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帰国にあたって(前編)

帰国します!
まだ修士論文の書き上げ、提出、発表があるので9月までは大学院生ですが、講義など現地でのコースワークは5月中に終わったためです。残りは日本でなんとか完成させます。
つまり、この留学が終わったわけではないし大学院生のままではあるのですが、イギリスを離れるのにあたって一度いま感じることをある程度、文字にしておいたほうがよいと思うのでまとめます。
あっという間の1年、正確には8月初旬~翌年6月下旬なので1年弱で、名残惜しい気持ちも、この「非日常」が終わってしまうさみしさもありますが、良い経験のできた1年間でした。

・留学してよかったところ

オンライン大学院もある、日本国内にも公衆衛生大学院が増えている、学費も高い、欧米は物価も高いし円安もひどい、海外にいけば臨床や仕事を離れなくてはいけない。30-50年前とは異なって良くも悪くも日本は成熟した「課題先進国」になり、わざわざ欧米に習うことの意味は減ってきている。あえて理解や議論の質が下がる英語で学習せず日本語で学習したほうが深く理解できるかもしれない。
このように「留学しない」理由はたくさんあります。
現地へ行くことに本当に憧れや箔をつける以上の意味があるのか?という点は、留学前に僕自身気になっていた点でした。
公衆衛生大学院の価値、海外MPH自体の価値、海外留学の価値などが混在する面もありますが、ある程度「なにがよかったか」「なにが負担で、改善し得たか」を書きます。
いろいろテーマごとに書くのでまとまりがありませんし、膨大なので記事を分けます。興味があるところだけでも拾い読みしてください。また思いついたら追記するかもしれません。

 

・Public Healthのコース内容

当初留学の目的としていた、社会科学と橋渡しをするような科目、質的研究、「Public Healthスターターパック」とでもいうような網羅的/系統的なPublic Health全体を見渡す内容はもちろん勉強できました。
それに加えて「公衆衛生を裏打ちする倫理や哲学、正義」「健康格差やSDH」については、日本語で紹介される論文や成書などよりも深い議論がすでにされていることをよく知ることができました。この後半部分は、オンライン大学院でも知ることはできるかもしれませんが、僕としては少なくとも英国の大学院で学んだから、英語の文献の世界に身を置いたからこそ得られた情報だと感じています。
現地へ留学する意味、という点では弱いかもしれませんが、日本でいう「公衆衛生」と(少なくともイギリスでいう)「Public Health」は扱っている範囲が異なり、Public Healthのほうが広く深い範囲です。日本のSPHでカバーされるような特定の進路希望/興味範囲でなければ、海外MPHの価値は存在していると感じます。
この項目の内容は、また別の機会にちゃんと整理したいと思います。

 

・英語しか相手にされていないことを認識できる

学問内容に関連していうと、日本で思っていた以上に、英語で発信されていない情報は相手にされていないとよく理解できました。システマティックレビューにせよなんにせよ、先行研究や議論の土台とされるのは英語で書かれたものです。ときどきスペイン語やフランス語、中国語あたりはレビューに含まれることはありますが、「英語でしか検索をしていないので、言語的制約によるバイアスが研究にかかっている可能性がある」という表明をすることで、英語だけを土台にして研究することが正当化されている面があるように感じました。
そのような科学や医学、論文出版業界の慣例や文化が「正しい」とは全く思いませんが、実際にはそうです。そして、学問や高等教育、研究を自国の言葉で行っている国は限られているし、少なくともあえて「日本語」を検索対象に含めて議論するようなことは全くないといってもよいです。
一方で、僕が興味のある公衆衛生と社会科学(政策など)や人文学(宗教など)の橋渡しを考えたときに、英語圏や旧ヨーロッパ植民地勢力圏、一神教圏だけで議論が進むのは片手落ちですし、そのような面で日本での研究が議論へ貢献できる面は多いと感じました。日本での実践や日本国内向けの発信のために日本語中心に研究成果などを発表する意味はありますが、せめて英文アブストラクトと関連語リストをつけることで改善される部分があると思います。 

