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《ラ・マンチャの男》感想① 大河の先とサンチョ・パンサ

松本白鸚丈主演ミュージカル《ラ・マンチャの男》ファイナル公演、21日金曜の回を横須賀にて観ました。


今回、幸運なことに御縁が有りまして座ったお席が、最前列の上手ブロック、半円形に出っ張った舞台の右側から少し斜めに見る角度で、わたしの大好きな歌舞伎座二階東席に似ている……と思った。見下ろすか見上げるかの違いだけ……という感じ。その特殊な角度のため、歌舞伎で云ったら後見さんにあたる役者さんの動きが、真正面からは死角になるところさえも見届けることができ、後見さん好きのわたくしにとって最高の席でした……

(わたしの後ろの席の方々が、キハーナ/キホーテ/セルバンテスに対して「足取りが危なっかしくて付き添われてる」「イスなんか用意されててさ」みたいなこと休憩時間に言うてはったんですけども、歌舞伎で見慣れてると、"合引の支度が整いました どうぞ腰を下ろしてください" って後見さんがお知らせする動きなんか全年代で皆さん普通にされるので「おかしいですかァ!?」って後ろ振り向いて反駁したい気持ちでした。しなかったけど。)

(牢名主/宿屋の主を演じられた上條恒彦氏も、わたしからすると舞台の反対側に立たれることが多かったのでカーテンコールまで気づかなかったんだけど、あの方も、神父役の石鍋多加史氏に手を取られて歩かれており、そこで初めて御足が万全でないのを知ったのでした。劇中ではまったく分からなかった)


今月初頭、歌舞伎座の、紀尾井町親子の《連獅子》の後シテを観たとき、不意に痛感したんでした。実の父子の連獅子は、父御が元気でご存命で、かつ役者を廃業なさってなくて、こんなきつい演目をやろうと思ってくださらなけれぁ、客が観るのは叶わないのだと。いくら松竹さんや観客がかけたい/観たいと思ったところで、結局は役者さんの胸ひとつで、さらに「時間」という大きな流れが許さなくっちゃ実現しない奇跡なのだと、急に感じて、そのことが有難くて尊くて、ぐわーーっと泣いた。いろいろなものを潜り抜けてここに来てくれたのだ。勿論、松緑丈左近丈の個人の努力もそのひとつで。

その、数々の偶然や巡り会わせの結果として舞台が目の前に在るときの、まるで此処を目指して流れてきた太く輝く光の帯がまさに定められたとおりに眼前で重なる瞬間を目撃するような、この一点を目指して長い長い時間をかけてくれたものが今最高潮に達したような、そんな錯覚を確かな手ごたえとして見せてくれたのが、紀尾井町の《連獅子》であり《ラ・マンチャの男》であった。

染五郎時代の溌剌と力強い20代から、連綿と、でも常に新しくその時々らしい生命の息吹を吹き込みながらラ・マンチャの男を生きてこられた白鸚丈が、語られる老齢の紳士にふさわしい、寂びた肉体と豊かな精神をもって其処に在り、このときの白鸚丈を観せてもらうために今までの歳月は在ったのではないかと思われた。

役柄と役者の実存がぴったりと重なって、確かに一つの奇跡と見えた。円熟の舞台。

同時にそれは、白鸚丈おひとりの奇跡でなくて、関わっていらした皆さんすべての努力の結晶でもあって…… そうしてその中心で誰よりもこのお芝居に尽くして周りを照らしていらしたのはきっとやっぱり白鸚丈で……。

ありがたい。ここへ導いてくれた、この舞台が顕現することを許してくれた時間にも感謝を捧げたい。人にどうすることもできない流れだから。


従僕/サンチョ役の駒田一氏が、舞台にお姿を見せてるあいだ、旦那様が居ても居なくても、もう心底魂から旦那様が大事で大事で、という嘘偽りない心根がずっと見えている従僕/サンチョで、教会の権威を揺るがすような筆禍をさえ恐れぬセルバンテスを支える日々も、大変なことだらけの遍歴の旅を活き活きと突き進むキハーノ/キホーテに仕える日々も、どんなにか楽しかっただろうと自然に思えた。

だから主人のキハーノ/キホーテが死の床に就いてしまい、懸命に呼びかけ、また悲しそうに片隅へ座るサンチョの "旦那様が大好き" の心に、数日前に訃報を知った左團次丈と、師匠左團次丈が大好きでいらっしゃるお弟子さんたちの関係性が思い出されて生々しく重なって、泣かずにはおられなかった。


※今日、検索して出てきた2019年の駒田のインタビュー記事を幾つか拝読したのだけど、そのいずれでも一貫して丈を「旦那様」と呼称なさっていて、胸がじわんとなる。ラバ追いからラマンチャに参加なさって、床屋を経てサンチョになられた駒田氏に対して、おそらくあのお声で、敬語でお話しになる丈……!

https://okepi.net/kangeki/1546 ,
https://ideanews.jp/archives/77670 ,
https://ideanews.jp/archives/80338

「サンチョは旦那さまのことを愛していて、恩がある。とにかく、旦那さま(松本白鸚)の一番側にいる。」

「自分からやっと白鸚さんに話しかけることができるようになりました(笑)。ある時、……稽古場で色々と試してみたんです。そうすると、白鸚さんが、「駒田さん、稽古場なのでドンドン見せてください」と喜んでくださった。」

「役者でいる旦那様と演出でいる旦那様が二人いらっしゃって。旦那様(松本白鸚)から演出を受けているときは、誰よりも一つ先を行こう、新しいことをしようと挑戦されている姿を見ると、自分も頑張らなくてはと絶えず思わせてくれる日々です。」(いずれも駒田氏談)

駒田氏は、カーテンコールでさえも、舞台中央に進み出られた白鸚丈から離れた後方で、片膝をついて身を低くして、拍手の轟々と鳴るスタンディングオベーションの客席に向かって挨拶をなさる「旦那様」をじっとみつめて待っていて、そのお姿に、慈愛と敬愛と献身が見てとれて……。歌舞伎の後見さんたちに感じる、自分が支える役者さんへの敬意と奉仕精神、ひいては舞台というものへの愛に通じる気がしたんです……。


わたしはきっと最高に熟成された白鸚丈の「ラ・マンチャの男」を観られる幸運に浴せたと思うのだけど、同時にものすごく「ラ・マンチャの男」に無私の愛を向けた従者を観ることができたのだと思う。
ありがとうございました、駒田一氏。(文字打ってて思い出してぐしぐし泣いてる)



それから、これは非常に個人的というか自分の経験と現状に密接に関わるパーソナルな泣きポイントなのだけど、終盤近く、牢から慌ただしく連れ出されようとするセルバンテスが、「今から芝居をつくる」と宣言したシーン。そう、この人は、物語を紡ぐ立場に在るこの人なら、それが出来るのだ。どんなに絶望的状況であっても、限られた時間と空間の中であっても、最も適した方法で、在るべき架空の話を生み出せる。それに余人を巻き込める。その特別な力をもつ人なのだ。

そのことが羨ましくて、輝かしくて、穴が開くほど木綿の手巾をぎりぎり嚙みしめたいような羨望と、そんな気さえも光に焼かれて消滅するほどの圧倒的な称賛の念に同時に薙ぎ倒されて放心した。かっこいいのだ。物語を、つくる人は、わたしにとって、かっこいいのだ。



松たか子氏のアルドンサについても書きたいのでそっちを感想②にします。後日。


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