「勉強の哲学 来るべきバカのために」を読んだら心が軽くなった
約10年前に社会人になってから、仕事では、なぜなぜをひたすらに繰り返して来た。前職・現職いずれにおいても、なぜ?を問う姿勢は課題発見や問題分析・解決に役立っている。
しかし、日常生活(仕事以外の勉強や読書等の趣味)ではどうだろうか。
これまで諸々の本を読んでわかったのは、なぜという問いを繰り返した先には、絶対的な根拠(=究極的な答え)は無い、ということ。つまり、これまでなぜを突き詰めて絶対的/普遍的な根拠を求める姿勢を貫いてきた自分の足場が揺らいでいたのだ。
また、なぜは深堀すればするほどメタ視点に移行し、関連する問題が多様化し、且つ問題同士の関係性は複雑化するのである。深堀しても知識や理解の限界があり、どうにも手の打ちようが無いように思えていた。
そして結局のところ、どこまで深く考えても絶対的な根拠はないし、わからないのだから、考えるだけ無駄なのではないかという諦念も顔を出すようになった。その結果、最近は若干の思考停止状態というか無気力状態になっている気がしていた。そのような状況でこの本を読んだのだ。(むしろ、勉強や読書の邪魔にさえなっているのである、、、)
この本はそんな”なぜなぜ沼”から抜け出せなかった僕を、次の一歩が踏み出せそうなくらいの浅瀬まで運んでくれた気がする。
自分向けの備忘録だと思って、すごく大雑把に本の内容を要約すると、
・勉強することとは、「これまでの自分の自己破壊」である。
・自分は言語を通して、環境依存的に生きている。
・自己破壊(=勉強)をするには、
①自分のいる環境をメタ認知し、
②アイロニー(批判的な見方)とユーモア(見方の多様化)で現状(今の環境)の
別の可能性を検討し、
③自分の「こだわり」を使って現状の可能性に良い感じのところで制約を
設ける(有限化する)のである。
この①~③の繰り返しが勉強(自己破壊プロセス)なのであるということであったと思う。
僕は②から③へ移行できずに、ぐるぐる同じところを回っていていたのだと思う。客観的視点やメタ視点ということを意識しすぎた結果、わずかながらの自分の「こだわり」を殺してしまっており、無限の②プロセスのどこかで「こだわり」による楔を打つことができずにいたのだ。
正直、上述の要約を読んでも何がなんだか意味が分からないと思うが、敢えて自己満足のために結論まで書くことにする。(気になる方は是非この本を読んで欲しい。長い本ではないし、最終章に要約が載っているので、そこから読み始めて判断しもいいと思う)
本を読んで思ったのは、自分の「こだわり」を改めて見つめなおそうということである。具体的な方法論も書かれているので、これからやってみようと思う。
最後に、無味乾燥に思える状況であっても、自分の中の「こだわり」を育むことは、生きていく上での羅針盤でもあり、自分を見失わないための錨にもなることに希望を感じ、少し心が軽くなったのである。
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