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《上州土産百両首》の三次の感想:羨み続けた男の話

 六月大歌舞伎、隼人丈による「みぐるみ三次」が強烈に後をひいて落ち着かないので書きました。
 以下は初日から五回くらい見た時点での感想です。お芝居が変わったらまた感想も変わるかもしれません。あと五回は観たい。
 
 三次という男は、悪事を飯のタネにしてることをちっとも後ろめたく思っておらず、むしろ真面目に働くカタギを馬鹿にして、抜け目無く立ち回ってチョロく稼げる奴こそ偉いんだと思ってるようなフシがある。
 
 彼がその主義・思考に至っているのは、一つには、三次の社会的弱みがあるように思われる。
 彼にはきっと正太郎のように、カタギになった際の職業訓練も学も無いだ。もしかしたら彼はそのことにコンプレックスを抱いていて、裏の稼業を離れてカタギと同じ地平に立ったときに何も持たない弱い自分に羞恥と屈辱を覚えることを予感している。そのためカタギの生き方を徹底して嘲ることで、カタギを食い物にする強者の立場で在り続けようとするのではないか。
 冒頭で、正太郎が、「板前の修業をした俺が、こんなになるとも思わなかった……」と自嘲を込めて零す言葉を、与一は同情と自省を浮かべたほろ苦い顔でしんみりと聞いているが、三次はてんで身を入れておらず、ニヤニヤと薄笑いで聞き流している。バカなことを言ってらぁ、これだから正太は甘ぇんだ。そこへ行くとおれぁすっぱりと割りきってる。おれのほうが裏街道の人間としちゃ正太よりも上に居る。その優越感を肴に唇を舐めている。
 「カタギがなんだ、盗人だらけの世の中になりゃぁカタギの奴らは日陰者だ」だったか、あのセリフから、三次が自分たち=裏街道の人間と、日向を歩ける普通の人々とを、二項対立として捉えていることが伺える。自分たちを日陰者になさしめているのはカタギの奴らだ。いわば自分たちはカタギから迫害を受けているのだ。しかしそんな言葉は口に出来ない。言えばこちらが弱くなる。だから三次は虚勢を張る。虚勢が虚勢と気づかれぬように。カタギはあくまで喰い物にすべき対象であり、自分たちは勝手気ままに甘い汁を吸える上位者なのだ。カタギになりたいなどこれっぽっちも思うものか。三次はその自己暗示に、コンプレックスの裏返しにすっかり染まって疑わない。
 
 そして二つには、彼の人間性の浅さに因るのだろう。
 与一や正太郎には、日陰の人間としての引け目がある。罪悪感がある。だから日向をゆくカタギの人々の迷惑にならないように、女子供など弱い者を獲物にせず、裕福そうな男を狙う。無粋で粗雑な手段に頼って堕ちることを良しとせず、そこには技術や遊戯性を重要視することで己の稼業の負の面をできるだけ薄めたいという意識が覗く。
 そうした、いわば "見境をつけた" 仕事のやり方は、三次には手ぬるく、馬鹿々々しく見えていただろう。与一が三次の仕事ぶりを評価しなかったように、三次も心の内では、悪党の格の点で、与一を低く見ていたように思われる。
 料理屋たつみで女中にべたべたとちょっかいをかける三次に、与一は渋い顔で「おめえは酒が入るとすぐそれだ」と苦言を洩らす。ここでの描写は、三次の酒癖が悪いとか、だらしない女好きだとかを示すよりも、彼の、他者に対して浸食するような欲望の持ち方と、埋められない渇きの示唆ではないか。料理を供される客の分を超えて接待の女性に誘いかける図々しさ、悪びれなさ。その奥に、面白くねえ、面白くねえ、と吐き散らし続ける暗い空洞が広がっているような。
 単に好色漢というわけでないことは、見目好いおそでに対して食指を動かさないことで察せられる。おそでが現れる頃には、三次にとって彼女はこの料理屋の、調度品や内装と同じく、カネとしっかり結びついた、付属品の一つでしかなくなっている(室内を見回す目つきの赤裸々な卑しさったら!!)。正太郎がやがてそっくり自分のものにする財産の一部である。
 あの時の三次の中では色欲よりも金銭欲が上回り、さらにいえば女性との接触で得られる肉体的快楽よりも正太郎を苛むことで得られる心的快楽のほうが彼には優先されるのではないか。三次の欲望の御し方(というか、”御さない”という主義)は、後の場での正太郎への強請りに通じ、二百両という大金を得てなお収まらない際限無い要求は、三次の最も欲しいものが決して手に入らないゆえの渇望に思われる。

