州では失業率が高止まりを続け、労働条件の改善の展望がひらけない中、もはやベーシックインカムしかソリューションがないという声が上がりだした。そして、ちょうど機を同じくして、AI、人工知能の加速度的な進化によって、近未来にさまざまな分野の仕事で人間が要らなくなり、大失業の時代が到来すると言われだした。特に、マーク・ザッカーバーグやイーロン・マスクと言った世界的に有名な起業家がベーシックインカムの必要性を唱えだし、さらに注目が増した。ベーシックインカムは、まだどこかの国で本格的な導入スケジュールは決まっていないが、各地で真剣な検討や実験が始まっており、かつてのような遠い先の夢ではなく、そう遠くない将来、どこかの国で本格導入され、世界に広まっていくと予想される制度になった。


軍隊廃止の国民投票

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2017年5月、バーゼルからフランスとの国境に沿って1時間ほど電車に揺られると、サン・テュルサンという駅につく。高台にある駅から10分ほど下って行くと、真ん中に小川が流れる小さな古い町にたどりつく。典型的なスイスの田舎町だろうが、その美しさに心が和む。小川から少し入った低層の集合住宅の入り口のドアをノックして、しばらく待っていると、ノックの音で目が覚めたようすの白髪の男性が現れた。アンドレアス・グロス氏。サン・セバスティアンのフォーラムで初めてお会いして、これは2度目だ。中に入って家を見せてもらうと、2階はまるで図書館のように蔵書で埋め尽くされていて、びっくりする。それからコーヒーを頂いて、小川と広い庭に面した2階のバルコニーで、ゆっくりと話を伺った。

ダイレクトデモクラシーの専門家として著名なグロス氏は、実は、神戸で生まれて幼少期を過ごしている。研究者であり作家だが、スイスの地方議員から国会議員になり、さらに欧州評議会のメンバーでもあった。さまざまな国の選挙監視にもたずさわってきた。そして何より市民としては、例えば、スイスの国連加盟のイニシアチブ等を起こしている。スイスの国連加盟は21世紀になってから実現したが、国民投票によって加盟を決めた唯一の国でもある。そして、グロス氏は、国連総会で演説したスイスの最初の国会議員になった。そして、こうしたキャリアのスタートは、1989年、冷戦が崩壊する中で行われたスイスの軍隊廃止の国民投票だ。インタビューでは、まず表紙に「ユートピアが現実になる」と書かれた電話帳のような分厚い本を見せてくれた。新聞記事はじめ当時行われたおよそすべての議論をまとめて出版したものだ。

そう、ナチスドイツが、国境を接しているのにスイスにだけは侵略しなかったのは、国民皆兵の強力な軍隊があったからだとほとんどのスイス人は思っている。当時、例えばベルギーも中立宣言をしていたが、こちらはドイツがフランスを攻撃した際にあっという間に占領されている。「We don’t have army because we are army」これがスイス人の口癖だ。軍隊はスイスの顔であって、兵役の際に仕事ぶりが評価されて高い地位につけば、社会に戻っても優遇されやすい。まさにこの社会の聖域で、その状態は戦争から30年経っても変わらなかった。そんな中で、このイニシアチブは、1980年3月、20代前半のソーシャリストたちが会議で言い出したことがきっかけとなった。当時、ヨーロッパの平和に関するディベートで話されたのは、超大国が核ミサイルの軍拡競争をしている中で、戦争は絶対に起こしてはならないものであって、それは軍備とはまったく関係のない政治の問題だ。軍隊は戦争を引き起こす可能性はあっても、戦争を防ぐためには何の役にも立たない。軍事的な思考、発想を捨てることが一番大事だ。兵役に変わる民間奉仕のイニシアチブにも挑戦したけど、それは軍を危険にさらすとして具体的な議論にならない。もし、イニシアチブを起こして国民投票をやっても決して過半数を取ることはないだろうけど、それでも20%でも賛成があれば、政府と何らかの妥協点が見いだせるのではないか、彼らはそう思ってイニシアチブをスタートさせた。話し合いを続けて、1982年にグループを立ち上げたが、その当時、グロス氏はダイレクトデモクラシーについてはすでに専門家と言えるくらいの知見があって、このイニシアチブが失敗しないようと3年ほどかけて署名集めの組織づくりを行った。そして「I am against army because・・・」という意見広告を出して、多くの人を巻き込んでいった。
彼らは、1985年の3月に署名集めを開始し、翌年9月に10万筆以上集めて連邦政府に提出した。その間、スイスのエスタブリッシュメントはなるべく彼らの活動には触れないようにしていたが、署名提出後の1987年にドイツの著名なドキュメンタリーの監督が彼らの活動を撮影し、それがゴールデンタイムに放映された。隣の国で彼らの活動が大きな反響をよんでいることがスイスに伝わり、それをきっかけに国内で数え切れないほどの討論会が行われるようになった。この時期、ソ連にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカを行ったことも、彼らの運動には大きな追い風になり、注目は高まっていった。

