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《上州土産百両首》牙次郎の感想:がじのどじを腑分けする

※ヘッダーの画像はチラシからです。
 
 《上州土産百両首》を前に映像で見たとき(※リアルタイムではチラッと見ただけで「鑑賞した」まで及んでない)は牙次郎役が巳之助丈で、“一般的水準にまで機能的発達が達していない青年” という印象を受けた。他の人より発達に時間がかかるか、時間をかけても膨らむ容積のマックスが小さい、というような、個人の意思や努力がそのまま結実しにくい(/実を結ぶまですごくすごく時間も労力もかかる)タイプの特性を持って生まれた人、と見えた。そのため牙次郎の、ボディ年齢よりずっと幼く頼りなく見える雰囲気や、濁りなく純な人柄も、そういう特性と先天的に結びついたものとして目に映った。
 なので今月初日に菊之助丈の牙次郎を観たときに、『あぁこちらは発達はしている、機能は他の人と同じように備わっていて、ただ人柄や性質のためにこういうキャラの青年なんだ』と認識したのだった。
 しかし鑑賞回数を重ねていくと、だんだんと『……いや巳之丈牙次とは異なる部分で、やっぱりこっちの牙次も “先天的に欠けている” 人なのではないか?』と思えてきた。彼の「どじ」がケアレスうっかりで済むレベルでなく、”病院行ったら診断書が出る” レベルの不注意特性を持った人なのではあるまいかと。
 
 彼の(に限らないけど) 「どじ」を腑分けすると、①「身体の操作が不器用」と ②「気づく/思い出すべき事柄に意識が向かない」に大別できると思う。【蹴躓いて草履を飛ばす】【座敷で急に駆け出そうとしてつんのめる】【十手を帯に挟み込めないで取り落とす】は ①身体性のどじ で、【僅か二文しか持ち合わせが無いのを忘れて食事へ誘う】【足裏を拭う礼儀を失念して室内へ上がる】【すぐ傍に在る自分の紙入れを認識できず外へ出る】は ②意識性のどじ だ。
 この二つが交互、あるいは同時に、しかも頻繁に発露するために「何をやっても失敗ばかりで、ものにならねぇ」人物が出来上がる。それは果たして、牙次郎が「もっとしっかりする」と努めるだけで、つまりは本人の意識と努力で、カバーし得る「どじ」なのだろうか?
 
 この「どじ」に加えて、牙次に感じられるのは、金銭感覚の危うさだ。
 今出てきたばかりの他人の家に戻るという気まずい行為を「だっておいら、(それが無ぇと)一文無しになっちまうよ」の理屈で平然とやってのける価値観。正太郎だったら、そして恐らく与一や三次も同様の状況なら、戻って得られる二文と紙入れより、戻ることで損なわれる体面を気にして、そのまま見捨てて行くだろう。牙次には損なう体面なんてものがそもそも無いとしても、それよりも、”かねが有る” 状態になることが彼には大事に思えたのではないか。ゼロでない状態になれれば、それが一文でも一分でも一両でも、実はあんまり大差が無い。そういう意識で居るのではないか。つまり金銭の数字的な価値の上下を、実のところ彼は他の人々のようには分かっていないのではあるまいか。
 ゆえに、たった二文を「分けっこしよう!」と目を輝かせ、その無邪気な善意に胸を突かれた正太郎に礼を言われると喜色満面に「いいってことよぉ!」とはにかむ。よしてくれよこれっぽっちで礼なんか却って恥ずかしいや、なんて卑下は言わない。たぶん牙次はほんとに “兄貴と同じに自分も財産の半分相手にあげた!” と思ってる。彼の気分的には、二両と二文の価値の差が、行為の点で対等になっている。男らしくすっぱりとそう出来たことを誇らしく思ってるようにさえ見える。宝石を分け与えてくれた幼い王子に、その代わりとして自分の宝物のガラス片を差し出す貧しい子のように、傍から見たらまったく吊り合っていない行為を等価と信じて為せる精神。正太郎が心打たれたのは、二人が子どもだった頃の清らかな分け合いの記憶が蘇り、十五年の時を経てすっかり擦れてしまった自分に対して未だ汚れきらない魂を持つ牙次郎の在り様が尊く輝かしく見えたのだろうと思う。(実際感動的な場面であり獅童丈の礼の声でわたしも涙ぐんでしまう。) しかし、一両に対して一文を臆面もなく差し出せる牙次郎を、ピュアだね、等の一言で済ましてしまっていいのだろうか。
 勘次宅で手下の先輩に「おめえ、百両が欲しいんだろう!」と詰られて、「そうだ、欲しいんだ!」とぬけぬけ言ってのける大胆さ(とトンチキぶり)に小者仲間が動揺するが、「その百両をどうする気だ」「ともだちにあげるんでございます!」でまたどよめく。小遣い銭の額ではないのである。それをこうも簡単に、右から左へやってしまうと言い放つ。そのために命を捨てるとまで。百両は確かに庶民にすれば命を天秤にかけるほどの大金であろうが、牙次郎の言は突拍子が無さすぎて、まるで「大金」という概念だけを扱って、万人が喜ぶに違いないそれに熨斗をつけて贈りたがっているように見える。先輩連のどよめきにはその訝しみが窺われる。こいつ、百両という額がどれほどのもんなのか本当に分かっていやがるのかという。
 
