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奇想ノ壱「太秦は聖徳太子と秦河勝の夢の砦」

太秦は不思議な場所です。決して京都(平安京)の中心地という訳ではないのですが、そのくせ広隆寺や松尾大社などの有力寺社もあります。そもそも地名がウズマサと読めません。ここがなぜ太秦=ウズマサになったのか奇想してみましょう。

広隆寺に掲げられた変形菊花紋

 まず太秦で有名なのは広隆寺です(東映映画村という声もりますが、これは歴史奇想なので却下)。何といっても日本第一号の国宝、弥勒菩薩半跏思惟像が有名です(これは撮影不可です)。とても素晴らしい仏像で、半日でも眺めていられます。そのため見学前には嵐山電車太秦広隆寺駅すぐ横にあるうどん屋京富さんで美味しい卵とじうどんを頂き、しっかりと見学準備をする必要があります。


 広隆寺の寺内を歩くと、あちこちに聖徳太子の名がついた講堂や事績が祀ってあります。この寺と太子の深い因縁を感じます。この広隆寺を建立した秦河勝は秦一族の長です。飛鳥時代に推古天皇の摂政であった聖徳太子の最側近であり、また政治の懐刀でした。弥勒菩薩像の両側には太子の13歳の時の立像や、秦河勝夫妻の坐像なども置かれています。まるで太子と河勝が共に生きた時代を仏像世界で再現しているような光景です。


 広隆寺のお堂には実に多くの扁額が掲げられていますが、なぜか五芒星の額がありました。お寺に五芒星とは珍しいです。また勅願寺なので菊の御紋の提灯が下がっているのですが、何故かその菊の紋章の真ん中に<太>の文字が入っています。菊花紋にこんな変更が許されるのかと思いました。まるで天皇家(朝廷)ではなく太子個人に忠誠を尽くしているような紋章です。この広隆寺は太子と河勝の夢の砦だったのかもしれません。


 広隆寺を出ると目前に大きな交通標識があり「太秦UZUMASA」とありました。同行した友人がポツリと不思議そうに言いました。「太秦という地名はまるで、太子のと秦河勝のの字を合わせたような地名だな」
 ウズマサという音には昔から色々いわれています。ヘブライ語の「ウシュ(イエス)・マシャ(メシア)=イエス・キリスト」という意味の音だという見解を読んだことがあります。
 飛鳥時代、まだ辺境だったこの地に、太子と河勝は天国(イエス・キリスト)を作ろうと考えて開拓したのではないかと奇想しました。あるいは河勝にとって太子こそがイエス・キリストに思えたのか。今となってはもう誰にもわかりませんが。

木嶋神社は水に浮かぶ聖堂だったのか

 広隆寺の次に訪れたのが、少し東にある木嶋(このしま)神社です。別名で蚕ノ社とも呼ばれ、嵐山電車には蚕ノ社という駅もあります。ここは秦氏の氏神のような社です。この神社には不思議な鳥居があり、日本ではここにしかない「三本脚の鳥居」です。なぜ秦氏が三本脚の鳥居を祀ったのかは謎ですが、どうも日本的ではありません。

 秦氏のルーツは中国秦王朝の末裔とか、シルクロード西域の弓月君の出身ともいわれます。もっと西の中近東(イスラエルあたり)から来たともいわれています。さっきの広隆寺にあった五芒星の扁額やヘブライ語の痕跡ともなんとなく繋がります。五芒星はユダヤのダビデ王の紋章といわれていますから。

 この三本脚の鳥居のすぐ前に、まるで貯水池なような石で作った池跡があります。そしてよく見ると三本脚の鳥居の周囲も石垣で囲まれています。まるでかつては石垣囲いの池の中、あるいは明鏡止水の水盤の上に鳥居が立っていたような構造です。そして鳥居の前には水を導き入れる貯水池。


 きっと古代には、この三本脚の鳥居は水の上に浮ぶ鳥居だったのではないかと奇想しました。ここまで水の宮にこだわったのは、秦氏が西域か砂漠地帯の水に憧れを抱く国の出身だったからではないのでしょうか。

