《泥棒と若殿》歌舞伎感想

2021年2月の歌舞伎座第一部の《泥棒と若殿》、観てないうちにブロマイド見ちゃって、巳之助丈の若殿の、胡座でお寛ぎ時の際の、眉間の晴れやかさに「ウワッ “山本周五郎” だ…!!」とノックアウトされてしまい、買っちゃったんですよね… まさに “山本周五郎” を体現されていたんですよ… ほわりと仄温かい情やら可笑しみやらが。

で、そのあと席買って、観たら「伝九郎が親鳥のように無償の愛を…」ってツイッターでお見かけしたご感想がたいへんしっくり来た。
原作では35歳程度とされる伝九は、成信より年上だけれどせいぜい「兄貴」程度に読めたが、巳之助丈は高い声で演じたことで殊更に “若さ” が出、松緑丈との年齢差が、実年齢も加味されて明瞭に現れ、「疑似親子」のように見えた。
巳之助丈の線の細さが成信の腺病質な様子にうまく合い、白の着流しでただ立っているだけで美しかったー…。もうほんとに寄るべなくて儚くて、危ういような幼げがときどき浮かび、あぁこのひとは、母親とは一緒に居られたけど父親の愛というものはほとんど知らずに育ったんだったな、と原作を思い出した。
この成信ねぇ、酒も飲むしもう "成人" だけどひょっとしてまだ17歳とかか…?せいぜい大学生ぐらいだろ…?って思わせるようなやわやわしさがね…ありましたよねみっくん丈… 端麗でしたね… (松緑丈はお顔や上半身から丸っこいイメージ受けるけども足首から脛なんかスハァッと削げててキレイでしたね…)

原作で、"友情とも疑似家族ともつかぬ同世代の男同士の交感と結びつき" であったものが「疑似親子」に近くなると、伝九にすれば、家族の縁に恵まれず ”良き家庭” に憧れていた彼が、 ”理想の親” の姿勢を成信に向けることで夢を叶えた喜びが浮き上がる。
一方で、成信にすれば、父である「先代」の存在が原作より強くなる。「先代」が、長年負ってきた一国一城の責任の重さ、まだ年若い息子に「後を託す」しかない心残り、そういうものをきっと表方裏方問わず関係者の方々が、巳之助丈のご実父に重ねてこの舞台を作り上げてらっしゃるんではないかと外野は勝手に思っ(※以降の手記はぼたぼた落ちた涙の跡で滲んで読めない)

ほんで以下は妄想なんですけど、同居終盤の或る日、伝九がいそいそ帰ってくるんですよ。

(こういうの)

「ほらよ信さん、土産だ。甲州出の行商が来ててよぅ」て水晶の緒締 ↑ を渡して(※信さんには言わないけど、これを買うために伝九は給金を大きく前借りしました)、「何故おれに」って訊く成信に「かちっと硬くて、細っこくて白くって、きれえでよ… 信さんみてえだって思ってよぅ」て照れて笑うんですよ

成信は何日かそれを掌上で眺めて過ごすんだけど、別れの前に「おまえが持っていてくれ」って伝九に握らすんです。そうして「おまえはおれのようだと言ったが、おれにはおまえのように見える。芯が真っすぐで、無垢で、透きとおって嘘が無い。これはおまえにふさわしい。これを見ておれを思い出してくれ」って伝九の目をまっすぐ見て言うんです

…という架空エピソードが鑑賞中に湧いてぐじぐじ泣きました(アホか)
歌舞伎の二人は、生涯を終えるまで一度も会わないんだろうなと思って…(巳之助丈の成信はその覚悟が有ったよね…?)

伝九は看取られるとき(昨日書いた娘さんによって)水晶珠を手に握らせてもらうし、成信も後年、似た水晶珠を買い入れて、一人のときに静かに掌に乗せるんです。そういう妄想。


後日、DVDお貸しいただいた《野田版鼠小僧》を観てて、実の父親に遺棄された子どもを自分も見捨てることだけはできなかった勘三郎丈のスクルージ棺桶屋の擬似父ぶりに歌舞伎版の伝九が浮かび、観劇中は三津五郎丈を想起したのを思い出し、どっちも実の親父様でどちらももういらっしゃらないことを思い出してじんわりしました。

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