八方美猿 4
1.最先端への鍵としての「なんか違う」
個人的な思い付きを書いていきたい。「なんか違う」という違和感の持つ効能についてだ。
おととい読了した「映画を早送りで観る人たち」という本において、LINEなどの情報ツールが、個人間やグループ内での同調圧力の強化を強め、それが「共感強制力」として存在しているのではないかとしていた。そしてまたその力から、集団内や友人などに勧められたコンテンツを、自分も話題として保持しておくという生存戦略と融合させ、倍速であったり一部を飛ばしたりして消費しているのではないか、という解釈がなされていた。
ここで儂個人の生活と、共感強制力に影響された人々の作品に対する態度を比べた場合、自分には共感強制力の影響が少ないのではないかと感じた。例えば、周囲からもたらされるコンテンツの量は多くもなく流行に沿ったものでもない、むしろ流行糞食らえと言わんばかりの内容だ。それに周りの人間は趣味を同じとすることを求めてはいない。むしろ同じでないからこその交流の面白さを理解していると思わせる節すらある。(それによって儂が楽しい日々を送っていることは言うまでもない)
このような状況では
儂に対してさほど強制共感力は機能していないと見える。
ここでそのように共感強制力の影響を受けにくい状態を、相対主義の強く現れているものと見ることも可能だろう。
なぜならば、共感強制力は趣味の領域などにおいて「共通している」ことを求めているのであって、「あなたとは違いますね」と言うことが目的にはなり得ないからだ。
これは言わば多様性の喪失、より正確に言うならば「多様性の認識放棄」だ。このような状況は、多様性を歌っているようで、全くもって多用ではない。単に存在を認識しないことで互いに関わり合おうとしていないからだ。
こそして、のような状況がある今、儂らが考えを巡らせるときに強力な武器になるのが「なんか違う」という違和感だ。
言わば差異を発見することによって、なぜその差異が存在するのかという疑問から、そのことなる存在それぞれの本質を探求する足掛かりになると言うことだ。これ無視や認識(識別)放棄したら確実に起こらない。
結論が思い浮かばないが、儂はここで一度締めたい。
最後に、ごく個人的な感想として、共感強制力にとらわれている人間は、自身の人間らしさが敗北しているのではないかと思ったと言っておく。
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