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平凡なサラリーマンがFIRE(経済的独立と早期退職)に至った経緯と現在の関心事

 40代前半でFIREを実現した(安全マージンと仕事への興味のため、もう少し勤務予定)という私の経歴に興味を持ってくださる方が時々いらっしゃいます。
 一方で、仕事関係の知人には、なぜターゲットも定かでない美術関連記事を公開しているのかと尋ねられたこともあります。
 このあたりの経緯について、自己紹介がてらプロフィールを作成いたしました。長い話になりますが、もしお時間がありましたら、ぜひお付き合いください。

■ 会社のために、力いっぱい頑張り、落ちこぼれ社員になる

 私は地方の某国立大学の理系学部出身です。私の大学は、就職市場で注目されるような大学ではありませんが、研究機関としての質は高いことで知られています。私の在学中に私の所属学部の某教授が、なんと、ノーベル賞を受賞しています。
 一方で私は、試験の成績は文系科目のほうが良く、興味関心としてもそちらの世界に未練がありました。なので理系と文系をまたぐ領域で仕事がしたいと考えて就職先を探しました。そしてたどり着いたのが、某メーカーの研究機関における特許・知的財産の仕事です。

 特許を取るという仕事とは、ごく大雑把に言うなら、「エンジニアさんが科学の言葉で語るアイディアの本質を見つけ、法律の言葉に翻訳して弁護士さんに説明する仕事」です。さらに「マーケティング部門と連携して、特許の排他力がビジネススキームに組み込まれるように工夫を凝らす」という側面も持ちます。要するに、理系スキル・文系スキル・ヒューマンスキルを有機的に連動させて、会社の収益が上がるように手と頭を巡らせる、私がやりたかった仕事です。新卒早々にして、「好きを仕事にできた」ことになりますね。
 もちろん、私は力の限り頑張りました。誰より早く出社して、誰より遅くまで仕事し、「さるやま君は家に帰っているのか」と同僚に訝られたこともあります。昼食を食べる時間も惜しく、サンドウィッチをつまみながら本を読んで勉強していました。

 半面で、特許の仕事は実はいくらでもサボれる仕事でもあります。エンジニアと弁護士のミーティングをアレンジして、噛み合わない話をぼうっと横で眺めているだけでも、期限が来ればそれなりの書類は作成されます。ビジネスのことなど考えなくても誰にも怒られませんし、その特許がゴミだったとわかるのは自分の定年後かもしれません。
 私のイメージでは、特許の仕事は「無人島で宝石を探すような仕事」です。いつか救助される日を信じて、鑑定スキルを高めて、価値のある原石を見出して磨く日々。そんな中で、救助など来ないと割り切って、適当な石を拾って日がな一日寝て過ごす者が残念ながら時々あらわれてしまいます。
 それでも私は、他人の事など関係ないと思っていました。今思えば青臭い限りですが、私は力を尽くして、会社を通じて世の中を良くしたいということだけを考えていました

 そんな月日が流れ、私たちの世代は、大きな昇進を控える年齢になっていきました。しかし、結論から言えば、残念ながら私は昇進レースから取り残されてしまいます。企業というのは少なくとも経済的には株主のものなので、究極的には「株価が上がる人事こそ『正しい』人事」です。研究でなく収益率の高い事業に人件費を投入するという場面もあるでしょう。現場でも、どんな上司にプッシュされるのか、そもそも上司が部下の昇進に関心をもつかというのは運次第です。
 そして、気づけば私以外の同僚の全員が昇進しているという状況になっていました。傍らで居眠りをしている元同僚の上司は、私よりも何百万円も高い年収をとっていました。それでも私は、「私にできる精一杯の誠実な仕事をこなすしかない」、「私の力が足りないなら、もっと勉強して有能になれば状況は変わるかもしれない」、そう思って思いつく努力を片端から積み重ねました。

 そのころから、食事をとっても味がしなくなりました。味がしないと食事は驚くほど億劫になります。ハンガーノックで自分の手が震えているのをみてはじめて自分の空腹に気づき、面倒くさいなと思いながら目に入った食べものを口の穴に詰め込むという生活が続きました。私は身長162cm、普通にしていて体重は55kgあたりですが、みるみる体重が落ちました。
 そして体重が40kgを割ったころ、逆恨みかもしれないけれど、自分の中に静かな怒りが降り積もって、会社や資本主義そのものが大嫌いになったのだと、ようやく認めることができました。