・自分自身がマイノリティ側となる経験、社会構造によるハンディキャップの経験

日本で生活していれば、望むと望まざるとに関わらず、僕はマジョリティであることが多いです。日本に住む日本人/日本語話者、男性、医師など。
しかし、イギリスへ来ればそうではありません。
民族や言語使用者の人数もそうですが、様々な登録の場面で「other asian:その他のアジア人」を選択することになります。
大学院のクラスでも、イギリスネイティブの集団、中国人留学生の集団、インド人留学生の集団がそれぞれ集まっていることが多いです。さらに印象としてはクラスメイトは女性のほうが多い。結果的に、なかなかそれらのグループに混ざりこむことの難しさを感じる面もありました。(もちろん僕個人の性格的理由もあると思います)

さらに、言語はずっとバリアになります。授業中の発言や議論、情報の処理能力、レポートの記述。入学の基準はIELTS6.5であったり、7.0をもっていれば日本人的には十分英語を話せるとしても、自分が本当に考えていて、伝えたいことを普段日本語でやっているのと同じように情報処理して、他人に理解してもらうにはIELTS9.0くらい必要なのかもしれません。
世の中には、構造的なバリアによって本来の能力を発揮できない、または正当に評価されないことに悩んでいたり苦しんでいる人たちはたくさんいると思います。
「留学」というむしろ恵まれた経験で、しかも期間が限られて終わりが見える中にいる僕が、そのような方の境遇と「同じ」といったら「わかったような口をきくな」と怒られるかもしれませんが、構造的に不利な立場の一端でも一次的でも身を置くことができるのは、特に医師にとっては大切な体験かもしれません。 

・議論や話題の文脈を知ることができる

医学や科学、政治や社会運動などの流行りの話題や情報は欧米発信のものが多いです。そのため、こちらで生活してみてはじめて文脈や議論の「必要性」に感覚的に納得できることがいくつもありました。
いくつか例をあげると、

  • 健康のために、ベーコンやソーセージなど加工肉の摂取を減らすことが推奨されること:日本にいるときには「たしかに安いソーセージとか健康に悪そうだよね」とは思っていました。でもそんなに頻繁に食べるものでもないし、減らすとしてもそんなに減らせないよね、と津川先生の本を読んだときにも思っていました。ただイギリスに住んでみると、ベーコンとソーセージの食べる量も頻度も段違いで、特に食費を安く済ませようと思うと食べざるを得ません。これは加工肉の摂取の減らし甲斐があると納得しました。

  • ヴィーガンやベジタリアン:宗教的理由や健康上の理由、動物福祉など倫理的理由、気候変動対策などいろいろな理由で菜食主義などの食生活をしている人がいることは理解していました。気候変動対策の文脈rから肉食量を減らすというのは一定の説得力をもっていると個人的にはもともと考えていましたが、イギリスやヨーロッパの人たちの肉の食べる量をみて驚きました。鶏を昼ご飯一食で0.5-1羽食べたり、ちり取りのような大きさのステーキ肉を食べていたり…日本人が手羽元3つとか150gのステーキとか食べているのが誤差のように思える勢いです。しかも魚食や大豆食はあまりないので、加工肉含め意識しないとほぼ毎食動物肉。たしかにこれだけ動物を食べていたら、環境負荷もすごいだろうし、動物福祉も気になるし、肉食のいろんな弊害に注意をしようという気持ちになるかもしれません。しかも、たまには肉の脂ではない食事をしたくなったり、そのほうが健康によさそうな感覚を覚えるのも納得です。

  • 一方で、日本では菜食主義などは「なんだか意識の高い変わった人がやるもの」というようなイメージもまだありますが、こちらでは全く珍しいものではないこと、どのレストランでもベジタリアンメニューがあること、味に影響がないなら不必要に肉由来成分を使わないことがデフォルトになっていること(ベジタリアンらへの構造的バリアになる)は驚きでしたし、これがinclusiveということなんだな、と実感しました。