この国民投票は1989年11月26日に行われた。国防大臣は、もし25%が賛成したら、スイスはカタストロフィーに陥ると言っていた。そもそも3ヶ月ごとに国民投票があるスイスでは、毎回の投票率が話題になることはなく、それが5割を超えることもあまりない。しかし、偶然、投票の3週間前にベルリンの壁が崩壊したことがこの投票にさらに拍車をかけ、投票率は過去最高を記録し、ほぼ7割に達した。そして、もう軍隊は要らないと意思表明した人は、大臣が危険水準とした4人に1人ではなく3人に1人を超えた。これを機にスイスの人びとの軍に対する意識は完全に変わってしまった。

グロス氏は話した。最近スイスの大手新聞がこの件について大きな記事を書いた。もう、あの投票から28年たっているが、その見出しは、「軍は決してあのショックから立ちなおらない」だった。軍は今でも自分たちを見失ったままで、スイス国民の3人に1人にあなたたちは要らないと言われた現実と格闘している。実際に、投票後は、イニシアチブのメンバーが意図した通りにことが運んだ。兵役以外の選択肢である民間奉仕が導入され、軍のリストラも始まり、その規模も予算も半減した。この投票があった頃のスイス軍は、まるで今のアメリカの連邦予算のようで、予算全体の1/3を締めていた。まだまだ多いとグロス氏は言うが、もともと50歳まで予備役があって、全人口の1割近い70万人が軍に属していたが、今では30歳までで20万人代に縮小されている。

かつて軍について批判的に話すのはタブーだったが、その後普通に話題にして批判もできるようになった。ダイレクトデモクラシーのグローバル・フォーラムのチェアマンであるブルーノ・カウフマン氏は、若い頃このイニシアチブの事務局を担当している。彼によると、当初、自分たちは「国民の敵」と呼ばれていたし、活動中はシークレット・ポリスに尾行もされていた。彼の父親は、自分の職業に影響が及ぶことを恐れて、口も聞かない関係になってしまったが、ある時、職場の同僚に「テレビで見たが、あなたの息子はとても素晴らしいことをしている」と言われて、以後、態度を改めたそうだ。こういう世間体を気にした話は、日本でもよくあるけど、スイスの若者たちは、言い訳しながら途中で諦めるんじゃなくて、強かに社会の壁をぶち破って人びとの意識を変えたんだ。時が経ってから、彼は国防大臣と会った時に、お陰で軍のリストラができたと直接感謝の言葉までもらったという。

この国民投票の後、人びとは政治に対してより自由でオープンになった。社会のエスタブリッシュメントが望まないディスカッションでも、市民を巻き込めることが分かったのでそれをやりだした。この投票結果は、スイスの若者たちに勇気を与えて、そこからさまざまな市民活動が広がっていく。イニシアチブを通じて、社会に潜む問題を明らかにして解決策を話し合うようになったし、個人の新しいアイデアを社会に問うて、社会の進化を促せるようにもなった。グロス氏は、このレファレンダムは、スイスのデモクラシーの中で最も成功した敗北だったと言う。


その後も、軍隊廃止や徴兵廃止の国民投票は行われているが、グロス氏は、「初恋を繰り返すことはできない」といって参加していない。実際に投票率も賛成票も大きく減っている。多くのスイス人にとって、現実に軍事費が削減され、兵役も緩和されたので、概ねそれで良いと納得しているようだ。

スイスに滞在すると、この軍隊廃止の国民投票の事がよく話題になる。そうした時はいつも、もし、日本でも同じような様の国民投票をやったらどうなるだろう?と考える。日本では、本当に長い間、憲法改正と言えば9条をどうするかだった。これは、もともとアメリカが朝鮮戦争の時に日本を動員できない不都合に直面して、憲法改正を要求したからだ。それからは、まるで日本の憲法の条文は9条しか存在しないようで、それに指一本でも触れる話をしようものなら、祟りでも起きるぞと言わんばかりに議論をタブー扱いする人びともいる。人びとが考え、議論する項目さえ、権力の命じるままだと言う悲しい現実、ほんとトホホな社会だ。さらに、この憲法の条文にもかかわらず、実態としては日本は世界屈指の軍事大国だ。

