良い教員給与制度とはどういうものか?

こんにちは、理事の畠山です。

先日、Salasusuさんの現地報告会に行ってきました。報告会の中で、研修参加者が感想を述べている動画の所があったのですが、これ報告者の方は練習で何回も聞いているであろうに目を潤ませていたので、よほど心が綺麗な人なんだろうなというのがとても印象に残りました。私ぐらい心が濁っているとサルタックの学習センターや母親学級の参加者のコメントを見聞きしても、全く心に響かないんですよね。お陰で、内閣府のお仕事で学生さんにお話をしに行った時に、国際協力の仕事のやりがいは何ですか?と聞かれて、特にないと答えてドン引きさせてしまいました。朝の満員電車に乗っていれば実感するけど、別に大半の大人は生活のために仕事しているんだから、学生さんよ、なぜ国際協力の人達が特別やりがいを持って仕事をしていると思ってしまうのか?

後は、代表の方の教育の知識には思わず唸らせられました。あれぐらい現場に根差して、深い教育の知識を持ち、ああいう素晴らしい部下を率いている人だったら、きっとカンボジアでMeaningful education、即ちサルタックシクシャを実現するんだろうなと思います。代表の方のサルタックシクシャを実現するためのビジョンまでほぼ私と同じだったので、出来る事はお手伝いしていこうと思っています。そこで早速、カンボジアの教員給与システムを考えたいというリクエストを頂いたのですが、これから書く事はカンボジア特有というより、教育政策に従事する人は国を問わずマストで知っておくべき知識なので、ブログで書いて共有しておこうと思います。

以下では、教員給与の4類型に簡単に触れた後に、その中でも特に重要な2つの解説をしようと思いますが、それらの歴史的な背景を理解しておかないと、それが途上国に適用可能なのか判別不能に陥るので、その点についても解説に入る前に触れておきます。

はじめにーTeacher/Educator Pipelineという考え

やや古臭い考え方になりますが(なぜ古臭くなってしまったのかは後述します)、現在でもTeacher Pipelineとググってもらうと、教員政策の中心となる概念図が出てきます。Pipelineというのは水道管の事ですが、表現は良くないかもしれませんが、教員政策も水道管を流れる水に例える事が出来ます。The economics of teacher supplyはPipelineという表現は用いていませんが、ほぼほぼ同じ事を経済学的に表現してくれているので、参考になるかもしれません。米国でも私のおススメの留学先であるバンダービルド大学の教育経済学者Dale Ballou先生が書かれたTeacher Pay and Teacher Qualityという本も同じスタンスを取っています。

基本的に水は水道管を逆流しないように、教員政策も「逆流」はあり得ません。これはどういう事かというと、

①教員養成
②教員採用
③待遇/教員給与
④教員配置
⑤現職研修

の5つは基本的には逆には流れないという事です。具体的に言えば、①→②:教職採用者数は教員養成を受けた人数を上回る事は無い、②→③:離職が発生するので教員給与を受け取る人数は採用者数を上回る事は無い、③→④:採用されて給与を受け取っている教員しか基本的には学校に配置されない、④→⑤:配置されていない人が現職研修を受ける事は基本的には無い、問居た感じです。

なので、優秀な教員が足りないなと思った所で、教員給与や現職研修だけをいじっても、それは不十分なものにしかならず、養成・採用・待遇・配置・研修を一連のものとして考え動かしていかないと、優秀な教員を確保する事はできません。

今の所はなんのこっちゃ?と思うかもしれませんが、後々分かってくるので、養成・採用・待遇・配置・研修は一つのセットであるという考え方がある事だけは押さえておいてください。

教員給与の4類型

Teacher pipelineの一角を占める教員給与はざっくりと4類型に分類することが出来ます。それは畠山の勝手な思い込みでは無いか?というツッコミもあり得ますが、教員給与を扱った米国の本、例えば、タイトルそのまんまのTeacher Pay and Teacher Quality:  Attracting, Developing, and Retaining the Best Teachersはもう少し細かい分類をしていますが読んでもらえれば基本的には私の分類と同じだと理解してもらえますし、Attracting and compensating America's teachers (Annual yearbook of the American Education Finance Association)なんかも同じスタンスです。

契約給

自分の論のJustiricationはこの辺にして、何に対して給与を支払っているかで教員給与は4分類できます。一つ目は、労働量に対してです。大昔のアメリカや、現在でも途上国のcontract teacherと呼ばれる人たちに当てはまるものですが、1年間働くことに対して給与が支払われるというものです。もちろん、「残業代」という考えもここに含めてよいでしょうし、日本でも非常勤講師は授業時間に基づいて給与が決まるので、ここに分類されると考えてよいと思います。

給与表・号棒制

二つ目は、受けてきた準備教育と経験に対して給与を支払うものです。これは公務員の世界では極めてスタンダードなもので、給与表・号棒制と呼ばれるものです。

例えば、下記は私の生まれ育った日本の中心である岐阜県の給与表ですが、多分2級が教諭、3級が教頭、4級が校長のようになっていて、号の方は学歴(not学校歴)によってスタート位置が少し異なっていて、基本的には毎年号が上がっていって昇給していくという感じです。あ、岐阜が日本の中心というのは地理的な意味に過ぎないことは言うまでもありません。

日本の場合は機能しているのかよく分からない勤務評価によって毎年上がる号の幅が異なるので、純粋な意味での給与表とは異なっているのですが、給与表の特徴は、学歴と経験年数に対して給与を支払っているという点にあります。