■ 自分のために、安易に結果を求めて、悪徳商法に嵌まりかける

 私は一度、転職経験があり、同職種で日資系と外資系の二つの会社に勤めたことがあります。一方では手痛い挫折を味わいましたが、他方では実は順調な昇進も経験しています。しかしそれでも、会社・資本主義に対する前述の失望感は変わりませんでした。なぜなら、「株価しか興味がない株主」と「株主の駒として運次第のおこぼれにあずかる社員」という構造に変わりはないと思えたからです。こんな奪うか奪われるかの世界は、もうたくさんでした。
 とはいうものの、資本主義は現代社会をこれほどまでに発達させたドライビングフォースであり、私の望む「豊かな」生活は資本主義を前提とするしかないことも理解はしていました。

 そんなとき、会社の後輩からある話が舞い込みます。彼は「ある個人事業主からビジネスについて学びながら副業にトライしている」と語りました。さらに、私が望むなら「その個人事業主を紹介できる」とも言ってくれました。今思えば、悪徳マルチ商法の会員がカモを釣るテンプレートのような言葉ですね。しかし当時の私は全く無知でしたし、自分の運命を選べるようになるためなら何からでも学ぼうと思っていました。なので、後輩の手を握らんばかりに感謝して、「是非その個人事業主を紹介してほしい。副業をトライしたい」と頼み込みました。

 少しだけ言い訳させてもらうなら、当時は副業の選択肢が少なく、ネットの情報も今とは比べ物にならないほどプアでした。まあ、だとしても、「副業」の内容もろくに理解せず、「個人事業主」とやらに学べば収益が発生すると考えたのは、射幸心に駆られた愚か者の思考というほかありませんね。カモられて当然だと思います。
 実際のところ、後輩の持ち掛けてきたビジネスは「マルチ商法をベースに発想したビジネスで、特商法の定義上は連鎖販売取引に該当しないものの、カモから搾取することを徹底して追求した、倫理的に問題のあるスキーム」でした。
 後輩の名誉のために補足しておくと、彼は射幸心に駆られていたとはいえ半分被害者のような存在であり、私に話しかけるにあたって悪意はなかったであろうと私は信じています。なので私は彼を恨む気持ちは全くありません。

 要するに当時の私は、「奪うか奪われるかの世界など嫌だ」と思いながら「安易に奪う側に回りたい」と考えていた訳ですから、認知的不協和から当然ストレスを蓄積していきました(全く同情の余地はありませんね)。本業の仕事の時間をやりくりして、後輩と一緒に自称個人事業主の洗脳セミナーを受けていましたが、無理やり作った笑顔の裏では自己矛盾に身を捩っていました(もちろん、全く同情の余地はありません)。

 そんなある日、どうしても洗脳セミナーの不快感に耐えられず、仮病を使って中座し、ある美術館の美術展を訪ねました。美しいものにふれて、自身の不快感を洗い流したくなったのかもしれません。明治の近代日本工芸の美術展でした。その美術展である作品が目に留まります。確か尾張七宝の小品の壺だったと思います。
 覚えず立ち止まるほど奇麗でした。青磁のような地に丸山四条派風の藤と小鳥が銀線で描かれていました。作者は不明。それでも、学芸員さんもこの小品の価値を認めたようで、他より少し丁寧なキャプションがつけられていました。七宝は手のかかる工芸です。この壺を作った無名の職人は、誰に見られずとも誠実に生き、尊敬すべき作品を残したのでしょう。そして長い時間を経たものの、それはちゃんと発掘されて学芸員の目に留まったのです。

 それに比べて自分は。私は唐突に自分の心映えの醜さに気づきました。展示室のガラスに映る自分の姿に耐えられなくなって、慌ててトイレの個室に駆け込み、声が漏れないように自分の手をかみしめて泣きました。こんな世の中を汚くする人間は世の中にいないほうがいい、このトイレに自分を流してしまいたいと思ったことを、今でも覚えています。

■ 何のために生きているのかわからなくなる

 私には悪徳商法の才能は無かったようで、幸い私から被害者を出すことはありませんでした。また目が覚めて手を引くのも早かったため、経済的なダメージも大した額ではありませんでした。とはいえ、当時私は30代、いい年をして、向き合って当然の困難から逃げて安易に結果を求めた自分には心底失望しました。圧倒的にリテラシーが低かったことも問題ですが、それを高める努力を怠ったという点が最悪でした。カモられて当然の人間だったと思います。

 汚いゴミを掃除して世の中を少しだけきれいにする方法を、私は一つだけ知っていましたが、そこに踏み切る胆力はありませんでした。
 その結果、私はどこにも向かうことができず、無気力になります。当時、会社で私は、どういうわけだか微妙に出世して中間管理職になっていました。いくらか年収も増えましたが、努力が実ったという実感はなく、ただ運がよかったのだろうという感想しか持てませんでした。