  • 環境問題への対応:例えばプラスチックの不使用。日本でも大事なことですが、こちらの空気が乾燥していることや食事内容の文化的な差によって、日本よりも脱プラスチックがしやすい面はありそうです。また家には冷房がついていないところが多く、夏場は特に日が長いので、夏場の電気使用量や暑さに対する対策への意識は全く異なると感じます。逆に言えば、イギリス人のほうが日本よりも夏場の熱波などをダイレクトに受けるので気候変動/温暖化への実感は強いのかもしれません。

  • 一方で、ヨーロッパの土地は平地が多く、太陽光パネルを設置するにも、風車を設置するにも、洋上風力を設置するにも、圧倒的に有利であることにも気が付きます。日本だと、このような再生可能エネルギーの普及に地理的な障壁が存在します。これを同じ土俵で議論することが果たして公正なことなのか、僕には少し疑問があります。同じ話で、こちらは冷涼な気候なので、草も木も虫も全然いません。それだけ除草剤や殺虫剤の使用は少ない農業が簡単にできるでしょう。これも「持続可能な農業システム…」などといったときに考慮すべき背景としてあることに気づきました。

  • 関連して言えば、アプリで電車のチケット一つとるにも「もしバスや自動車を利用していた場合と比較して削減されたCO2排出量」が表示されたり、日常の意思決定の場面一つ一つにCO2排出量を意識する仕掛けがされている点も興味深く感じていました。

  • 結局、気候変動にせよ人権にせよSDGsにせよポリティカルコレクトネスにせよ、現代の議論のテーマは欧米の文化的背景と密接にかかわっていることが多いので、日本国内だけで些末な議論をしていても本質的ではなく、なにを学びとるべきで、なには欧米的文脈の中だけで成立することなのかが読み取れないし、実際そのような日本国内の議論は多いように感じます。

・寛容な、inclusiveな設計文化がどういうものか感じられる
先の菜食主義のところと全く同じですが、多くの場面で「マジョリティではないひとが普通に生活できる/参加できる設計」が自然となされていることに気がつきます。ベジタリアンなどの各々の食習慣がいっしょにテーブルを囲めるメニュー、それぞれの宗教に必要な設備やスペースと理解、そして同時に異なる民族や移民の存在への理解。アレルギー表記の徹底。教会や城郭などの古い文化的施設のバリアフリー化、地方の小さなマイナー博物館のバリアフリー化、高齢者が思い思いにカスタムしながらのるシルバーカート。子どもが騒いでいても「そんなものだよね」とみんなで笑ってむしろ子供といっしょに遊びだす大人たち(もう少しちゃんとしつけをしてもいいのではないか?と日本人的には思う場面も正直にいうとあったけれど)、スーパーの前にいるホームレスに日常的に小銭をあげる客や彼ら顔見知り友達になっているスーパーのスタッフ。買い物客の子供は親にいわれてホームレスに小銭を渡しにいっている。人間同士だけではなくて、犬が電車やバス、パブ、空港にいることにも寛容でみんなwelcome。(もちろん食料品店など分けるところは分けられている場面もある)公園ではカモやガチョウ、リスをみんな愛でている(野生動物との適切な距離や餌やりの問題は別に存在すると思う)
人間だけではなくて広く動物植物まで含めて「健康でマジョリティ側にいる成人」以外の存在が、ともに生活できるように配慮された設計がされていました。これは、実際のルールや物理的な設計という表現型だけではなくて、文化のような裏打ちこそが重要なので、現地で生活することで初めて感じられるところだと思うし、医療関係者/福祉関係者/公共政策や行政関係者には必要な経験だと思います。
もちろんイギリスには社会階級の歴史や植民地帝国主義にルーツをもつ他民族の存在など、問題のある暗い面もあるのですが、そもそも「異なるものの存在」を認識していない日本社会よりは健全な気もします。
多様なひとがいるということは、必ずしも心地いいことだけではなくいろいろな日常的な対立も必ずはらむことですが、そのようなことを含んで、日本のような完璧主義で潔癖である社会とは異なった、寛容で緩い社会の設計思想があって、それでも十分に社会は回っていく(しかも先進国として仮にもやっていける)ということは知っておくと、みんなもっと気楽になれるのではないか、とも思います。 

