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勝手に応援しているだけなのに

朝起きて目覚まし代わりにTwitterをのぞいたらこんな記事が上がっていた。

震災から10年という朝、26歳の誕生日という朝。
同い年のアスリートという以外全く接点はない、あるとすればふたりとも、好きなこと(フィギュア/サッカー)のためなら足の1本や2本くれてやって構わないぜと言わんばかりの時代がかつてあったことぐらいだろうか。
基本的にただ私が好きで長いこと応援している、そんな彼等の言葉で寝惚けた頭が一気に醒まされた。


昨日の試合は散々だった。
今季のリーグ戦初スタメンだというのに、練習中にチャナが怪我をしてしまったことが影響してか、試合が始まった途端いかにも連携が取れていない隙間を見図られたような失点を重ねて、1点を返すも連敗となってしまった。爽快な勝ち方をしたホーム開幕戦とは対照的な内容と結果では、「勝った時にいた選手」と「負けた時にいた選手」のサポからの評価はそりゃあ見事なまでに違うのは致し方ない。

「あの選手がいれば」「あの選手を使えば」
それは多分間違っていない。サポーターの私もそう思う。
間違っていないんだけど。選手ファンの私はそうも思う。


長く応援しているといろんなところを見る。
いいときも悪いときも。
健康なときも怪我のときも。
見ているこちらは、親でも友人でもなんでもないから困ったときに声をかけられるわけでもなく、目につくかどうかわからない大きさの旗を振ったり、たくさんの声援の中の一部になることしか出来ない。今は声援が出来ないから拍手の一部になることしか出来ない。その他大勢の一部になって勝手に応援するしか出来ない。

そんなふうに勝手に応援しているだけなのに、今日のように選手たちの言葉にひどく心を動かされることが少なからずある。応援しているのに応援されているような気持ちになる。


応援する、って本当に面白いことだ。
赤の他人に突然思い入れをして、その人を見続けている記憶は「あのときはああだったな」「このときは」って自分自身の人生の景色に時折伴走者のように寄り添ってる。悔しい思いをすることも、嬉しい思いをすることも、頑張れということも、全部。


私はこれからも勝手に応援してる。
その中であなたが、あなたたちが、しあわせだと思う時間に巡り合うことができたらいいなと思う。氷の上で芝生の上で、あなたがしあわせだと思うとき、間違いなくわたしもしあわせだと思うから。そしてそんな人は、自分以外にもとてもたくさんいるだろうと思うから。


深井くん今日はお誕生日おめでとう。
羽生くん今日は素敵な言葉をありがとう。
人を幸せにしたぶん幸せであれ。


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