キャリアラダー

三つめはキャリアラダーと呼ばれるもので、教員をランク分けして、そのランクに応じて仕事内容を変えて給与を支払うのですが(職務給)、職務に対して支払うのはあくまでも形式上の話で、実質的には職務を果たすための職能が昇進と密接に関連していることから、職能給と捉えた方がキャリアラダーの本質を理解できます。

実に紛らわしいものの例として、日本の中心である東京都の例を挙げたいと思います。

東京都は岐阜と違って、主任教諭・主幹教諭という役職を設けて、ランクを作っています。給与表もそれに対応して、岐阜が4階級なのに対して、東京は6階級あります。このように、東京の教員はランク、即ちキャリアの階段(ラダー)を登っていくことになるので、一見すると東京はキャリアラダーを教員給与で使っているように見えます。

ただ、東京都の制度は形式的にはキャリアラダーを取っているものの、実質的には号棒制度と差が殆ど無いと私は考えます。その理由は、昇進方法(下の表)です。後述しますが、キャリアラダーは職能につながる要素を評価して昇進させることで教員の職能成長を促すのが大きな特徴です。しかし東京都は、論文・面接という、試験対策が行われることはあっても職能成長を促すのか疑わしい要素に基づいて昇進をさせています。このため、形式的にはキャリアラダーですが、機能的には前項の給与表・号棒制となっている、と私は考えます。

メリット・ペイ

四つ目はメリットペイと呼ばれるもので、教員がもたらしたメリットに対して給与が支払われるものです。教員がもたらしたメリットとは何ぞや??というのは議論の余地が大いにあるところですが、実務的には子供の学力が用いられる事が大半です。つまり、子供の学力を伸ばせた教員に多く給与を支払うことで、もっと子供達の学力が伸びるように教員を頑張らせるという仕組みです。

教員給与の4類型まとめ

Teacher Pipelineと教員給与には密接な関係があります、教員給与がPipelineの一部を構成しているので当然ではありますが。

契約給は最も原始的な教員給与の形態であり、それもあってTeacher Pipelineとは殆ど関係がありません。これに対し、給与表・号棒制は、教員養成や離職を抑える(続ければ給与が上がるというのが離職を抑えるインセンティブになる)所に強く関係がありますが、職能成長と関連が強い現職研修への働きかけは殆どありません。キャリアラダーはこの給与表・号棒制の欠点を克服すべく、職能と給与をリンクさせることで現職研修を促していきます。メリットペイは、Pipelineの終点、即ち教師と対面して教育を受ける子供達がどうなったかを評価することでPipeline全体にインパクトを与えます(成果を出せば教職でも高給が得られる→優秀な人材を教職へ焚き付ける、成果を出せば給与が上がる→職能成長を促す)。

では、それぞれの給与システムの解説に入る前に、それらを実施可能にする政治環境を理解しない事には、導入を計画しても画餅に帰すので、米国を例に教員給与制度がどのように変遷していったのか見ていきましょう。

アメリカにおける教員給与の変遷

教員給与歴史についてはWilliam Firestoneさんの一連の論文や(例えばこれ)、教育史全体についてはMSUの教育史のMichael Sedlakおじいちゃんの本(例えばこの辺)なんかを参考にしてもらうとより理解が深まると思います。

近代公教育成立前夜

アメリカの近代公教育制度は、ボストンでHorace Mannが成立させたと言われていて、その後Common Schoolとして全米に広がっていくのですが、それは19世紀の話です。ハーバード大が設立されたのが17世紀の話なので、この間には約200年のギャップがあります。

この200年の間に行われていた基礎教育は、一部現在の公立学校のようなものも存在していたようですが、Dame SchoolとGrammar Schoolになんとなく2分する事ができます。Grammar Schoolは、今もNew England地方に見られるBoarding School(寄宿制学校)がその一部をなしていましたが、大学に進学を目指すエリート男子の教育を担っていました。これに対してDame SchoolはBoarding Schoolに入学する前の教育も担っていましたが、どちらかというと男女分け隔てなく識字・日常教育・宗教教育(プロテスタントでは識字教育が宗教的意味合いを強く持っているのですが、話が長くなるのでまた別の機会に)を提供していました。

Dame Schoolの先生は誰だったかというと、主だったのは生計を立てる必要があった多少学のある未亡人または未婚の女性だったようです。そしてその給与形態の多くは契約給でした。

ここで、途上国の教育をやっていない人ならスムーズに次の時代に移っていってもらって良いのですが、国際教育協力をしている人ならピンと来てもらわないと困ります。

ユネスコのGlobal Education Monitoring Reportが最近教育の民営化を扱って(そういえば昔解説記事を書いたので、英語めんどいな―という方はこちらとかこちらをどうぞ)、Low-Fee Private Schoolsに関する本も色々と出版されてきていて(例えばこれ)、実際に途上国のスラムでも多くのLow-Fee Private Schoolを見つけることが出来ます。そして、これには大きく二つの形態があります。1つはチェーン店型のもので、Bridge International Academyのようなものが色々と注目を集めていたりします。もう一つは、近所の少し学のある女性がやっているもので、給与形態も契約給で………、Dame Schoolじゃん!、という。

この辺の専門知識を持っている人が同業者でもほぼいないので退屈なのですが、米国の近代公教育がDame School→Common Schoolと変遷していったのに対して、インドとかケニアでは逆に、MDGs・EFA・SDGsといった国際的なプッシュもあってCommon Schoolの様なものが広がったのに、今また逆にDame Schoolへの回帰が起こっているんですよね。実に面白い現象で一晩でも酒を飲みながら話せる内容なのですが、同業者にこの知識を持っている人がほぼ皆無で、これを理解している博士の先生や同期はインド人女性なので…酒…飲まない…。。。

