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悲しみからとったダシがこれほどうまいとは 連載⑤

過去をめぐるといつもどれもまやかしだったのではないかと思う。
あんなにつらく苦しい日々だったのに、もうほとんどのことを何も感じなくなって、ただ昔の思い出話のように遠い記憶になっている。

だけど、未だに心の中、深く刺さって抜けない棘は確かにあり、私は今もあのときの自分を責め続けている。そしてまた、私はまだずっと自分を責め続けなくてはいけないとも思う。彼女が許してくれるまで。

彼女、仮の名前をSちゃん、としよう。
Sちゃんと私は共通の詩の先生に指導を受けていた。
お互い、詩を書きはじめてそれほど日数は経っていなかったけれど、あの頃からSちゃんの詩の才能は明らかで、周りの人も彼女に期待をしていた。
私はというと、彼女に嫉妬して自分を伸ばせばいいものを、気楽な性格のまま彼女にライバル心も抱かず詩を書いていた。
羨望を抱くようになったのは、たぶん、自分の詩が今のままではいけないと気付いたときだろう。
そう気付いたのは、詩の先生に「抑制を持って詩を書いた方がいい」と言われたからだ。
それまでの私は自分の好きなように詩を書いていた。
言ってしまえば自分の欲のまま書いていたということになる。
それのどこが悪いのかと思う人もきっといるだろう。
確かに、自分の思いのままに自分の身の丈を書いていくのはきっと書いている本人は気持ちがいい。だけど、それを読む人はどうだろう。
言葉は絵画のように逃げ場がない。
言葉は絵画のように見る人(読む人)の想像を広げることが難しい。
想いを書いた場合、それが限定的で直接的な想いであるほどに、そして挑戦的で感情的な想いであるほどに、読み手は想像力を掻き立てられず、読んでいてつらくなる。
私はそういう詩を書いていた。
一方、彼女の詩はというと、読み手の想像力を広げるような詩をだった。
そこで私は自分と彼女の「差」を目の当たりにした。

それからというもの、私は毎日短くても長くても詩を一編書いて、詩集を出すための準備として、詩の先生に見てもらっていた。
その甲斐あってか、私の詩は幾分かマシにはなったけれど、良くなったと言えるのかは未だに分らない。

私は処女詩集を上梓する前にSちゃんも住んでいた街を離れて上京をした。
それが2020年1月のことだ。
コロナ禍がはじまり、私もSちゃんも身動きが取れず、会えない日々が続いた。
衝動的で自己中心的な私のこと。
東京で新しい友達に出会い、共通の時間を過ごすうちに、Sちゃんのことを「必要ない」と思うようになり出した。
その考えのせいで2年後も後悔をし続けるとは知らないまま。

私はある日、彼女にとてもひどいことをした。
その日の私は本当に最悪で、生きていることがほとんどもうどうでもよくなっていた。
私は彼女に「もう死ぬ」と言って何時間も連絡を途絶えさせた。
私が精神病であることを知っている彼女のこと。
どれだけ心配をさせたかなんて容易に想像がつく。
死ぬ気もないくせに私は彼女にそう告げたのだ。

翌朝、私は彼女に連絡をした。
彼女からは何通もラインが来ていたが、私はそれをすべて無視して、黙っていた。
ラインを返したあと、彼女は言った。
「大丈夫?」と。
そんなひどい仕打ちをした私を彼女はまだ心配してくれた。
それなのに、私は彼女の有難さをひとつも分かっていなかった。

彼女は私に距離を置きたいと言った。
私は自分のしたことを棚に上げて、彼女を加害者にした。
ひどいと思った。
それから彼女からの連絡は一ヶ月ほど来ず、私もまた彼女に連絡をしなかった。

そして一か月後、彼女からいつもと同じ感じで連絡が来た。
きっと彼女はこんな私のことを許そうとしてくれたのであろう。
その心遣いさえも私は突き返した。

私はいつも被害者のふりをする。
傷付けらたふりをする。
だけど、本当は私が人を傷付けているのだと、今なら分かる。

そのあと、彼女に何度か謝罪をしたが、彼女が私を許すことはなかった。
きっと私は彼女の中の超えてはいけない一線を超えてしまったのだろう。

今から謝って許してくれるのなら、土下座だって、何だってする。
身体を切ることで彼女が許してくれるのなら、やったっていい。
でも、彼女はそれを望んでいない。
私にもう興味がないから。

もう私から連絡をすることはないだろう。
もし、この先、何か彼女が困ってどうしようもないとき頼ってくれることがあったら、それがお金のことでも、何のことでも、引き受けるつもりだ。
例え、生死に関わることでも。

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