 三次の望み。
 本当は、カタギになりたい、しかし、なれない。カタギになったら彼には何も無い。悪の道に生きるしかない。だから、ハナからカタギになど興味が無いふりをする。仕方なく、でなく、自ら好んで悪党をしているのだ、何故ならおれは悪党の才があるからだ、与一や正太郎よりも上の男だと嘯いて。
 正太郎のようになりたい、しかし、なれない。人を惹きつける魅力があって、職人として日向をゆける技能も獲得していて、今や金持ちの跡取り息子として迎え入れられようとしている正太郎が、羨ましくて仕方がない。だから上前をはねることにする。おれはさんざん利用してやればいいのだ、正太を苦しめてやれるおれのほうが優位な立場だ。もし正太が金を吐き出しきって落ちぶれれば、あるいは居たたまれなくて婚家を飛び出せば、また元の鞘に収まる道もある。
 そうして本当は、正太郎とまた義兄弟に戻りたい。腕のある与一と、腕のたつ正太。その二人とまた組めれば、シノギの利便が向上する上に、三次は内心で自分のほうが悪党としては上だと思って、二人を薄っすら下に見ている。暮らしぶりが落ち着くうえに、精神の安泰が保たれる。
 だから正太を強請ってやる。カネも吸い上げ、正太の足元も崩してやれる。こっちにしては良いこと尽くめだ。与一の兄貴には出来やしまい。兄貴は甘っちょろいから。おれが悪党だから出来るんだ。おれに才覚があるから、こんな芸当をしてのけられる。
 
 二百両を懐に、正太郎が「汗とあぶらで稼いだカネだ──」って言ってるときの三次さぁ──、『よぉし、出来るだけくッだらないことにばかすか浪費してやろう』って思ってると思うんだよねえ!!!!正太郎が真摯に真剣に、命を削るようにして貯めた大真面目なカタギの財であればあるほど、呆気なく、無価値に、何の尊厳も無く、ふざけちらすように溶かしきって、正太郎の努力と希望を愚弄し尽してやろうと暗い愉悦の臍を固めているんじゃないかと思うんですけどこれはわたしの心が歪んでますか???
 
 与一は、セリフにもあるように、自分はもう決してカタギになれないことを認め、明るいところへ浮上する道を諦めて、そうするしかない生き方を、寂しさも吞み込んでしっくりと受け入れている。だから自分とは違う、まだ正道に立ち返れる正太郎を気持ちよく送り出してやれる。
 三次はそれが出来ない。未練がある。正太郎にも、正太郎が選べる別の生き方にも、自分に有り得たかもしれないまっとうな生き方にも、それらを馬鹿にして見下していながら執着している。そして、そのことを受け入れていない。自分の中でそれらの未練に向き合えていないから受容も決別も出来ない。気づくだけの度胸が無いから執着の理由にも思い至らない。ただ世の中の全てを小馬鹿にし、自分が高みに居られる取っ掛かりを常に何か探しながら、自分はうまくやれている、世の中を器用に渡っていられると自認しつつ、満たされない渇きと理由不明の「面白くねえ」を抱えたまま、上州の道端で冷たく転がる。
 
 三次は周囲の人間の誰もが何かしら自分より劣っていると思って生きて、牙次郎はその逆で、周囲の人間の誰もが何かしら自分より優れていると思って生きてきたかもしれない。その点で二人は善と悪の、愚者の智と智者の愚の、正太郎を点とした対称存在なのだろうと思う。

 これほど要素的で、寓意的であるキャラクターなのに、隼人丈という過剰な魅力を搭載しなすった見事なガラと悪党の色気の似合うニンを持ち合わせた花形役者さんの身に宿ることによって、どうしようもなく憎々しく哀しいほど薄っぺらい、一人の鮮烈な青年像としてわたしの(そして皆さんの)鑑賞歴の一ページに深々と楔を打ち込んでくれましたよね……。
 面白いですね、演劇というものは。

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