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《文七元結物語》初日初見感想一部

《文七元結物語》、大きく引っ掛かったことが二つある。一つは女房お兼の【女性性】で、もう一つはセリフの「神様」だ。

【女性性】

 いつもの歌舞伎の《文七元結》が『ダメだけど根は善人で憎めない長兵衛さんの話』であるのに対して、今回の《文七元結物語》は『根は善人だけどダメな長兵衛さんと長兵衛さんの家族と周りの人々の話』に思われた。云い換えれば、歌舞伎版は “長兵衛に始まり長兵衛に終わる話” で、いわば長兵衛をずっと追っていく接近したカメラで、今回のは “娘お久に始まり関係者の全景を含めた家族の話” で、だいたいカメラが高みに在って、俯瞰構図をとっている。
 なので、あぁ、主役の中年男をクローズアップした “あいつの物語” でなくて、いろいろな年代の様々な人々が顔を出す、下町人付き合い的ファミリー群像劇にしたかったんだな、と思ったわけです。
 しかし、それにしちゃ女房のお兼が、長兵衛に向かって【おんな】で在りすぎるように感じた。これは演じている方が実際に女性であることとは分けていいと思う。仮に男性の女方さんが同じようにしても同じ感想を抱くと思うので。なので "そういう脚本と演出にしたのが引っ掛かっている" だけです。
 事実を知って長兵衛に詫びる(と同時に甘える)仕草も、歌舞伎の枠内にしてはべたべたしていて、「女房」が「亭主」にする行為からは逸脱して見える。(まぁそもそも歌舞伎の女房は「結婚」なんて名詞を使いませんけど……。そこからも、歌舞伎が内包する時代性を飛び越えて、現代劇に近い感覚と表現を採用したんだろうなというのは察せられる)
 お兼がお久の実母でなく、長兵衛の後添いに入った義理の母、なのが強調されていて、するとつまり「お父さんの恋人」が「お母さん」になってくれたわけで(※お兼の言うには順番が逆ですが)、お兼と長兵衛の関係がそもそも独立した二人の大人に “なってしまい”、「家族」を取り上げたいという狙いの逆風になりかねない。手法として、あんまりよろしくないのでは……
 と思ってたので、夜の部も最後まで観て歌舞伎座の外へ出て、そこで初めてポスターを見て驚いた。
 恋人みたいじゃん。

地下鉄からまっすぐ歌舞伎座入るとこっち来ないんですよね.

 あれ? 「夫婦」の物語を描きたかったんですか?? そうなの? そうだったの???
 それにしちゃエピソードが弱い。お兼と長兵衛のやりとりは殆ど歌舞伎版に有るもので、オリジナル(だと思った)部分はお久を絡めた内容なので結局「家族」になってしまう。二人きりの絆や思い出が特に描かれておらず、正直、お兼と長兵衛がお互いのどこが好きで夫婦になったもんだか分からず仕舞いだ(※歌舞伎版なら殊更に恋愛要素を立ててないので「まぁ長年連れ添ってりゃそんなもんでしょう」みたいな視点になるのでどこに惚れたかとか気にならない)。
 なんだかなぁ。よく分からんなぁ。寺島しのぶ氏のご出演が見どころだからその亭主役も一緒にメインビジュアルに、ってくらいなのかしら。群像劇としちゃ好ましかったので観劇後のもんにゃり感が残ることになった。
 好かったんすよ、歌舞伎版より親切じゃなくてそのぶん廓で働く男衆のすれたリアリティが感じられた國矢丈藤助さんも、蝶紫丈と菊三呂丈の長屋のおかみさんたち(戸口の外に床几運んで離れないのカワイイ)も、つけつけと物を言うくせにホロリとしやすい(けどそんな弱いとこを人に見せまいとする)孝太郎丈角海老女将も、角海老の姐さんたちも。いくらでも膨らませられそうで、魅力的で。

「神様」

 もう一つが、付け加えられた「神様」。行きずりの見知らぬ若者に娘が身を売ってこさえた貴重なお金をぽんとやってしまう、それだけのことをして人助けをした長兵衛が神様のようだと、そのとき長兵衛に神様が宿ったのだと、そういうセリフが有った。
 ここで言われている、そして各人の意識に浮かぶ「神様」が、何も神道に則したナニナニノミコトであるとは思っていない。長兵衛さんが橋の上で文七に頼む「お不動様でも金毘羅様でもおめえが拝むときに娘のことを」みたいなセリフでも分かるように、要は、えらい存在であれば誰でもいいのであろう。そのへんのごっちゃな感覚は、実際に長兵衛の家の中に仏壇と神棚が備わっていることからも分かる。
 でもだからこそ、「お不動様でも金毘羅様でも」と神仏イーブンに発せられてるセリフがあるのに、最終的に「神様」を持ってきていちばん上に(勝手に)据えちゃうのは気が悪いなぁぁ、と感じるのだった。繰り返すけど宗教的に神道を上に見てるようで嫌だ、というのではない。でもそのキャラクターの信仰心という、わりあい価値観の根幹に在るだろう、無意識下において重要なものを、そこんとこへ持ってきますかぁ、ふぅうん、という気はするのである。
 あとはそもそも「セリフで言わんでもわかる(=わからせられる)ことをわざわざセリフにして言わせるのはセリフを発する者への表現力の見くびりで観客への不信用だ」みたいな意識がわたしの中に在るんで、それゆえの反発も込みだと思う。(例:映画プペ…⇩)

でした。
明日も観ます。

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