 そんなある日、私は「いつまでこんな人生が続くんだろう、もし今、何もかも投げ出してお金が尽きれば『一つの方法』の踏ん切りもつくのだろうか」と考え、表計算ソフトを立ち上げて、自分の人生のどこでお金が尽きるのか計算してみました。正確には計算しようとして、計算できないことに気づき愕然としました
 考えてみれば当たり前のことですが、お金を人生のどこで・どれだけ・どう使うか設定できなければ、いつお金が尽きるのかわかるはずもありません。「お金は稼ぐよりも使うほうが難しい」とは松下電工創業者の松下幸之助の言葉で、もとは「再投資先の選定は難しい」という趣旨の言葉です。しかし私には文字通り消費の仕方がわからないという意味で「お金の使い方は難しい」と思えました。贅沢な暮らしにあこがれはありませんが、自分の欲求のありかを失っていた私は、いつ何を成すためにいくら必要だということをうまく考えられませんでした。

 それでも、私は「消費のロードマップ」を描くことに夢中になります。今になって思い返せば、人生のどこで、どんな条件なら、いくらお金が必要になるか考えることは、自分が何のために生きているのか考え直すリハビリになっていたのだと思います。何もせずにただ三食を食べるだけの人生ならどうだろう、大災害がおこったらどう対処しようか、家族にお金の苦労をさせるのは絶対なしだ、海外移住など楽しめるだろうか、いや日本の美術館・博物館をもっと訪ねたいな、……。

 とりとめもなく考えては様々な「消費ロードマップ」を作成し、ついでに生活資金がショートしないような投資のポートフォリオもシミュレーションして貼り付けました。興が乗ったので、某企業を経営しているファイナンシャルプランナーに入ってもらい、実生活でPDCAを回しながらロードマップの精度を高めてゆきました。

 もちろん、どう頑張っても私の商才では走り切れない消費ロードマップもありましたが、いろいろ試すうちに、現実味があり、かつ私の欲求とマッチする「消費ロードマップ」が見えてきました。消費の在り方が定まれば、どのように資金を投入するかは、純粋に調査と合理的な判断と許容リスクの問題なので、迷う余地はほとんどありません。
 そして手持ちの資産を然るべく調整したとき、私は自分が既にFIREできていることに気づきました。40代前半ごろのことでした。

 もしFIREを目指す若い方がこの文章をお読みでしたら、「お金はあればあるほどいい」という考えは疑ってみてもいいかもしれません。どこまで行っても、お金は目的ではなく手段です。当たり前のことですが、「自分の欲求と照らして、自分の人生のそれぞれの年に、いくらお金があればいいのか」という質問に答えられなれば、どんな条件が達成されたときにFIREしてよいのか定まらないと思います。あなたが、どんな欲求をもつ方なのかはわかりませんが、自分の経験を思えば、普通に働いて最低限の資産運用ができれば一般的な定年の65歳以前にFIREできる人は少なくないのではないかと思います。

■ 遥か未来から私の背中に刺さるこの視線に恥ずかしくない行いを

 さて、紆余曲折を経て、「資本主義には疑問が残るので、資本主義を利用して、資本主義と距離をおくことにする」という皮肉な立場に落ち着いた私ですが、これからどう生きるかといえば、私がいいと思うことを勝手にやろうと思っています。我ながら当たり前の答えにたどり着くためにずいぶん回り道したものですね。

 私はビジネスも投資も素人ですが、お金儲けの本質は「量で見たとき人間の消費行動は高い精度で予測できる」という点にあるのだろうと想像します。このことを思うとき私は、「人間とは知恵のついた猿だ」という漫画のセリフを思い出します(山田芳裕、「へうげもの」、講談社)。優秀なビジネスマンや投資家が高精度の予測を可能にするのは、人の中の「猿」の部分を見出す技術に長けているからでしょう。
 しかしこれは、私のやりたいことではありません。私はどんなに儲からなくても、人の中の「人間」の部分を相手にしたいと思っているのです。

 一方で、どんな無名の人間の行いでも、それが美しく価値のあるものであるなら、未来のどこかで、きっと学者や学芸員が見つけてくれると私は知っています。近頃はコンテンツ供給過多と言われることもありますが、技術の進歩はサーチの精度を向上させるでしょう。
 もし少しでも私の行いの中に価値のあるものが含まれているならば、未来の学者や学芸員は私の希望です。未だ生まれてもいないかもしれない彼ら・彼女らの視線を私ははっきりと意識することができます。私は、遥か未来から私の背中に刺さるこの視線に恥ずかしくない行いをしたいと思っています。

 長い長い自己紹介にお付き合いいただきありがとうございました。要するに壮大な「好き勝手に生きる宣言」をしたわけですが、もちろん目の前の皆さんをないがしろにするつもりはありません。私の記事が少しでも皆さんの人生を豊かにしてくれることを、心からお祈りしております。


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