Common Schoolと給与表の広がり

それはさておき、近代教育以前は契約給が教員給与の形態としては主流だったのですが、Common Schoolの広がりとともにこれが変わっていきます。1830年代にCommon School Movementが起こり、全米各地に近代公教育の象徴であるCommon Schoolが広がっていきます。

しかし、ここで契約給の問題が露わになります。それは公平性です。契約という名前が想起させるように、この給与形態の下ではバーゲニングパワー(交渉力)が教員給与を決定する源となってしまい、例えば男女で給与が大きく違うといった不公平が発生してしまいました。

ここから時代が約50年ほど経ち、1890年代から1920年代に入るとアメリカは進歩主義の時代に突入しました。進歩主義の時代というのは上記のような不平等・不公平を解消していこうという時代で、これに拡大しつつあった労働組合の影響力も相まって、給与表を導入する学区が増加し、第二次大戦の頃には大半の学区が給与表を導入するようになっていました。

給与表というのは、それが女性であろうが男性であろうが、おっさんであろうが若者であろうが、準備教育と経験年数によって給与が決まるので実に公平な制度なのです。

しかし、これは米国で強いプロテスタント的な意味の公平性とはかけ離れたものでもありました。プロテスタント的な価値観とは、働かざるもの食うべからず・勤勉は報われるべき・貧しいのは勤勉ではないから、といった価値観ですが、給与表の欠点の一つに、どれだけハードワークしても、どれだけさぼっても、それは給与に反映されないという点がありました。それが1830年代のCommon School Movementの際にはまだ給与表が広がらなかった理由の一つにもなっています。

このため、実はメリットペイの存在は、もうこの時代からすでに議論されていました。ハードワークをして、教育成果を出せたなら、それは教員が受け取る給与額に反映されるべきだろうと。しかし、この時代の社会科学の技術水準では、教育成果とは何ぞや、それはどう測定できるのかという問題を解決できず、進歩主義の時代を迎えてもメリットペイの導入は議論として燻っているに留まりました。これが変わるのはここからさらに100年の時を要することになります。

A Nation at Risk

事あるごとに教育関係で言及されるA Nation at Riskですが、やはりこれも教員給与に大きな影響を与えます。

A Nation at Riskは1983年に出版された政府の報告書で、内容をシンプルに言えば、①アメリカはこのままでは貿易戦争で負ける(日米貿易摩擦の頃なので)、②アメリカは貿易競争国に対して人的資本の蓄積が弱い、具体的に言えば子供達が知識・スキルを身につけられていない、③学力向上のためには既存のシステムからの脱却が必要だ、というものでした。

この既存のシステムには様々なものが含まれていました。例えばそれは、選挙で選ばれた教育委員会のメンバーによる教育の統治であったり、教員組合の教育政策への強い影響力であったりしましたが、その中には教員給与システムも含まれていました。

実は同様の動きはスプートニクショック(1960年頃)でも発生していました。これは人工衛星打ち上げをロシアに先を越されてしまって米国の科学教育はダメダメじゃないかとなった動きです。この時も教員はやり玉に挙げられていて、教員給与改革が起こりそうでした。しかし、公民権運動に象徴される人種問題が注目を集めすぎて、何となくうやむやなまま時間が過ぎていきました。

ここで国際教育協力に従事する人たちにとってLessons Learnedとなるのは、国際教育協力において教育へのアクセスが色々言われている間に教員給与改革に乗り出すのは、恐らく政治的なモーメンタムを得られないので、教育の質・学力が騒がれるようになるタイミングを待った方が良いという点です。

それはさておき、A Nation at Riskで教員給与制度に何が起こったかというと、給与表・号棒制からの離脱です。これは進歩主義の時代に起こった公平性の議論とは全く違うもので、とにかく教員をしばき倒して教育成果を上げなければという焦りからくるものでした。

そして出てくるのが、職能を昇進・昇給とリンクさせることで教員の職能成長を促すキャリアラダーシステムです。しかし、これは衝撃、いやむしろ笑撃的なほどに短命に終わります。例えば、日本の教育学会に当たるものにAmerican Education Research Association (AERA)があり、その学術誌にAmerican Education Research Journalがありますが、これでCareer Ladderを検索してみると、これを扱った論文の大半が2002年までに出版されており、そこから殆どこれを扱った論文は出てこず、ここ最近になってまたちらほら出始めたかなという感じになります。全く同じ傾向は、Educational Evaluation and Policy Analysisなど他の米国教育の学術誌でも確認できます。

A Nation at Riskが出版された1983年は共和党のレーガン政権でした。そして、その後を継いで、1989年には同じく共和党の父ブッシュ政権が樹立します。この間、地方やアカデミアではキャリアラダーに関する議論が活発になされて、様々な本や論文が出版されました。しかし、この両政権は、そんなに教育に興味が無く特に何も起こりませんでした。実は、連邦政府の政策にA Nation at Riskが効きだしてくるのは、出版されてから10年後のクリントン政権が樹立してからになります。

クリントンさんは、財政黒字の達成や不倫やらで日本では有名かもしれませんが、非常に教育問題に熱心な州知事(Education Governor)で、大統領となり
それを連邦政府に持ち込み、Goal 2000を掲げることになりました。このGoal 2000は、理数科科目で米国が世界一になるなど、実に野心的な8つの目標を掲げましたが、野心的過ぎて何一つ達成されませんでした。

しかし、クリントン政権は教育政策上二つの重要な事を成し遂げました。一つは教員養成・現職研修への注目です。レガシーサイトでも言及されていますが、クリントン政権はDevelopment, recruitment, and retentionに力を入れました。これがキャリアラダー制度と抜群に相性が良く、最初の方で言及した本や論文もこの時代の成果を受けて出版されたものが殆どです。