日本陰陽道はユダヤのカバラ秘術と同根


 神社の縁起によると、三本脚の鳥居の足元からは渾々と清水が湧き出していたとか。その水を(上の写真)貯水池に導き、禊をしていたといいます。この池の名前は「元糺(もとただす)の池」というそうです。
「んっ?」どこかで聞いたよな言葉です。京都に詳しい人は知っていると思いますが、高野川と加茂川が合流し鴨川になる場所には「下鴨神社」があります。この下鴨神社の前庭になる場所が「糺の森」です。そして下鴨神社が祀る加茂の神は、この木嶋神社の池から現在の地に移ったそうです。だから「糺の森」に対して「元糺の池」と呼ばれていると。
 つまり下鴨神社が祀る加茂の神「八咫烏(やたがらす)」(賀茂建角身命)は木嶋神社から飛び立って下鴨神社に行ったということです。八咫烏といえば三本脚の烏です。ここには三本脚の鳥居がある。何かが繋がっていくような気がします。
 もう一つ繋がるものがありました。日本には八咫烏を祖神としている一族がいます。陰陽道の宗家とされる「賀茂氏」です。陰陽師といえば有名なのが安倍晴明ですが、その師匠は賀茂忠行という人物。この人は賀茂氏の棟梁です。映画などで安倍晴明は五芒星を使いますが(セーマンとか晴明桔梗紋と呼ばれます)、五芒星は広隆寺の扁額に記されていました。つまり秦氏→(八咫烏)→賀茂忠行→安倍晴明と五芒星が繋がっていくのです。そして最初の五芒星はユダヤのダビデ王の紋章かもしれません。するとダビデ王→安倍晴明が五芒星で繋がります。何よりダビデ王(とその子ソロモン王)はユダヤの魔術である「カバラ秘術」の創始者です。安倍晴明が空に描く五芒星は、遠く中東の地からやって来たものかもしれません。

水の宮は大池に浮かぶ孤島の上に

 飛鳥の聖徳太子から、とうとう古代ユダヤのダビデ王まで奇想が飛んでしまいました。少々奇想疲れしたので、木嶋神社を出て神戸へ帰ります。神社からはすぐに三条御池の地下鉄の駅に着きました。
「三条御池?」今まで深く考えませんでしたが、御池という地名があるなら池があったはずです。奇想に頭がスパークしていた私は、そう思いつきました。しかも大きな(大=御)池が。このあたりには古代に大池があったはずです。そして木嶋神社は、その池に浮かぶ孤島に作られた宮なのではないかと奇想しました。だから孤島(このしま)=木嶋(このしま)なのです。
 帰宅後京都の古代地形図を探しましたが、発見できませんでした。どなたか知っていらっしゃる方、ぜひ教えてください。
 でも歴史の地を歩くと、それまで見えなかったものが見える気がして大変楽しいです。次の奇想旅にはぜひご一緒しませんか。

[補記]木嶋神社の三本脚鳥居は、日本でここでしか見学できないと書きましたが、実はもう一箇所見学できる場所があります。それは東京の向島、隅田川沿いにある三囲神社(みめぐりじんじゃ)です。この神社の一番奥に、小型になった三本脚の鳥居があります。なぜ東京に三本脚の鳥居があるかというと、京都にいた豪商の三井家が元々木嶋神社を崇拝していたようで、江戸に出るときに木嶋神社を勧請したようです。そのときに三本脚の鳥居も一緒に江戸に下ったとか(昔は京から江戸に行くことを「下る」といいました。「下らないもの」とは江戸に行けない(売れない)価値のないものという意味が語源です)。それ以来江戸で三井家は三囲神社を参崇し、現在では神社の入り口に三越のライオン像が狛犬のように鎮座しています。今でも三井家は年明けには参拝するらしく、私も新年早々に三囲神社に行ったとき、黒塗りの高級車がずらりと門前に並んでいるのを見て、吃驚したことがあります。


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