・中国/インドの存在感や日本では感じ取りにくい国際関係を感じられる

日本にいても情報のアンテナを張っていれば、ほかの国の情報や情勢を知ることはできます。
ただ実際に彼らの存在感を感じると、GDPでインドに抜かれることを実感をもって納得できると思います。(これは先のクラスメイトの構成も関係します)
中国やインドの人口とイギリスやヨーロッパでの存在感、特に中国人でイギリスへ留学できる層の人々の裕福さは驚きます。もちろん全員ではありませんが。
特に、中東やアフリカ、中南米での出来事は日本にいると正直遠い国の出来事に感じることが多いですが、ヨーロッパ諸国との地理的な近さ(というかほとんど地続き)と歴史的経緯を含めた関連の深さ、それが国際関係や情勢と強く関連していること。
逆に、イギリスにいると、日本や東アジアの国際情勢は遠い出来事に感じること。
同時に、以前にガーナ留学したときも同様でしたが、イギリスにいると中国人や韓国人など東アジアや東南アジア出身の留学生と接するとなんともいえない「仲間や近い関係のひとといる安心感」があることを自覚します。それは日常的にもそうだし、中国系移民のおかげでアジア食材やアジア料理にありつけることの感謝もあるし、さらにMPH学習内容でも「患者の意思決定」や「家族の意思」「コミュニケーション」というような文脈では明らかに文化的背景を共有していて、むしろ欧州とは最終的に共感しきれない要素があるのだとも再認識しました(国の制度設計などの部分では、当然中国よりイギリスと共有する部分が多い場面もよくあるのですが) 

すこし話題はずれますが、留学に来ている同級生たちのそれなりの数が、イギリスに研究者または公衆衛生専門家として残ろうとしているのも驚きました。
ある授業の中で「人口統計でみればこんなに先行きが暗い日本にどうして帰るの?医師でMPHなんだったらそのままイギリスへ移住したほうが幸せじゃない?あんなに災害も多いのに」とクラスメイトに言われ、はっとしました。ある意味、その通りだとも思ったし、そういう風に日本がみえているのだと。
逆に、彼ら自身、それぞれの出身国からそのような思考回路でイギリスへ移住しようとして、そのキャリアステップとしてMPHが利用されている面もあるのだと初めて気づきました。 

・時間をしっかりとることができる

イギリスの大学院修士課程は1年です。その分、予定やタスクが詰め込みであるといわれますが、なんだかんだいっても所詮は学生身分です。臨床医より圧倒的に時間があります。
昨年GRIPSにいたときももちろん大学院生で時間的には余裕がありましたが、イギリスに来るとバイト程度ですら臨床医として仕事はできません。なおさら時間があります。
旅行、読書、考え事…様々に使えます。
30代でゆっくりしてどうするんだ、という意見もあるかもしれませんが、
医師として病院勤務しておかしくなっていた生活リズムと常識、仕事観を一度リセットできました。
まともな生き物として自然なリズムで生活することを再認識できました。
皮膚炎もよくなり、白髪も明らかに減りました。
読みたかった本もたくさん読めました。 

さらに言えば、妻としっかり時間をとっていっしょにすごし、いろんなところへ旅行へ行くこともできました。こんな時間はなかなか取れないし、貴重な、大切な機会を得られたと思います。