もう一つは、学力テストへのフォーカスで、outcome based accountabilityと呼ばれるものが出てきました。つまり、学力テストの成績こそが教育成果だ!という社会的なコンセンサスを生み出しました。そして、この頃には教育経済学の発展・統計ソフトウェアの広まりを受けて、学力テストのような数値化できるものの分析能力も飛躍的に向上していました。最初の方の話を覚えている人ならここで膝を打ったと思うのですが、メリットペイを実施する下地が完璧に整ったのです。

そして、クリントン政権の後を継いで、子ブッシュ・オバマ政権が樹立しますが、この両政権が実施したNo Child Left BehindとRace to the Topは、クリントン政権から学力テストへのフォーカスを引き継ぎ、そこにさらに学校選択制・チャータースクール・School turnaroundを導入しました。これらは共通して、ダメな公立学校は潰してしまえという思想を持っています。即ち、教育の質を高めるために教員養成・採用・配置・研修・採用なんてまどろっこしいことはせず、ダメな教員は退場させる事で教育の質を改善しようというもので、キャリアラダーは教育政策の表舞台から消えて、それをメリット・ペイに譲ることになります。

約20年という超短命に終わったキャリアラダー制度ですが、東京都が形式的にこれを採用していることから分かるように、他の国々へと輸出されていきました。それはSalasusuさんが活動しているカンボジアでもそうですし、私が修士論文で分析したころのネパールもそうです。ただ、米国の歴史から、
①教育の質へのフォーカスが始まると契約給や給与表から離れてキャリアラダー政策導入の政治的気運が出てくるのですが、
②教育の質=学力テストの点数という矮小化が起こるとメリット・ペイに取って代わられる、
③つまり、キャリアラダー実施のpolitical feasibilityは実に脆弱なものである

という3点が学べるかなと思います。

教育の政治学的な背景を踏まえたので、教育政策的にキャリアラダーってどうなん?という話をしていきます。

教員給与と教育の質

契約給と給与表

ある程度歴史の部分では触れましたが、各給与制度の強み・弱みについて解説していきます。

契約給と給与表に共通する弱みは、教育の質との関係が弱いのではないか?という点です。例えば、成果を出せば契約更新の際に昇給が望めるのであれば、それはメリット・ペイだということを踏まえると、純粋な契約給には教員に職能成長を促したり一層の努力をさせたりといった機能が全くないことが分かります。

微妙なのが給与表の方です。給与表の特徴は、準備教育の水準に基づいて毎年昇給が行われることで、①ちゃんとした準備教育を受けることを促すのと、②離職を抑えること、という特徴を有する一方で、③特に努力をしなくても、特に教育成果を出さなくても、昇給していってしまうので、それらの部分への働きかけが弱い、という欠点も有しています。

まず①の点についてですが、準備教育=教員養成は意味があるのかないのかが、Teach for Americaという強いポジションを持つ団体の存在によって、議論が錯綜しています。しかし、ちゃんと真面目に分析してみると、やはり準備教育には意味があるようです(教員免許制度は不必要か?ー日本に雑に伝わった教育経済学の議論を再考する(国際教育協力も絡めて))。確かに、準備教育に意味がないなら、別に博士号を持っていない人に大学で教えさせてもいいじゃんとなりますが、大学の先生は博士号も持っていないのに教鞭に立つなんてと言うはずなので、色々と利益がらみのポジショントークが飛び交う分野なんだろうなと思います。

次に②の点についてですが、要するに離職を抑えるのが重要か?=教員は経験とともに教育の質を改善させられるのか?、という話になってきます。日本でデータがあれば比較的簡単に分析できるトピックなのですが、これがアメリカの文脈になると途端に難しくなってしまいます。なぜなら高い離職率が存在しているからです。日本だと離職する教員は、あまりポジティブなイメージが付かないと思いますが、アメリカで離職する教員の少なくない部分は、理数科教員で、民間セクターにより高給で持っていかれるというポジティブな印象が付きまとうものです。つまり、経験年数が長い教員は民間に持っていかれなかった能力に疑問符が付く教員だというセレクションバイアスが発生していて、実際には経験年数とともに教員の能力が向上していったとしても、特に何も工夫をせずに分析をかけると、このセレクションバイアスによって経験年数が伸びても教員の能力は向上しない、下手をするとむしろ能力が下がるなんて結果を出せてしまったりします。

ランダムに教員に経験年数を割り振ることはできないので、longitudinal dataを使ってteacher fixed-effectという同じ教員の中で経験年数とともに教員の効果がどう変化していったかを分析する手法で、この関係を分析することが多いのですが、この分野のレビュー論文を読むと、教員は経験を積むことで、子供達の学力をより向上させられるようになるだけでなく、そのほかの教育成果についてもより向上させられるようになるようです。そして、その効果は教職についてからの最初の数年の間に集中しているという特徴を有しています。

①と②に関する研究結果を見ると、給与表は実に古臭い単純なシステムではあるものの、実は意外と悪くないことが分かります。③の点については、メリット・ペイとキャリアラダーの所で解説していきます。

補足として、給与表はいくつかデザイン上の特徴を持てることも解説しておきます。教員給与に割ける予算が一定だと仮定すると、初任給の額と昇給額の幅の間にはトレードオフの関係が成立します。つまり、初任給の金額を高くすると昇給額は小さくせざるを得ませんし(トップヘビー)、逆に昇給額の幅を大きくしようと思うと初任給の金額を低く設定せざるを得なくなるということです。