もし、日本にもスイスと同じような市民イニシアチブによる国民投票の制度があって、それを使って市民が自衛隊廃止の国民投票を実現させたら、私たちの社会はどうなるだろう?
想像するだけでも胸がすく。

ベーシックインカムが拓く未来社会

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シュミット氏たちのベーシックインカムのキャンペーンでは、ドキュメンタリーの制作が素晴らしいものだっただけでなく、アーティストであるシュミット氏が繰り出すイベントは、どれもユニークなものだった。

例えば、金色の紙でつくった王冠を駅で通りゆく人たちの頭に次々とかける、これは、自分の人生の王はあなた自身だという気づきをもたらそうとしたもの。さらに、街頭で実際に紙幣を配って反応を見るというキャンペーンもした。署名活動の際には、第1回シオニスト会議が行われたホテルとして有名なトロワ・ロワでセレモニーをしているし、集まった署名を政府に届けた時には、ベルンの国会前の広場でスイスの人口に相当する800万枚の金貨を撒き散らして、お金の支配からの解放を表現した。この映像は世界に配信されてセンセーションをおこした。また、投票日の数週間前には、ジュネーヴの広場に「WHAT WOULD YOU DO IF YOUR INCOME WERE TAKEN CARE OF(もし収入が確保されたら、あなたは何をしますか?)」という8千平米のポスターを広げ、ギネスブックで「世界で一番大きな質問」に認定された。このポスターは、ニューヨークのタイムズスクエアの電光掲示板でも放映されたし、ベルリンのブランデングブルク門の前から伸びる大通りに沿って長く掲示もした。キャンペーンカーは、金色に塗られたテスラの電気自動車で、それでスイス中を駆け巡った。

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ベーシックインカムは国外ではUBIと略されることが多い。最初のUはユニバーサル、つまりすべての人に同額、普遍性と言う意味だけど、シュミット氏は、Uをアンコンディショナル、無条件という言葉にする。

最初に会った時、「ベーシック・インカムを受けとると人は怠惰になる」という意見に対するよい反論として、私は、「報酬主義を超えて」のアルフィー・コーンの学説を紹介した。
コーンによると、人は自然状態にあると、豊かな好奇心があり、周囲のことを詳しく知って工夫を重ねて良いものを作り出し、難しいことにもチャレンジする性質をもっているけど、報酬が与えられるとそういう性質を失ってしまう。何かに報酬をもらうということはそれ自体ではやるに値しないことだと私たちの意識は判断し、その報酬が大きいほど価値は下がる。心理学的な研究によると、報酬による行動は長続きしないし、業績の向上もなく、悪化させることの方が多い。報酬によってよりよくできるのは単純作業だけで、一度報酬によって人を動かすと、動かし続けるためには、報酬の量を増やし続けなければならない。
「これをすればあれをあげるよ」といった瞬間、人の関心はあれにシフトして、視野を狭くする。そして、何か問題が起こっても、本質的な原因を追求しなくなる。報酬に仕事を合わせ、いい仕事をするのではなく、報酬をくれるボスへの売り込みやご機嫌とりに関心が向かう。
そもそも私たちは、「自分は単なる歯車ではなく、より本質、根源的な存在であって、自分のすることは自分で決めたい」という基本的な欲求をもっているが、報酬はそれを制限する。そして、「これをすればあれをあげるよ」がすべてになると、報酬のないことはすべて無駄なことと見なすようになり、生きることを楽しむことができなくなる。自分の人生が完全に外からの報酬に依存してしまうと、精神的な健康を維持できなくなり、危機にさらされる。落ちこみやすく、無力感を抱きやすく、物事がうまくいかないときは絶望的になる。それは、誰かに依存しないと生きていけないと思っているからだ。

ちょうど、コーンは教育の分野では、unconditional parentingという概念を提唱している。子供を条件付きで愛してはいけないということ。「人も社会もそれを歪めるものは、突き詰めるとたった一つ、条件付きの愛」と機会があると私は話すが、そもそも、人間が社会生活を営むために本当に条件は必要なのだろうか?それは何のためだろう?

