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悲しみからとったダシがこれほどうまいとは 連載⑧

聞かせて欲しいよ。
ダーウィン。

私の毎日はいつから息を吹き返したのだろう。
最近そんなことを考える。

高校3年生のときの私にはたったひとりだけ心を救ってくれる人がいた。
もう何年も前のことだ。
10年はとうに過ぎている。
その人と私は毎朝同じ電車に乗っていた。
その人はサラリーマンらしく毎日くたびれたスーツを着ていて、私はといえば偽物の制服を着て、どうしようもない日々をやり過ごしていた。
私とその人は毎日、電車のドア際に立ち、頭を預け、死んだように窓の外を見ていた。
もうどうでもいい。
今ここで車が電車に突っ込んで、死ねたならちょうどいい。
そんなことを私は思っていた。
毎朝、同じ場所に立っているその人のことを認識はしていても意識したことはなかった。

だけど、ある日、電車が急停止したあの日、私とその人は関りを持ってしまった。
急停止した拍子に進行方向に向かって立っていた私はその人側に倒れた。
その人は私の腕を支え、私が床に膝をつくことを防いでくれた。
私は態勢を直してその人を見た。
少しだけ香った煙草の匂い、近くで見た不安そうな瞳。
私はきっとあのときのその人の顔をこれから先何度も思い出すだろう。
まるで泣き出す前の子どものような顔を。

私はお礼を言ってその人から離れた。
その人も少しだけ笑って、私の腕を離した。
腕を離す直前にその人が私の腕をわずかに強く握った気がした。

その朝を境に、私はその人を意識するようになった。
いつも読んでいた本も、何も頭に入ってこなくなった。
私は毎朝、窓の外を見るフリをしてその人を盗み見していた。

女子高生の頃の私が単純であったこと。
きっかけさえあれば、誰だって好きになったかもしれないこと。
でも、あのときの私にとって、その人を意識することはたったひとつの救いだった。
他のすべてがまやかしでも、その人への好意のようなものは、嘘じゃないと信じたかった。

電車が急停止した日から2ヶ月ほど経った朝。
電車に乗るとじっとその人が私を見ていた。
背負い過ぎた全部の十字架が私の背中を押し潰して、私の心臓もろとも、潰れる感覚がした。
それでも、私は定位置について電車のドアが閉まるのを待った。
電車が駅を5つほど過ぎる間、その人はずっと私を見ていた。
あのときの私を見つめた泣き出しそうな顔で。

6つ目の駅に到着してドアが開いた瞬間、その人がまた私の腕を掴んだ。
そしてそのまま、私の手を引いて、電車を降りた。
抵抗する隙はなかった。

電車を降り、ホームに立ち、電車が通り過ぎても、その人は私の腕を掴んだままだった。
その頃には私ももう逃げることはできたのに、私はそのままでいた。

その人は、今にも泣き出しそうな顔をしたあと、眉間に皺を寄せて、私を抱きしめた。
私の息は、止まった。

身体を離すと、その人は踵を返して、逃げるように私を置き去りにした。

そのあともその前も、私とその人が会話らしい会話をしたことはたった一度しかない。

次の日、その人はいつもの場所にいなかった。
私は辺りを見回し、その人を探した。
遠くにその人の顔を見つけた。
近付こうにもその日はかなりの人がいて身動きが取れなかった。
電車が発車し、次の駅に着くとまたどかっと人が乗った。
潰されそうになった。
その中でも私はその人のことをずっと見ていた。

誰かの怒声が聞こえて、電車が急停止した。
もう私は倒れることも、助けられることもなかった。

「痴漢」

誰かがそう言った、
声の先を見ると、そこには、その人が知らないおじさんに右手を挙げられて、立っていた。

辺りがざわついて、その人は駅員とおじさんと被害に遭った制服姿の女子高生と一緒に電車を降りて行った。

私でいいなら、私にふれればよかったのに。
電車から降りて行くその人の横顔にそんなことを思った。
私でいいのなら、いくらだって、どこにだって、連れて行ってくれてよかったのに。

あとから、その人が痴漢の常習犯であったことを風の噂で聞いた。


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