トップヘビーで行った場合、初任給というのは学生さんに見えやすいものなので、多くの優秀な若者を教職へと導くことができますが、昇給幅の小ささから離職を抑えるインセンティブは弱くなります。トップヘビーの逆を行った場合、若者を教職へと導く力は弱くなりますが、離職を抑える効果は大きくなります。この辺は現状をよく分析して柔軟にデザインを変えていく必要があります。

例えば、日本では、非常勤に頼り過ぎだという突込みはおいといて、教員のなり手不足という現実があります。しかし、教員の離職率が高いかというと問題になるほどでもなく、実際に教員を辞めると塾の講師を除けば次の職探しも結構難儀したりします。なので、年次評価を反映させるためもあって、とても縦に長い給与表が使われていますが、トップヘビー型に切り替えるべきだと私なら考えますね。あと、教員の職能成長が最初の数年に集中していることを考えると、初任者研修はグッドプラクティスですが、若い人を非常勤として使ってしまうのは超絶バッドプラクティスであることも分かります。

メリット・ペイ

今回の記事のメイントピックはキャリアラダーなので、順番は前後しますがメリット・ペイから先に解説したいと思います。

そもそも、メリット・ペイを導入すると子供達の学力は向上するのでしょうか?答えは一応Yesです。メリット・ペイについて因果推論を用いて分析した研究をレビューした論文があるのですが、アメリカには44のそういった厳密な研究があるようですが、そのうちの約3/4で統計的に有意に子供達の学力を向上させられていました。なぜYesの前に一応をつけたのかというと、その効果量がなんと驚きの標準偏差で約0.05で、これはすなわち、メリット・ペイを実施すると子供達の学力が偏差値で約0.5上昇する感じです。なんぼなんでもこの効果量の小ささは…。

そんな効果があるのかないのかよく分からないメリット・ペイですが、それはあくまでも平均するとそうなるという話で、メリット・ペイが効果的であるための条件とデザインを確認すれば、より効果的なものにすることが可能です。

①まず気を付けなければならないのは、子供の学力のはかり方です。メリット・ペイを実践する上で子供の学力以外の教育成果が考慮されないのはもうどうしようもないとして、単純にある年の学力テストの成績を持ってメリットとしてはいけません。例えば、平田町立平田中学校の先生AとB、大垣市立興文中学校の先生Cがいたとします。岐阜新聞テストでA先生のクラスの平均点は50点、C先生のクラスは80点だったとして、ではC先生の方がより多くのメリットをもたらしているからC先生の給与を上げよう、というのは正しい評価でしょうか?答えはNoです。興文中学は大垣市内の栄えた所にあり保護者のSocio-economic statusが高いだけでなく教育熱心さも高いのですが、平田中学校は周りが田んぼばかりののどかなド田舎にあります。このため、A先生とC先生のクラスの30点の差は、先生の実力の差なのか、保護者や地域の社会インフラの差なのかよく分かりま…自分の母校をド田舎だ、のどかだとバカにするのもたいがいにするんだ!

本当に田んぼのど真ん中にある平田中学校、うむ…

それはさておき、ではA先生とB先生の比較はフェアにできるでしょうか?これも答えはNOです。クラス編成をするときに、先生と生徒の割振りはサイコロでランダムに行われているわけではありません。各学級にピアノの伴奏ができる子がいるかなど様々な要素が考慮に入れられていて、実力があると考えられる先生の所に困難を抱える生徒が多く割り当てられるという事も普通にあります。であると、同じ中学校内でもクラスの平均点が低い先生は、むしろ先生が優秀であるがゆえに平均点が低い、なんて事も全然あり得ます。これでは、先生方がどれだけ頑張っても割り当てられた学校やクラスによって評価・給与が決まってしまうので、先生方のモチベを上げることが、特に困難校で難しくなってしまいます。

そういった事態を避けるために用いられなければならないのが、Value-Added Model (VAM)です。VAMはザックリ言うと、生徒や地域に関するデータも学力テストと合わせて収集して、保護者の豊かさなどからその生徒が取るであろう点数を予想します。その生徒の社会経済的な背景から予想される点数と、実際に取った点数の間に差があれば、…それは先生の実力じゃね?、というものです。ただ、一見良さそうに見えるVAMも、本来子供の学力以外のものと相関は持たないはずなのに、生徒の身長と相関がある、すなわちVAMってノイズまみれのまともな指標じゃなくね?というのを明らかにした超面白論文が出ているので、VAMですら上手く教員の実力を評価できていないのかもしれません。

②次に気を付けたいのは、評価単位です。教職が弁護士や医者と同じ専門職であると考えるなら、教員個々人がどれだけ成果を挙げられたかが評価基準になったりするのかなと思います。

しかし、学校組織はそう単純ではありません。例えば、先の平田中学校のA先生が3年2組で体育を教えていたとします。A先生が生徒達にもたらした教育上のメリットは、果たしてA先生のみによる成果だと言い切る事が出来るでしょうか?

例えば、学校には「学年主任」が存在しているように、学年単位で先生達が集まったりします。この時、学年主任の力量というのは3年生の先生全員がもたらすメリットに影響を及ぼすでしょう。また、「教科主任」がいたら、その教科主任の力量はその学校の体育教師のパフォーマンスに影響を与えてくるはずです。また、学校には「教頭」や「校長」がいますが、学校運営が生徒のパフォーマンスに大きな影響を与える事が分かっています。なので、A先生がもたらしたように見えるメリットは、A先生という個人単位で評価するのが適切なのか、学年で平均を取って学年単位で評価するのか、体育という科目単位で評価するのか、ないしは学校の平均を取って学校単位でメリットを測定するのか、どれが最も適切でしょうか?私にはよく分かりません。