・ヨーロッパ周辺の旅行にいける

これは留学のメリットか…?と思う人もいるでしょう。
真面目っぽい理由付けもできますが、まずは単純に「旅行に行きたい」という話から。
日本からヨーロッパへ行こうとすれば、ちゃんと観光するなら1か所7日程度往復含めて必要になります。削っても5日程度は必要でしょう。つまり夏休みなど使っても1年に1か所いけるかどうかです。さらに航空券代も馬鹿になりません。
金銭面、体力面、時間面でいろいろなところへ旅行へ行ける機会などライフプランを考えれば、かなり限られた期間しかありません。
イギリスにいれば、西ヨーロッパだけではなく、中近東/地中海/アフリカ北部も近いです。 

せっかくどこか海外へ行くんです。
受け入れるほうの国々も、ただそこで学校と部屋にこもって勉強するだけではなく、それらの国や地域の誇れる面/自慢したい面/見てほしいポジティブなところを、みていってほしいと思っていると思います。
また、仕事をやめて慣れない外国へついてきてくれた妻には感謝しかないですし、せめて外国へきてよかったと感じてもらえるようにできるだけいろんな旅行へ行きたかったという思いもあります。
自分自身もいろんな国へ行ってみたかったのもありますが、そういう理由も含めていろんなところへ行きました。
別の機会にも書きたいのですがが、海外MPHというとなにか華やかで、ハードルの高いことのような印象を受ける方もいるだろうし、実際SNSなどではそのような発信も多いですが、日本の「公衆衛生」と「Public Health」は異なる内容なので、もっと多くの方に気軽に、楽しみ半分でも留学してもらえるとよいな、と思っています。 

・日本のよさを知る

前半では、イギリスのよさ、インドや中国の勢いなどについて書きました。
留学や旅行などを通じて、逆に日本の強味/よさ/望みを再発見できました。
とかく日本にいると、高齢化/人口減少/地方の過疎化/腐敗し硬直化した政治/不況/赤字財政/国際的地位の低下…などなどとにかく暗い話題が多く、もう国として落ち目であるという刷り込みをされます。
しかし、良くも悪くも、サービスも一つ一つの仕事の完成度や熱心さ、清潔さも、日本はとても高いです。
それを「ガラパゴス的な過剰なサービス」「感情労働の搾取」と批判することもでき、もっと「質をさげた」「安い賃金相当」の仕事にみんなで平均をさげることもできますが、こういう良さは良さとして認識する視点があってもよいと思います。賃金として経済価値にあらわされる価値だけが価値ではないという道。
また、いろいろな問題はありますが、仮にも人権概念があり、民主主義と自由主義で政治が運営され、資本主義で経済が運営され、それを非欧米/非コーカソイドが運営し、さらに一神教ではなくプリミティブな宗教/信仰が残っている。そういう数少ない国です。
そのような日本の貴重な立ち位置も、現在ある日本社会の内容を考えても、まだまだ落ちぶれてはいません。むしろ日本人が「日本はもうだめ。全然先進国なんかじゃないよ」なんて言っていても、そんなのは嫌味にしか聞こえないでしょう。 

諦めて開き直って、努力しない立ち位置を選ぶのは簡単です。どこか外国へ高飛びして自分だけ得をしようとしたり、日本の中で自分とその周囲のことだけ狭い世界の中で勝ち逃げしようとしたり、諦めて斜に構えて冷笑したり、俗世的/近視眼的な享楽にふけったり…そういう姿勢のひとや言説が増えていることに、強い苛立ちを僕は感じています。
日本のテレビや国粋主義的なひとにありがちな「日本スゴイ」という話は論外ですが、卑屈になって諦めて楽な道を選ぶよりも、それぞれ良い所、悪い所、それらが絡み合う難しい所を直視して考えていきたい、という話です。
外国から学ぶべきところは多くありますが、一方で日本の強味を再認識することも、海外留学で重要な要素だと考えます。
(後編へ)

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