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続・《花の御所始末》感想 入江と北野

三月大歌舞伎《花の御所始末》の感想続き、重要な二女性編です。

前回(※) 同様、皆さんご覧になった前提でネタバレ全開で参りますのでお嫌な方は今すぐ画面を閉じてください。

 ※前の記事をご覧になってからのほうが、以下をお読みになるにあたって、「何云ってんだコイツ?」という戸惑いが少なくなるかと思います。⇩
 三月歌舞伎座 第一部《花の御所始末》感想|猿丸|note


一人は、雀右衛門丈演じる可憐な妹、入江。

グレた長兄へ気長に優しく接し、長兄と仲が悪い母をも気遣い、父を敬い、意地悪を仕掛ける次兄にも本気で怒りはしない。なにかっちゅーとすぐ女子修道院に入る(/入らされる)シェイクスピアレディによくそぐう。
結婚を経験した女性ではあるけど歯が白い。今は夫を持たぬ身として立場をリセットしてるのだろうなと思った。どうやら子も居ない。(★)
なので女子大生のように初々しい、万事控えめなこの淑女をして「出戻りの熟れた身体」と評するゲスさに次兄・義教のキャラが出てて冒頭から脚本がうまい。

 ★入江にも、義嗣にも義教にも子が居ないように話が進んでいって、時代を考えると一人や二人居てもおかしくないのだが、そうすると後継者問題がゴチャつくのであえてこの物語では親世代子世代の二世代に絞ったんだろうなと思う。その点、核家族的な(都会の)現代人の意識にもドラマがスッと入りやすいのかもしれない。平成や令和の家族に置き換えると、まだ子が居なくても違和感の無い年齢である。

この弱々しげでフェミニンな入江が、最後に、追い詰められた義教の前に毅然とした面持ちで現れて、初めて自分の意志を発揮して己の人生に終止符を打つ。その姿も言葉も、別人のように厳粛に立派で、銀の光を降りこぼすようなのであるが、思うに、義教はこの入江の台詞を聞いていない。耳に届いてはいるが、言葉が心にしみてはいない。
彼の心は入江の感動的な決意表明の前の、「ちい兄さま」に囚われている(とわたしは見た)。かつて自分を糾弾し、「二度と兄とは呼びませぬ」と泣いて断絶を告げた妹からの、八年ぶりの懐かしい呼称。今や自分自身を――傍若無人な利己主義を――取り戻した義教にとっては、五代足利将軍とその正室の間から正当に産まれた妹に、「兄」と呼ばれ、血を分けた兄妹と認められたことが重大なのであって、その妹が小さな胸に何を感じ小さな頭で何を考えようがまったく問題にならないのである。彼にとり、妹はそういうものだったからだ。
ために入江の見事な自害にも、義教はさほど動揺しない。妹が死んだ、ということに、些かハッとするくらいで、恐らく悲しみにまで至っていない。
亡き入江の胸から短刀を抜き取り(このとき、まだ温かい手にも触れた筈だが、さして感傷を覚える様子は無い)、妹への「せめてもの詫び」にその短刀で割腹すると言う。本当にそうだろうか? 義教に在るのは自分が傷つけた妹への「詫び」ではなくて自分を救ってくれた妹への「感謝」なのではないか。己に、正しく前将軍の息子であるという墨付きを足利家の内側から与えてくれた礼なのではないか。いま義教が手にした短刀は、由緒正しき将軍家の姫が大切に身につけていた、由緒正しき代物である。それで腹を切る者が、どうして将軍家の者でない筈があろうか。

最後まで、もとい、最期こそ、義教は本来の自分らしく逝った。

自ら血池の泥濘の中へ落ち込んだ義教という罪人の前に、銀白の糸を垂れて現れた一匹の蜘蛛が、入江という女性であったのだと思う。

人は蜘蛛の声を聞こうとはしない。


もう一人は、千壽丈演じる艶麗な美女、北野。

本名は明かされない。市井の遊女として咲き、宮中へ献上され、将軍の側室として歴史から消えた女性。
入江が(登場時既に乙女でなく、後に左馬之助と情を通じたと仄めかされてなお)清純清廉であったのに対し、北野は色欲や栄華に貪婪な女として対極的に置かれている。
人物像は、上演を重ねる中で少しずつ変化を続けていた。わたしの感じから云うと、おおまかに分けてこう。↓

第一期:女性の(肉体的・社会的な)弱さを出した、オーソドックスな歌舞伎の女性らしさ。眼前の人の死に対して驚きを見せる。

第二期:義教に吊り合う、時にはその上をゆく、我が身可愛さの強い悪女キャラ。悪辣・残酷な薄笑いをよく見せる。

第三期:悪どさが薄れて情が濃くなる。人の死に対して悲しみを見せ、義教へは庇護者というだけでない愛着を見せる。

……第二期の、ディズニー映画の女性敵キャラみたいな、濃い色のアイシャドウが似合うような、フェロモンムンムンで生き汚い北野もカッコよくて好きでしたァ~~~…… 井戸を抜け出て一目散にまろび逃げて、一条に先を越されて必死で追いかけてく終わり方もすごぉくヒトくさくてさぁ……。(その後、出てきた井戸を覗き込んだり後ろ髪を引かれたりして義教を思いやる第三期の北野⇩に泣かされたわけですが……。)