また日本では、私が学部時代の学部長先生だった佐藤学先生が主張している「学びの共同体」や、教員の自主研修グループが、教育の質の維持に貢献しているように、教員同士での学びあいは教育の質向上のためには欠かせません。アメリカでも、ブラウン大学の気鋭の研究者が教員のコーチングが重要であることを実証していたりして、少しづつ機運が変わりつつあるのかなという感じです。これもあってか、先のレビュー論文でも、メリット・ペイが評価単位を教員個々人とした時は、集団単位で評価した時に比べて、効果が半減してしまう事が述べられています。もしメリット・ペイを導入するのであれば、教員同士の連携を促進する形で、というのが欠かせない要素となってきます。

③最後に、やはりそもそも論になるのですが、何を教員が生み出す教育のメリットとするのか、真剣に考える必要があります。

学力テストの成績のみを教員のメリットとすると、教育の他の分野(例えば生徒指導)への努力値が下がるのは容易に想像がつくと思います。ただ、そもそも論としてマズいのが、2018年に出た論文が議論していたのですが、子供の学力を伸ばすのが上手い先生と、生徒指導が上手い先生は余り一致していないという点です。もし教育の成果とは学力テストの事だ!と大胆にも主張する人がいれば、そうであればメリット・ペイをはいどうぞという事になりますが、教育の目標は子供達に知識とスキルを与え民主主義と平和を守るより良い市民になってもらう、といった具合に教育成果は多岐に渡ると考える場合、たった一つの指標では誰がメリットをもたらす教員なのか捉えきれなくなってしまいます。

キャリアラダーinアメリカ

キャリアラダーの特徴は給与表やメリット・ペイと比較すると明確になります。給与表は、準備教育や経験年数という、教員になってからの職能成長に対する努力とは何ら関係ない要素を評価するものでした。メリット・ペイは教員が成し遂げた教育成果(アウトプット)を評価するものでした。これに対して、キャリアラダーは、現職研修において教育成果に結びついていると考えられるもの(インプット)を評価する事で、その研修を行う努力を引き出し、高い教育成果を実現しようとするものです。

このキャリアラダーvsメリット・ペイの、インプットとアウトプットのどっちを基にインセンティブを付けるかという議論は、恐らくキャリアラダーが正解だと考えられます。子供に対して、インプットとアウトプットのインセンティブを与えて比較研究した研究を、色々と話題のハーバードのフライヤー先生が実施して、前者の方が効果的だと明らかになりました。これは常識を使って考えると分かりやすくて、なぜテストで良い点が取れないのかというと、良い点の取り方が分からないからであって、そんな状態で良い点を取ればご褒美をあげるねと言われても、如何ともしがたいですよね。なので、良い点につながると考えられる要素にインセンティブを与えて導いてあげる方が効果的だとなるわけです。これは教員がより良い学習成果を引き出す事にも当てはまるはずで、これがキャリアラダーがメリット・ペイよりも優れていると考える理由です。

ただもちろん例外もあります。なぜ良い点が取れないのか?→シンプルに勉強していないから、という場合です。これであれば、アウトプットにインセンティブを与えて勉強するようにさせれば、点数が上がるはずです。途上国では実際に学校に行ってみると、先生が学校の裏の畑で働いていたり、職員室で喋ってばかりいる先生もいます。つまり、途上国では、ちゃんと働いてなくね?と問題がよりシンプルな形で存在していて、実際に比較的メリット・ペイは少なくとも学力には効果を発揮しています。例えばインドでも、子供達の学力が偏差値で2.5ぐらい上昇していて、アメリカよりも高い効果を発揮しています(研究)。

それはさておき、キャリアラダーって具体的にどんなものかアリゾナの事例を見てから、詳しい解説に入ろうと思います。

・アリゾナの事例

Incentive Pay and Career Ladders for Today's Teachersという本が紹介しているアリゾナ州の事例を紹介してみましょう。

アリゾナ州は、教員に対して4つの階段(Career Teacher1から4)を作成し、その中でさらに6段階の小さな階段(Step1から6)を作成しました。そして、経験年数と評価点数によって教員は階段を上っていく事になります。

この評価点数の付き方は、
①評価チームによる10回の授業観察評価(3回は事前告知あり、7回は突撃隣の晩御飯状態)
②校長先生による勤務評価
③授業計画とその振り返り
④教育プロジェクトへの参加

の4項目からなります。

さてこのアリゾナの事例を見てもらうと、キャリアラダーの長所と欠点が理解しやすくなります。まず、授業実践を評価されたり、授業計画を評価されたりと、より良い授業を行うためのインプットに対するインセンティブが効いているという長所があります。しかしその裏返しとして、授業実践の評価や授業計画の評価が適切かつ客観的に出来るのか?、教育の質向上につながる職能成長上の要素を識別できるのか?、というキャパシティの問題が出てきます。先進国ならまだしも、途上国では致命的な要素になってきます。

次に、給与表だと昇給がダラダラとしか行かないのに対して、キャリアラダーでは頑張れば給与表よりも早く昇給していくことが可能になります。ただし、メリット・ペイ以上に評価ユニットが個人に限定されてしまいやすいので、特に昇進の閾値を相対的に決めた場合は教員間の協働を促す事が難しいという欠点も浮き彫りになります。このため、やる気も実力もある教員の実力を発揮させる事には向いていますが、教員全体の実力を協働させて引き上げるのには適していないかもしれません。

また昇進の閾値を絶対的にすれば教員間の協働を損なう恐れは緩和できますが、今度はそうすると、教員給与の総額が爆発して、そんな予算無い!という事態に陥るリスクが上がります。実際に、これが原因でキャリアラダーを取りやめた州や学区も存在しています。

