見出し画像

流れ者

過去(2018年)に書いたものです。お気に入りがUSBに眠っていたので、起こしてみました。時代は2004年秋。
男子生徒→図書館司書、という気持ちで書いています。


 排気ガスも人口も少ないこの町では都会よりも空気が澄んでいる。とはいえ、最寄り駅から十五分ほどで県内では都会の街に出ることができる。三十分に一本という早いとは言えない頻度で。都会より田舎が好きという変わり者はこの町にたどり着く。のどかな風景といえば聞こえがいいが、単にじいさんばあさんが多いだけ。オレはなぜここにいるのか。確か、流れに身を任せた結果だったと思う。
 オレは建物の中から外を見ていた。午前七時と三十分、朝早くからご苦労なことで、外にはいかにも運動好きな奴らが思い思いに体を動かしている。もうすぐ冬に差し掛かろうとしている時期に運動しなくても。オレは彼らよりも高い位置で上着の下に着たシャツをグイッと伸ばした。手の辺りを風がサッと通った気がしたからだ。カーディガンではないので思うように手を隠してはくれなかった。途中でつっかえて、手の大部分は見えている。窓の外ではオレよりも低い位置で掛け声を上げながらボールをパスしたり、キャッチボールしたり、走り回っている奴がいるのに。オレときたらシャツで手を隠そうと挑んでいる。気温とかではなく、オレと外の奴らとの温度差を感じた。
「おはよう、ムラサキくん。なにやってるの?」
 コツコツ、足音とともに五センチほどのヒールを履いた女が挨拶する。とっさにシャツを握っていた左手を離した。黒く艶やかなストレートな髪がさらりと、女の動きに合わせて前に垂れてくる。少年の顔を覗き込んだからだ。
「別になにも。あと、オレの名前は村崎だから」
「ふぅん。なにも、ね。いいじゃない。ムラサキもムラザキも似てるんだから」
 女は少年の答えに引っかかりながらも受け流す。人の苗字を似ているからと気にする必要はないと笑う。鞄から鍵を取り出し自身が使用している部屋を開けた。どうぞ、とオレを招き入れる。その部屋は女の仕事部屋だ。同職者はいないので、女だけが使用する根城である。
 失礼しますと体を滑り込ませた。修復が必要な本と新しく選書した本たちが八畳ほどの部屋に敷き詰められている。本と少し埃っぽい匂いに包まれていた。クリーム色のカーテンに光が射して、明るいようで遮られているため薄暗い。女はデスクに置かれている、ページの千切れた本をオレの胸に押し付けた。
「これお願いね、ムラサキくん」
 本当の苗字を呼ぶ気はないようだ。いつものことなので、オレは一回訂正するとそれ以上言わなかった。女はスーツの上着ポケットからタバコを取り出した。流れるようにそれを口に銜える。反対側のポケットからマッチを取り出すと、シュッと擦る。手元がポッとオレンジ色の光が灯った。息を小さく吸込みながら火を近づけるとタバコから煙が上がった。室内は本と埃とタバコの匂いが混ざる。
「なに?」
 じっとタバコを吸う一連の動作を見ていたオレに尋ねる。きゅっと細い形の整った眉が上がる。毎朝ここを訪れる度、女の動きに見入ってしまう。視線を逸らせないのだ。毎回、同じように尋ねられる。だから、オレは
「……不良教師」
「図書館司書教諭は教師じゃないのよ、ムラサキくん」
 唇から離されたタバコの煙を見上げながらいつも通り答える。オレが中学生だった二年前には図書室に特別先生はいなかった。高校に入学した去年、目の前の先生は学校に来た。オレと同じ学校二年生だ。
 毎朝同じ会話して、オレは視線の手元の本に移す。物理教室から借りてきたのか背もたれのない丸イスに座る。中身は何も入っていないに等しい通学鞄を床に乱暴に置いた。乾いた音しかしない。膝を机代わりに本を開く。名も顔も知らないけどこの学校の生徒が読んだ本は、文字と文字の間に亀裂が入っている。一箇所ではなく、何箇所も見受けられた。
「本が可哀相よね。はい、フイルム」
 接着透明フィルムと呼ばれるフィルムをオレに渡す。これは千切れたページを直すやつ。本が可哀相とは思わないけど、先生がそう言うならそんな気がする。タバコは右手から再び口に戻っていた。生徒から寄せられた図書のリクエストに目を通している。オレは渡されたフィルムを亀裂に合わせて張る。本と埃とタバコの香り、音楽には運動部の朝練。タバコだけが異質で、少年の心を刺激する。
「先生、タバコって美味い?」
「ええ、とっても。ムラサキくんは煙草に興味あるんだ」
 オレに背を向けていた先生が振り返って笑う。ルージュでピンク色に主張された形がよく薄い唇がきゅっと上がる。しゃべるため離されたタバコは誘われるように元に戻る。先生が小さく息を吸い、吐く。香りと共に煙がオレの顔に直撃する。苦く、目と鼻を突いた。思わず咳き込む。
「まだ、ムラサキくんには煙草は早いわ」
「誰だって、タバコの煙が直撃したら、咳き込むだろ!」
 抗議するも、先生はオレに背を向ける。大人と少年の差、壁を、つくるみたいに。それ以上話すつもりはないらしい。急に壁なんかつくるなよ。不満を感じるも拒絶に気づかないふりをして、オレは黙々とフィルムを張る作業を続けた。
 チャイムが鳴る。部活をしていた奴らは一斉に校庭を後にして、教室に向かう。オレもこの八畳にいるタイムリミットだ。持っていた本を先生に返す。オレの手で戻した本を受け取ると、愛おしそうに本を撫でた。
「ありがと。ムラザキくんは、器用で丁寧にしてくれるから助かるわ」
 先生の礼にオレは曖昧に笑った。大人じゃない少年は女の言葉に踊る、流れ者。

画像は、ぱくたそさんから。