キュビズム
キュビズムも突然出てきたわけじゃなくて、
ずっとあったから出てきたわけで、
ずっと、いろんな形や動きが合わさって1つの形が捉えられてきたわけです。
反対に、これが正解の形だという様に他の形を許さないところに、模倣性があると思うわけです。
ですが、俗と聖ではこの意味合いが変わってきます。
部分から全体へ繋がれないのと同じで、模倣から聖へは繋がれないわけです。
模倣が堕ずれるところに、個性と唯一性が在るわけです。西欧ではキリストが1との仲介者であり、同時に1以外の何者でもなく、ですから、1の映しとして父と子なわけで、真宗的には、弥陀が罪を犯すということになるわけです。聖は言い換えれば数学みたいなもので、他を許さないところがあるわけです。部分は一旦否定されなければ全体と繋がることはないわけです。