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フリン・ウワキ・バイシュン

キリスト教やイスラム教は、同性愛を”悪魔の行為”と忌み嫌い、差別や迫害の対象にしてきた。仏教は、同性愛を否定も肯定もしない。仏教徒が守るべき五戒(Pañcasīla)の3番目は「不邪淫戒」だが、同性愛は邪淫にあたらない。

Kāmesu micchācārā veramaṇī 
sikkhā padaṁ samādiyāmi.
私は「淫らな行為をしない」という戒めを受けて守ります。

不邪淫戒は、直訳すると、
 Kāmesu(諸々の欲において) 
 micchācārā (間違ったこと、違法行為は)
 veramaṇī (しません)
という意味になる。

仏教では、同性愛について、本人の業によって肉体と心にギャップが生じたと考える。同性愛者を否定したり、差別したり、病気扱いすることは決してない。社会の一員として平等に扱う。在家仏教徒が不邪淫戒を守る場合は、「パートナー以外との性行為を慎む」「不倫しない」というシンプルな意味になる。

人に最初から性欲がなかったなら、性行為もなく、子孫は現れない。性欲とは、子孫を作らせるために与えられている麻薬のようなもの。性欲という麻薬をみだりに使って、人生を台無しする人々がいる。人間だけが、「性欲をみだりに満たして遊びたい」という気持ちになる。感情のままに生きて、肉体に極力依存して、肉体の刺激以外は何もいらないという気持ちにもなる。性欲に溺れたら、人格向上も、心を清らかにすることも、正しく生きることも不可能になる。

人間の遺伝子に書き込まれているので、性欲はどうしようもないこと。しかし、性欲を満たしたなら、次に「子孫を育てなくてはいけない」という義務が現れてくると憶えておこう。性欲は、子孫を正しく育てて社会に送り出す義務を果たす覚悟を持ったうえで満たすべきもの。人間の娯楽の一部だと勘違いしてはいけない。性欲はその裏に重大な責任を伴っていると知ったうえで行う性行為は、「正業(不邪淫)」なのだ。反対に、生まれてくる子供に対して責任を持たない気持ちで行う性行為は「邪淫」になる。

人間社会には結婚という習慣がある。結婚とは、信頼関係で結ばれた人間同士の、心と心の分かち合い。二人揃ってがんばって子孫を育てるために欠かせない習慣だ。夫婦の性行為は、子供が生まれても生まれなくても、邪淫にはならない。お互いに心配する約束があるからだ。たとえ結婚という儀式がなくても、二人が互いに約束して同居して、生まれてくる子供の面倒も正しく見るなら邪淫にはならない。もしその国の法律が許すなら、一人の人間が何人かのパートナーと一緒に結婚生活することもできるが、それも邪淫にはならない。ポイントは「子孫を育てる責任を持ちなさい、その苦労を受けなさい」ということ。

夫婦は、お互いに心配し合い、責任感を持って子供を育てたり、親戚関係や社会関係を共にしたり、死ぬまで相互に面倒を見たり、精神的に落ち着く居場所を築いたりする、大切な人間関係だ。欲の感情に惹かれて相手の信頼を裏切る行為は、大変な悪行為になる。仏教では「売春」を一概に悪いものとは見ておらず、金銭と引き換えに性的サービスを提供しているだけだとクールに見る。しかし、性的サービスを受ける側が既婚男性の場合は、大問題になる。夫婦や家族の関係に関わる事柄について当事者の権利は五分五分だ。自分の妻の許可なしに、単独で行動する権利は認められない。既婚者の男性が女性を買う行為は、明らかな不邪淫になる。

妻以外の女性と遊ぶ夫は、その行為によって妻の存在を貶め、子供を粗末にしている。性欲に駆られた女遊びで、どれほどの人間が不幸を味わっただろう。長い間苦労してやっと獲得した地位も信頼も、女遊びのせいで一瞬で棒に振ってしまう。他から脅迫されて、金品を要求されるなどのトラブルも招く。平和に、安穏に生きていられなくなる。性欲とは、子孫を作らせるために与えられた麻薬のようなご褒美。実際には麻薬と同じで、楽しみより苦労の方が多い。性欲を管理せず、性欲に溺れると依存症になる。智慧がまったく成長しなくなる。智慧を開発せずに動物と同じレベルの精神状態でいるなら、仏教を学ぶ意味もなくなる。在家仏教徒は、性欲は麻薬に等しいと理解して、性行為には子孫を作って育て上げる重大な責任が伴っていると覚悟する。性を遊び道具にして、自ら墓穴を掘ることはしない。

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