最後に、教員評価を実施したり、書類を提出させたりと、手間とコストが莫大なものになってきます。特に途上国の文脈に落とすと、ガソリン代がないから田舎の学校の視察に行けないなんて現状があるのに、どうやって田舎の学校の教員の評価をするんだ?という大きな問題が浮上します。これは何も行政側に限った話ではなく、教員についても田舎にいるがために昇進機会に応募できなかったなんてのは全然ありえます。つまり、日米ならまだしも途上国にキャリアラダーを実施するための手間とコストを負担できるのか?というのは大きな疑問として残ります。

キャリアラダーin途上国includingネパール

実際に、このキャリアラダーは様々な途上国に輸出されていきました。しかし、これが上手くいったと報告されている事例は見たことがありません。例えば、エチオピアでは1994年にこれが導入されましたが、昇進のための書類仕事をちゃんとこなせる教員があまりおらず、教員の待遇の悪化につながってしまったという、途上国らしい研究がなされています。似た話はガーナでも起こったようです(リンク)。日本でも、文科省や教育委員会から降ってくる調査や書類仕事は、教員の皆様にめちゃくちゃ評判が悪いので、さもありなん。

トルコでは2005年に導入されましたが、これもあまりうまくいっていないという研究が出ています。やはり意図通りには実施が上手くいっておらず、そもそも給与の遅配が起こるほどに行政のキャパが弱い途上国で複雑な制度を意図通りに実施できるわけがないのと、階段を上るための基準が教員の反発を招いている、という課題があるようです。

今は知りませんが、サルタックが活動するネパールも1992年にキャリアラダーを実施した国でした。今回のメインパートはここなので少し詳しく解説していきます。

ネパール・キャリアラダー

ネパールのキャリアラダーの詳細です。ネパールのキャリアラダーは3段の階段があるのが特徴で、階段を上がるごとにベースとなる給与額も年次昇給の額も上がっていきます。ただ、教育セクター全体でみると、小学校→中学校→高校と階段になっており、実際に教員に求められる準備教育水準も、小学校教員は高卒認定試験(School Leaving Certificate: SLC)、中学校教員は短大卒、高校教員は大卒であることが求められていて、階段を形成していました。

教員の分布は、一番下の3級が80%、2級の教員は全体の18%、そして1級は2%とされていたので、昇進は絶対的な基準ではなく、空きが出たら相対的に決まるという形になっていました。このため昇進機会もかなり限られています。昇進は5年に一度行われるのみで、2004年に行われた昇進審査では、3級から2級に昇進したのは3級教員の15%、2級から1級は9%というものでした。

昇進経路は二つあり、一つは筆記試験&面接、もう一つはポートフォリオ評価で、前者が全昇進枠の1/4、後者が残りの3/4を占めていました。筆記試験は4分野から構成されていて、教育基礎知識(10点)・教育法規(10点)・教科教育の知識(60点)・新しい技術の活用(20点)となっていました。倍率としては、2級への昇進は3割の3級教員が応募し、筆記試験を合格できたのは応募者の15%、その中で面接を突破できたのは85%、といった具合でした。

肝心のポートフォリオ評価の方ですが、内訳は次の通りです:①勤務年数(Max30点)ー勤務年数1年ごとに2点加算、②高卒認定試験の成績ー成績に応じて、10点・8点・6点・0点のいずれか、③準備教育での成績ー成績に応じて5点・3点・2点・0点のいずれか、④現職研修ー3フェーズに分かれているものの取得状況に応じて15点・12点・10点・0点のいずれか、⑤教員評価ー40点から15点の間、となっていました。

そして、この教員評価は校長(持ち点20)・指導的立場にある教員(10点)・地域の役所の担当官(10点)の3者によってなされ、項目は①教科知識、②教授法知識、③知識とスキルの活用、④教育教材の作成・活用、⑤教育への熱意、⑥課外活動、⑦学級運営、⑧生徒への態度、⑨同僚への態度、⑩勤務態度、の10点が評価されていました。

このキャリアラダーシステムについて5段階のリカートスケールを使って教員に色々と聞いてみました。給与額や昇給額についてゴリゴリに不満を持っていたのはさておき、いくつか興味深いことが分かりました。

①別にキャリアラダーシステム自体は何とも思っていない(魅力的とも不満とも感じていない)。3級の教員達はキャリアラダーが職能向上に特に影響があるわけではないと考えている一方で、1・2級の教員達は効果的だと考えている
②評価は個人単位だし、相対評価になるけど、別にそのことが同僚との関係を悪化させることは無い。ただ、そもそも論として、他の教員を助けることを重要だとは思っていない
③筆記試験による昇進についてー筆記試験の内容は妥当だし、そのための準備は教育スキルを向上させてくれると強く感じている
④ポートフォリオによる昇進についてー教員評価を含めて、このシステムが職能成長に結び付いているとは感じていない。ポートフォリオの中身について、1・2級の教員は知っているが、3級の教員はそもそも何がポートフォリオで評価されているのかよく知っていない
⑤アメリカで指摘されていた昇進準備が教育活動を阻害する点についてーそんなことはない

といった感じでした。これをざっくりとまとめると、

①昇進機会があまりにも少なすぎるので、アメリカで指摘されていたような問題が起きていない一方で、モチベーションとしての機能も失われている→適切にシステムを扱えるだけの人的・金銭的リソースがそもそもない
②途上国っぽい筆記試験重視が教員の間でも蔓延していて、他の方法での教員評価を活かせるような下地が無い
③恐らく、昇進にモチベーションを感じる先生たちが、キャリアラダーの中身を知ってシステムをハックしているだけっぽい。大半の先生はその中身すら理解しておらず、従ってそれに沿った職能成長も期待できない

