医療が「きれいな近代」になっていくのはいいけれど。
医師の働き方改革も専門医制度の標準化も専門ごとの分業も必要なことではあるんだけど、理性主義に偏っていて、ほかの分野が「近代」にたどったことをそのままたどってるだけにみえる。
現在、医局講座制や医師会のような前近代的なシステム=封建社会的文化が明文化されないまま幅をきかせているから、近代化されること自体を否定するものではないが、一概に「きれいな」「合理的な」システムになっていくのがよいとは思えない。
例えば、救急外来と集中治療や病棟管理をわけて研修する、別部門として運営する、という意見には理ある。それぞれに集中できてより質の高い管理ができることは容易に想像できる。働き方改革とも整合する。
一方ロングタームの予後予測能力のようなものが落ちることが弊害として考えられる。ERで診療した患者が、その先ICUや病棟でどのように治療されるのか、自宅に帰ったあとにどのように生活するのか、それへの想像力を欠いたER診療は片手落ちだ。それはICU含めほかの立場でも同様。
「ローテーションすればよい。経験を積めばよい。」という意見も聞こえそうだが、ローテーションで各分野の連続性を学習する場合、「ある一人の患者さん」の経過をみることはできない。代替可能な「病をもつ症例」としての連続性を学ぶのみだ。
また組織としての、縦割り的な弊害は実際に経験する。同一の病院内で、となりの部署であっても、別部門となれば互いへの想像力は徐々に落ちていく。「お隣」だからこそ起こる問題もある。
このような近代化によって抜け落ちる部分は言語化されにくい要素。
患者や病や医師の能力は連続的な変数で、離散的なものには当てはまらないものがあるし、言語化できるものにのみ着目すると解像度が不足する。こういう考えは「古い」とも言われそうだけれど、僕としては一周回って「近代化」のその先を先取りしているつもりだ。
せっかくいまの前近代的な悪弊を変革するなら、
例えば「研修の仕方はいろいろあって、それぞれ一長一短だからといって、今進む、分業化、働き方改革の実践を批判するのは行き過ぎた相対主義だ。理想は理想としてあって、着実に時代を進めていくべきだ」というような議論まで、働き方改革でも、分業でも、専門医制度も、一足飛びで進んでほしいけど、現状まだまだ3段階くらい前段階。
本来的に一番ナラティブであるべき「人生の価値」を尊重しようと「正しい方向へ」向かおうとした善意の活動、例えば入院時にチェックシート的に事前指示をとるとか、の結果、全くナラティブではなくなることなども象徴的。
そして一方で、行政部門やシステム作りを担う者や、現場に近い立場なら部長や管理職は、そういった「近代化」の問題点や拾いきれないナラティブの存在までわかった上で、あえて医療の「近代化」「ポストモダン化」を進める必要がある。おそらく実際の中の人は「必要悪」もわかってあえてやってることはたくさんあると思う。
例えば、最近だと「社会的処方」とか行政としては言葉足らずなだったり批判があるところはある程度承知の上で、promotionしていくことが役割として求められている。
働き方改革や専門医制度など批判は多いが、抵抗する側も「必要悪」を心得ないとスルーされてしまうだけかもしれない。
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