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笹原和也がCGアニメーション監督になるまでの経緯

質問箱の質問に答えたら長文になったので、笹原和也がCGアニメーション監督になるまでの経緯を書いてみます。

笹原がCGと出会ったのは、武蔵野美術大学でした。ですが、入学して1年ぐらいは、絵を描くのも好きじゃないし、何をして良いのか分からなくてサークル活動(空手など)ばかりしてしました。そんな時に、恩師であり、「日本のコンピューターグラフィックスの父」と呼ばれる、故・金子満(かねこ・みつる)先生の授業で、プレイメーション(のちのアニメーションマスター)というCGソフトを触ったのが、大きな転機となりました。このソフトにのめり込んだ俺は「これなら俺は世界に通用するかもしれない!」と世間知らずが故に思い、ドンドンのめり込んでいくことになったのです。

余談ですが、美大には通っておりました。が、4年通って単位を全然取れてなかったので、4年で辞めました。今思えば学費を無駄にしたと本当に思います。バカでした。お父さんお母さんごめんなさい。

さらに余談です。美大受験に合格するために2年間も浪人しまして、この時学んだデッサンや平面構成(グラフィックデザインの基礎練習のようなもの)が基礎になっているなぁと今でも思います。立川美術学院という美術予備校でしたが、もう30年前の話です。(もうそんなになるのか!!)
 
大学に行って学費は無駄にしましたが、大学に行ったおかげで、金子先生に出会い、CGを仕事にするキッカケを与えて頂きました。今思えば、金子先生の事務所にアルバイトでもないただの学生が寝泊まりしていたんですから、懐の大きな会社ですねw。俺が金子先生の事務所に出入りしていた時は、初代プレイステーションのデモ機が開発会社に出回ってる頃でした。
 

当時は今みたいに技法を教えてくれる情報がなかったので、俺だけでなく、クリエイターのほとんどは自分で情報を集め、研究して、自分で試行錯誤して、映像表現技法を考えておりました。なので、稚拙なものもたくさんありましたし、俺も稚拙でした。(とくに俺は他人の作品を研究するのが苦手でしたので技術的に遠回りしました。)

俺の恩師である金子先生には、チャンスはたくさん頂きましたが、金子先生の専門はシナリオでしたので、CGの技術を教わることは特にありませんでした。なので、俺は誰かに師事してCGを教わった経験はなくて、ほぼ、独学です。

最初は人から学ぶことが苦手でしたが、少し賢くなってからは、時にはクライアントのテクニカルディレクターさんから、時には才能ある部下から、技術を教わって、時には、実写映画の手法を真似して、技術を蓄積していきました。そして、それは今でもやらないといけないことだなと思います。

そして、すっかり書くのを忘れてましたが、俺が当時、CGディレクターをやれていた大きな理由は、会社、チームを持っていたからですね!俺の会社運営はとても稚拙なものなので、あまり人様に語るようなものでも無いのですが、チームを持っていることはディレクターとして仕事を請ける際に、大事な要素ではあると思います。

(質問にあったのでお答えすると)この仕事に資格は要りません。資格は要りませんが、この人に仕事を頼めば、適切な価格でサービスよく良いものを作ってくれる(できれば売れる)、という評判がないと、仕事にありつけない仕事でもあります。

ビリー・ザ・キッドの活躍を描いた映画「ヤングガン」にこんなセリフがあります。

男は毎日、自分をテストするんだ。
テストをやめちまうと腕が鈍る。
そしたらやられる。

この言葉をいつも肝に銘じて仕事をしております!!
世界一!!

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