シュミット氏には最初に会った時に、ぜひ日本に来て欲しいとお願いしたのだが、その後、国民投票があったり、私が多忙でうまく準備ができなかったりで、延期が続いた。ようやく来日が実現したのは、国民投票からおよそ1年後の2017年4月のことだった。まずその年の初めに、2週間の滞在を決めたものの、具体的な企画の目処もなくどうしたものかと思っていた。でも、この頃にはかなりベーシックインカムへの関心がたかまっていた事もあって、講演会や取材の話がスムースにまとまっていき、結果としてとても有意義な滞在となった。

滞在期間中多くに同行し、時には通訳をする中で印象深い言葉がいくつもあった。特にキャンペーンのあり方について、アーティストらしい哲学が根底にあることが分かった。それは、ひとつの至高の目標を掲げる、他のこととは混ぜない、その最高の価値を、最高に美しく表現する。決して感情に訴えたり、何かを攻撃することで表現はしない。
「意識を向けるとそこがエネルギーをもつ。貧困をなくそうっていうと貧困は増える。カネモチがけしからんというとカネモチが力をもつ。だから、そこに視点を向けるんじゃなくて、至高の価値に意識をおくんだ」
そして、恐れをもたないこともとても大事だと言っていた。

講演会後の質疑は必ずと言っていいほど財源はどうするかという質問があり、それに答えるのに多くの時間を要した。これ以上の増税は嫌だ、ほとんどの人がそう思うだろうし、国民投票での反対の最大の原因もそれだ。それに対してシュミット氏は、よく考えてみるように促す。私たちの経済の中で、そもそもモノそのものに価格はない。例えば石油の値段は、それを掘り出す人の人件費を元に決めている。掘り出すのに道具もいるが、その道具の価格もまた、それをつくる費用がベースになって、どこまでも人件費であり、その人件費も製造に携わる人が生活できるということがベースになっている。さらに、私たちが払う税金もまた、結局すべて人件費になり、その仕事に携わる人が生活できることが基準で支払われる。一方で、この世界で、ほぼすべての人が現実に貨幣経済の中で生活しているということは、実はみんながベーシックインカムをすでに得ているということに他ならない。ただ、その収入は、今は環境含めた条件によって支給されている。日々、時間の拘束を受けて働いているから、誰かの配偶者だから、子供だから、年金の受給資格があるから・・・。そして、こうした条件は支払う側の都合に沿ったものになりがちだ。そうではなく、誰もが尊厳をもって社会生活を送れるように、経済全体の中で、生活に必須の部分は無条件にしようというのがUBIの本質だ。どうだろう?

キャンペーンの中で重要なのは、決して答えを言わず、常に良い問いを投げかけて深く考えることを促すということだ。そして、締めくくりとして発せられた問いが、ギネスブックに登録された世界で一番大きな質問だ。

「もし、収入が確保されたら、あなたは何をしますか?」

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お金に左右されずに自分の人生を自分で決めることができるようになったら、あなたは、
仕事はどうするだろう?
そして、給料はどうするだろう?
経済全体としてはどうなるだろう?
それによって景気はどうなるだろう?
物価は上がるのだろうか?下がるのだろうか?
家庭生活はどうなるだろう?

結婚はしやすくなるだろうし、相手を選ぶ基準も変わるかもしれない。子供は、そして子育て、教育は・・・。子育てはかなり楽になりそうだし、学歴偏重の教育も大きく見直されるかも知れない。地域社会との関わりはどうなるだろう?

ちょうどシュミット氏の来日からほどなく、たまたま取引先の経営者と話をする機会があって話してみた。ベーシックインカムについてはほとんど知らなかったが、少し説明して想像してもらった。彼は言い出した。
「もしそうなったら、どれほど素晴らしいだろう。誰もが、おカネを気にしなくて何かに没頭できれば、必ず何かいいものを生み出せる。会社の経営だってどれほどやりやすくなることか」
もちろん、一方では真逆の反応をする人がいる。

スイスで、国民投票の前に本格的な世論調査をしたところ、90%以上の人がベーシックインカムがあっても今の仕事を続けると答えている。ということは、社会はあまり変わらないということだ。一方で、興味深いのは、半数以上の人は、多くの人が今の仕事をやめるに違いないと思っている。自分は仕事を続けるけど、多くの人はやめるだろう・・・こういう心象を多くの人がもっている。どのようにして多くの人がこう思うようになるのか?これはとても興味深い。


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