第一期の北野も、自分の意志でなく、権力のある男たちや運命に翻弄されて渦の中で揉まれるしかない女性、という様子が哀しくて、出来事への素直な反応に血が通って見えた。ハッ、と見開かれた大きなお目々が舞台映えして、今も記憶に焼き付いている。
どの北野もよかったよ……。

演出で、すごい(えぐい)と思ったのが、義教が父を斬り捨てて、その返り血を浴びた衣の胴へ、最前まで父に抱かれる筈だった愛妾の北野を抱くところ。血だよ!? 生血! ついさっきまで! 生きてイチャイチャしてた愛人の血液! そんな恐怖と嫌悪を喚起するグロテスクなもんへ顔を押し付けさせるデリカシーマイナス男義教の異常性! そして褥の上で一戦交えて切り替えた後は自分からはっしと顔を押し付けにゆくサバイバー遊女北野の強かさ!!
義教の着物がアレなら、寝所だってあっちこっち返り血が飛んでんでしょう……? 血の匂いが漂ってんでしょう……? そん中でめくるめいてしまう図がとんだデカダンよねぇ…… ギリシャ/ローマの神話や戯曲にありそうよねぇ……。
(でもここの北野が、ストーリー上都合のいい "淫蕩な女""計算高い悪女" ってだけじゃなく、力づくで引き寄せられて抗う中で義教の熱く滾る率直な「好きなのだ」の告白にハッ…と抵抗を止める描写が丁寧で好かったな…… 自分が生き残るために、より上に立ちそうなパトロンを選び取った嗅覚も確かに有ったと思うけど、男性としての魅力を感じてもいたんだよね……)

義教は、ずる賢くて酷薄な男だけども、生まれたときから母親に(兄が拗ねるくらいに)可愛がられ、将軍の父親にも目をかけられて側近の父親にもちやほやされ、周囲の誰からも大事にされて育った人間なので、精神の基盤のとこで「自分は愛されている(← 愛されるのが当然だ)」というキングサイズの甘えに疑いなく身を預けてると思うんですよ。だから、甘える対象(優越感を覚えられる兄、好きなように揶揄える妹、献身的にヘイコラする側付きの家来、何をしても許してくれる実の父、etc……)を次々と失う中で、ひそかに、甘える状態が当たり前すぎて自分でもそれと気づかなかったくらいにじわじわと着実に、精神のバランスが傾いでいっていたように思う。
一方、北野は、どんな前半生を過ごしたのか知れないけど身を売って生きるくらいには辛酸を舐めてきて、お坊ちゃん育ちの義教よりタフに精神が鍛えられていただろう。

義教が将軍の座に向けて昇りつめる際の邪魔者の排除が、まるで登る山道を塞いでいる大岩を根こそぎ引き抜いて蹴落としていったら実は山それ自体を削っていて、自ら足場を脆くぐらぐらにしていたような、そんな自業自得の悲劇性を感じる。
そして、そこに北野は関わらない。彼女は、結局、強いので。
人々の策謀に利用され、大きな流れに巻き込まれ、栄華すらも儚く散った北野であるが、彼女は誰にも見送られることなく、ひょいと話の横道に入るように、この物語から姿を消す。そのことで北野は生きる。大仰な物語を離れ、歴史の表舞台に記されない、下賤な者に戻って、人々に混じって生きることができる。

大局的にまったく違った生き方と性質を持っている義教と北野の、その違いが束の間鮮烈に閃くのが謁見の間の幕切れ、「なぜ泣かぬ」からの問答だと思う。
伸びゆく髪の端をザクリザクリと無造作に切り捨てながら道を歩むように、都度都度過去と決別してきた北野と、
切り捨てた筈の髪がとぐろを巻いて伸び続け、やがて足に絡まり、全身を押し包むように過去に蝕まれる義教。
その違いを肌で悟り、無意識の底へ沁みとおる違和感と深く強烈な孤独感が呼び起こす、身と心が引き裂かれる混乱と恐怖と絶望を、わたしはあの場の義教の昏い表情から感じて、ぼだぼだ泣いた。
(千穐楽なんか二階の西桟敷に座れたので、このときの歩み出す義教とその背を見守る北野の表情をほぼ正対で観ることができたのです……)


と ここまで文字を打ってきて、そうか、と思った。

北野は義教に寄り添い続けて、心も通わせ、しかし義教を救いは出来ず、
入江は義教から長く離れて、最後まで一度も心は通わなかったが、それでも救いになったのだ。

そして、いちばん近いところに居た二女性にすら、己自身を分かち合うことをしなかった/出来なかったのが、義教という男だったのだ。


好対照な二人でした。

どちらも、義教の物語に不可欠でした。



追記:


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