大山倍達の「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」を知ったのは中学生の時だったか高校生だったかは忘れた。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と同時に良い事を教わったと思っていた。
最初のは宮本武蔵『五輪書』
「千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって錬とす」
のパクリだと知ったのはかなり後の事だがそれはどうでも良い。
どちらの言葉もあれから約1万7000日経過して思うところがある。
確かに大山さんも実感としてこれらの言葉を子どもたちに残してくれたのだと思う。彼がどんな人間でどんな事をしでかしていたとしても良いものは良い。
この間も言ったが、批判の対象になってくれた事は感謝しかない。
彼がいなければさまざまな事の考察が遅れていたと思う。
今の時代は情報過多で、そうでなくても昔から溢れるほどの情報があった。
その情報をたくさん詰め込んだところで数十年の経験とはやはり別物だ。
万日と言うと27年、約30年。
今の自分の歳からその期間を引くとちょうど結婚した歳以降でそのくらいになる。つまり夫婦の期間がそれくらいになる。
その間に二人の事、親の事、子の事、病気の事、仕事の事、金の事、友人の事、親戚の事、社会の事、様々な事を二人で解決してきた。それは簡単な事では無かった。だが、反対にこれらが無い人生は考えられない。
これらを一人でやっていれば確かに他の展開もあって今より良かった可能性も無いとは言えない。それを独身の時に考え過ぎて正直に言えば結婚に少し躊躇した。でもそれは杞憂だったと今は言える。その時想定した事はリスクばかりだった。でも実際には想定外の幸福がもたらされ、それらについては全く予期できなかったから。
僕は科学的思考が好きだがデータの不確かさや科学の不完全さを忘れたくない。なにしろ科学の基盤なんて砂上の楼閣のようなものなのだから。裁判で死刑になるような判決が出ても後でコロコロ変わる。
想定外の事がいつも起こる。人間はその過ちを繰り返す。繰り返しながら、少しずつ変化して行く。どうしてそれが分からないのかと思うが、人間自体と言うか、社会がそのように少しずつの変化しかできないように作られていいるのだと思うようにしている。
だから万日と言う単位の大切さがよく分かる。本を読んで暮らしているとたいそうな知識が付くだろう。でも実際には本を読むプロになるだけで何のプロにもなれやしない。現実逃避。その知識が本当に役立つ事なんて永久に無い。僕は実際にそうした人を見てきたし、自分自身でも実感している。
よく二十歳やそこらのプロスポーツ選手が金銭的に潤って、勘違いした事を言っている事がある。それは当然の事で、彼らが十歳の頃に始めた何かはまだ十年程度しか経過していない。何かは分かっても、ほとんどを分かるまでには至っていない。ましてや二十歳頃に始めた事なんて五十歳になる頃にやっとほとんどが分かってくる。
ところで、初心が千日と言うのも実感だろう。約3年の事を言っているのだが、何をやってもこの程度やらないと初心の域にも達さない。本を読むのが3年ではない、実践で3年だ。今はどうか知らないが、柔術の青帯も3年程度月謝をおさめないともらえなかった。そんなものだと思う。数年でもらえる黒帯なんて価値は無い。そもそも帯なんてものに価値は無いのだけど。少なくとも十年打ち込んだ証としての黒帯であって欲しい。
もちろん、ただ月日を過ごせば良いと言うものではない。柔術の本を読んだり、YouTubeや漫画を見て3年過ごせばそれなりの基礎はできるとは思う。でもやはり、実践は欠かせない。
それは観光と居住のようなもので、いくら練り込んだ計画で旅行したとしても、居住して見えてくるその土地とは全く違う。居住してもその立場によって見えてくるものがまた違う。
この辺りの事はまた機会を改めてじっくり語りたいが、読書とは観光のようなものだと思う。一生を観光のような傍観者でいても居住者のような現実は全く見えないで人生を終了する事になると言うこと。つまり空虚で無意味。
冒頭で「実るほど」も良いことを教わったと書いたが、それはその当時の事で今はその時の気持ちと同じではない。ミノルほど薬好き、じゃなくて、そこまで卑屈になる必要はな無いし、その生き方のスタイルは卑屈な者同士なら褒め称え合うスタイルなのかもしれないが、あまり好きなスタイルではない。フラットにどんな人とも接する事ができる人を尊敬しています。
金が絡んでもこれを自然にできる人はなかなかいない。
僕もまだまだ修行中です。
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