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芝のぶ丈の八汐きっかけで思うことになった、歌舞伎世界における「女」の話

※ヘッダー画像の写真は近代美術館で撮った岸田劉生のコレクションです。内容と密接な関係はありません。

 《伽羅先代萩》の八汐は(真)女方が勤めるべきお役でない、というようなお声を複数お見かけした。立役に比べるとどうしても、生々しくなりすぎるから、線が細くなるから、憎々しさの方向が変わるから、等がその理由だったと思う。
 どうして生々しくなっちゃいけないんだろう、というところからぼんやり考えてった結果、歌舞伎世界の「女」という像が崩れてしまう恐れがあるから、なのではないかと至った。

 わたしの識ってる数少ない演目の中で、八汐のような、立役が勤める女性の役というと思い浮かぶのは、《三笠山婦女庭訓》のいじめの官女、《身替座禅》の玉ノ井、《伊勢音頭》のお鹿、《釣女》の醜女。いずれにしても、おっかないか、外見的魅力に難があるか、その両方というキャラクターである。
 つまりこれを反転させた、脅威を持たず、外見的魅力を有する人物が、女方が勤める女性の役で、「歌舞伎世界の普通の女」であるわけだ。
 いうなれば上で挙げたような烈婦・悪妻・ぶすおかめは「歌舞伎世界の異常な女」であって、「普通の女」とはしっかり分け隔てられるべき存在で、本来「普通の女」である筈の(真)女方がこれらを勤めるとなるとその隔絶の壁が揺らぎ、あるいは壊れてしまう恐れが生じ、そのことを忌避したい幕内・見物双方の心の動きが、『八汐のような役はやっぱり立役が』という意見を生むのではないだろうか。

 幕内の方々も客席の九割九分くらいの面々も、舞台の上に居るのは(子役さんを除いて基本的に)全員が身体男性であることを頭で理解していながら、無理に認識修正を加えることなくごく自然に、女方さんは女性として受けとめて、演じ、また観る。例外として、普段立役の方が特異な女性を演じる際に、普段は自然と意識の外へ追いやっている『でも男性なんだよね』という前提が、今だけは出てきていいとばかりにぐいぐい前面に押し出される。「男性が女性を演じている」という、それ以前からず~~~っと変わらず存在しているメタ視点が封印を解かれ、全員に共有される面白みとして罷り通る。
 じゃぁその面白みって何なんだ、というと、「変な女」を楽しもう、ということになるのではないか。
 従順で控えめで美しい、そうした「あるべき女」から逸脱した女性は、陰気な悪であれ陽気な善であれ「珍しい存在」であるべきで、そうでなければ世界の秩序が崩れてしまう。たま~~~にひょっこり現れて、珍奇なものとして面白がるくらいでいいのである。
 「普通の女」である筈の(真)女方(の身体)が「異常な女」を演じると、その線引きがぐらつくのではないか。歌舞伎世界の、それを共有してきた現実の男性優位社会の、「女」の規範で包み縛って押し込めていた【本当の女性】性が、内側からむりむりと被膜を破って現れ出すのではなかろうか。おそろしくて、美しくなくて、それでも女性である「女」は世の中にたくさん、たくさん存在していて、その事実を意識したくない・認めたくない構造側が、境界を脅かす(真)女方によるそうした女性の役を封じる姿勢をとるのではないか。「夢」を壊さないでおくために。

 たぶんこうした論文や論評は既に世に在るのでしょうねと思いつつ。ひとまず現在の感想として。


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