 金銭感覚については印象が走りすぎてるきらいがあるが、総括すると牙次郎は、「手先や身体を動かすことにまったく器用でなく、注意力散漫で物忘れが多く、金銭感覚も鋭いようには思われない」人物ということになる。危なっかしい。一人で身を立てていくのがかなり難しそうな気がするし、正太郎もそう思っただろう。
 正太郎が言うように「人の下について」監督下で働くのが一番妥当なところであろう。ただ上記の性質によって日常的に失敗が多いことが予想され、気働きも利かなそうなので、勘次の配下でそうであったように、「愛嬌」を武器に「可愛いがられて」生きるのが最も無難であり、また生きやすさという点では “正解” であるように思われる。

 しかし牙次郎にとってそれが “正解” にならなかったのは、彼自身は決して、ただのマスコットやペット枠で生きる道は肯じられないという漢気のためであろう。
 彼は正太郎のような優しく強くかっこいい男に憧れ、自分も兄ぃのようになりたい、叶わぬまでも兄ぃに褒められるような、兄ぃに胸を張れる男になりたいと、そう願って勘次の家の戸を叩いたのではなかろうか。男伊達を見せるなら、侠客、鳶、角力、目明し。そのうち侠客世界は見切りをつけたし、鳶と角力は身体能力の面で無理だと判る。目明しなら。こんな自分でも、地道に真面目に場数を踏めば、意気と度胸で男として認められる日も来るのではないかと、その期待と覚悟を胸に一念発起したのではあるまいか。
 牙次郎は正太郎に「養ってくれ」「おいらの手を引いてくれ」と至極当然のように甘えはするが、誰彼構わず養ってもらおうとするのではない。本当に愛嬌だけで他人から飯を喰わしてもらって生きてゆくつもりなら、何も十年正太郎を待つことは無かった筈だ。正太郎への開けっぴろげな依存姿勢は、相手を身内と思っているからこその安心しきった甘えであり、またそのように甘えることが相手に許されていると確かに信じられるからこその全身全霊での負ぶさりであろう。
 牙次郎には、どじでも何でも意地があり矜持もあった。愛嬌(というのは場合によって道化のレッテルだ)が唯一の取り柄の無能者と誰よりも下に見られて尻尾を振る立場に就くのは御免だった。正太郎と再会する前の牙次郎だったらそれも受け入れていたかもしれない。でも今は違う。おいらは兄ぃの弟分だぞ、おいらの兄ぃの正太郎はきっと立派になっておいらに会いに来てくれるんだと、大声で言って触れ回りたいほどの誇らしさと自尊心を牙次郎は抱いてこの十年を生きてきたのではなかったか。
 
 なのでぽわぽわふわふわな頼りない菊丈がじを見るにつけ、「ウ゛ワ゛ッッかッッわッイ゛ィッッ!!!」て庇護欲を伴った叫びが魂から迸り出るのは事実なんスけど、『がじは果たして “庇護” されることを望むのだろうか? 正太郎でない人間にそうされたら、おいらはそんなに頼りないのかと傷ついて、馬鹿にするなと怒り出すのではないか?』 という懸念がキュッと後ろ髪を引くんですよね………(※これは「保護してあげたい!!」て仰ってる方を非難する心ではありません だって本当に守りたくなるんだもん……!!!!まだ産毛の生えてる天然記念小動物みたいな存在なんだもん……!!!!)
(あと余談ですが怒って拗ねてる菊丈がじなんてドチャメチャに観たいですね………)
 
 「おまえは人並みのことが出来ないんだからせめて愛想良くして可愛がってもらえ」「出来ないヤツは頭下げてニコニコして周りの恩情で生きていけ」っていう、作中で “常識” のある年配者が口にする理論は、実際社会で「そういうもんでしょ」って受け入れられてる認識だと思うんだけど、でも例えば現代日本で車椅子ユーザーの方に向けて同じことを言ったら「それはひどい」「本人の人格を蔑ろにしてる」とかって反応になると思うのね。

 牙次郎の、一人で暮らしを立てることの困難さ(※たぶん貯金もぜんぜん無い)は、現雇い主で後見人役の勘次親分も、同僚先輩たちも、離れて想像していた正太郎も皆わかってて、事件が起きてなかったら正太郎がとんでもない額の身銭を切って支援していたわけじゃないすか。見返りも打算も何も無く、金銭的に見たら純然たる自己犠牲で。
 正太郎自身がそうすることを願って、牙次郎としても今より暮らし向きを手っ取り早く確実に良くするにはそうしてもらうしか無かったわけだけど、でもそういう一個人の百パーセント善意によるサポートに誰か支援が必要な方を丸投げするべきじゃぁなくて、もっと広い、たくさんの人がシステムに関わる社会的援助が必要な人だったんじゃないかなぁ牙次郎は、と……
 世が世なら、正太郎一人が負担をぜんぶ背負うことなく、社会の仕組みにちゃんと収まって、牙次郎を生活させてゆくことが出来たんじゃないかな…… と、思っても仕方のない、ありえなかったハッピーエンドを思ってしまうのです。
 
 
ちょっとこれから録画しといた巳之助丈の牙次を観ますね。

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