といった感じです。シンプルに言えば、キャリアラダーを効果的にするためのキャパも教員のプロフェッショナリズムも存在していないといった感じでしょうか。

サルタック初代代表の友人に、修士論文の調査を手伝ってもらっているところ。そう言えば、この人に調査のお礼を渡そうとしたら、「君は初代代表の友人だろ、だったらこんなの受け取れないよ」と言われてビックリしたのと、調査中に初代代表に「基礎教育が充実してネパールがより平等になると、日本で博士を取るような家庭のあなたはアドバンテージが減っちゃうんじゃないですか?」と尋ねたら、そんなのは些細な事と一笑に付されてビックリして、この人の後ろをトコトコついて行ったら楽しそうだなと思い、現在に至る。

最後にー内発的動機vs外発的動機とTeacher Pipeline

一点、まだ議論していなかった点をカバーしたいと思います。それは内発的動機と外発的動機です。これは利他的・利己的動機と表現されることもあります。

内発的動機付けとは、やりがいに代表される人の内側からくる動機のことを指します。外発的動機とは、金銭的な報酬や賞罰など外側からの働きかけに由来する動機のことを指します。外発的動機には、報酬の額を上げ続けないと利かなくなってくる・持続性が無い・内発的動機付けを削ってしまうといった欠点があると言われています。

さて、ここで長い長いこの記事の冒頭に話を戻していきたいと思います。冒頭で触れたのは、裨益者のコメントに目を潤ませられる心の美しい女性と、国際教育協力にやりがいは特にないと答えて学生をドン引きさせるとんでもないヤローの話でした。日本語で書いているこの記事の読者の多くは日本人だと思うので、この部分、特に違和感なく読み進められたかと思いますが、果たして他の国でもそうでしょうか?

ここは体感ベースの話になるのですが、日本は途上国やアメリカに比べて内発的動機付けをかなり重視する社会なのかなと感じます。例えば野球のFAなんかを見ていても、米国は外発的動機付けの追及を比較的受け入れているのに対し、日本でFA選手が純粋に金銭的理由で選んだとか言ったらえらく叩かれそうな感じがあります(そういえば、福留選手が誠意は金という名言を残していました)。

内発的動機付けと外発的動機付けそれぞれの在り方と両者の関係は、社会の文脈に依存するというのは研究でも指摘されています。なので、教員給与設計を考える時は、他国の研究結果をそのまま当てはめるのではなく、その国のコンテクストをよく考えるのが重要なポイントになります。

ただ、経験ベースで言えばアジアは米国ほどには外発的動機付けが効きづらい感じがしています。キャリアラダーにもメリット・ペイにもどちらにも共通しているのは、金銭という外発的動機付けによってより良い教育成果を引き出そうとしている点です。東京のキャリアラダー制度の設計がグダグダになっているのも、シンプルに米国の制度を輸入し損なったという技術的な問題もあると思いますが、多分日本のコンテクストに合わないために実質的に給与表と変わらないものにしてしまったという積極的な理由もあるのかなという感じもします(もし詳しい人or東京都の教員でこの点を畠山と話してやってもいいぜという方がいたら、ご飯でもご馳走するので是非お話を聞かせて下さい)。

ただ、外発的動機付けは完全に悪かというとそうでもありません。キャリアラダーの所で言及したフライヤー先生の研究を見ると、子供のケースではあるのですが、外発的動機付けは特に内発的動機付けを削ったわけではありませんでした。これを教員給与で考えると、①プロフェッショナリズムが弱い少なからぬ途上国の教員達に対して、②キャリアラダーやメリット・ペイといった外発的動機付けによって職能成長や教育成果を一時的に引き出し、③それによって職能成長したり教育成果を出せたりする事は素晴らしいんだという内発的動機に火を付けられれば、④キャリアラダーやメリット・ペイも上手く行く可能性がある、ということを示唆しているのではないかなと思います。

ただ、キャリアラダーに関して言えば、資質向上に結び付くような階段の設計がそもそも至難の業で途上国のキャパでそんなの作れるのかという課題がある上に、教員にそれを登るよう促すのも難しいうえになんなら反発を食らいがちという課題があって、その上さらに内発的動機に火を付けられるようなものというと、…私は途上国でそれが出来るとは思えません。

そもそも、教員に職能成長を促すのは、教員給与制度が担うべき役割なのでしょうか?例えば、私の場合、二度も家庭をぶっ壊すほどに働いて、博士課程にも進学したので、国連職員の中でもかなり猛烈に職能成長をしていったタイプだと思いますが、振り返ってみてもそれって別に給与とか昇進のためではなくて、世界中でサルタック・シクシャを実現しようと思うと、圧倒的な実力が必要だと感じたからなんですよね。さらに言えば、修士論文を書く時にネパールにはとてもお世話になったので、いつか鶴の恩返しが出来るようにと、国際機関や博士課程をやる傍らでこのNGOを運営してきました。

そういった自分自身の人生を振り返ってみると、教員給与に小細工を仕掛けて職能成長を促すというよりは、給与表で全然いいのである程度の給与水準を保って優秀な人材が教職にきて離職しないようにして、職能成長や教育成果の追及に関しては、採用でそういう人材を選べるようにしつつ、教員養成や現職研修で教職の社会的意義を叩きこみつつ、教育の楽しさを見出させるべきなんじゃね?と考えるわけですが、約2万字もあるこの記事に最後まで付き合って下さった皆さんはどう思いますか?しばらくは日本にいるので、shota.hatakeyama☆(←@に変えて下さい)sarthakshiksha.orgまでご連絡いただければ、コーヒーかビールでも片手にぜひこの点について議論させて頂こうと思います。

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