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カフェレストランという選択

私は大学で海洋学部水産学科を学び卒業した。
漁師町に生まれて祖父が半農半漁だったりと海を身近に感じていたのも有り海洋学部に入ったのは漠然と海に関わる事を学ぼうと思ったからで、特に高い志があったわけでは無い。
同級生は水族館や水産関係の仕事、食品会社に就職する者が多かった。
世の中は就職氷河期、買い手市場でした。
私は当時就職に対し、どうしてもこの仕事をしたいと言う高い志があったわけでもなく。
今考えると、それまで漠然と周りに流されて生きていたボンクラな青年だったんだと思う。

そんなボンクラ学生は親戚の紹介で応募した地元の静岡県清水市では、ある程度名の通った海運貨物取扱業いわゆる乙仲事業者に、筆記試験と面接を受けて、なんとか就職出来たのでした。

倉庫業・船舶代理店業・通関業・コンテナ輸送手配等々の国際貿易複合輸送(輸出・輸入)の様々な部署が有り、静岡県の名だたるbig shipperが顧客の会社でした。
国際物流には欠くことの出来ない会社は半官半民の堅い会社でした。堅実に真面目にコツコツと働いていれば、定年になるまでサラリーマンとして働いていたんだろうと思う。しかし私はその会社を6年で退職してしまった。

私がどんな仕事をして、サラリーマン時代を送っていて、最終的に退職したかはまたの機会にお話しする事として(問題を起こしたわけではありませんw)
61歳を迎えるにあたり、人生に於いてカフェレストランを経営する選択に至る経緯を記しておこうと思います。

国際物流業から食に携わる仕事へ


会社員として国際貨物の物流を担う仕事に携わり、日本の輸出入を支える仕事でありとてもやり甲斐は有りました。しかし200時間を超える残業で体を壊して総務部に配置転換され、庶務や人事課の仕事は全く肌に合わず、そんな日常の中で、物ではなく人と相対した仕事、そして人に喜んで貰える仕事、人が笑顔になる仕事に就きたいと思う気持ちが強くなっていました。

退職を決意した当時私は、既に学生時代に知り合った妻と結婚して女の子2人の父親でした。
家族を養う為にはある程度の賃金を貰える職業に就く必要がありました。
退職を決意してから、次にどんな仕事に就こうかと考えた。

幼い頃から体を動かす事が大好きで、小学生ではソフトボールや水泳、中学から高校までバレーボールの強豪校で汗を流し、大学時代にはウィンサーフィンに出会い、それを教えるアルバイトに夢中になっておりました。
社会人となってから、冬季はスキーに毎週末山梨県や長野県に通う様になっておりました。

一方で就職後家庭を持ってからは、食べる事が大好きで家庭でも進んで料理をして、自分の作る料理で家族が喜ぶ顔を見るのが無性に楽しく感じておりました。
そんな事から私はスポーツに携わる仕事か食に関する仕事のどちらかで、人を笑顔にする仕事に就きたいと思い職探しをしました。
しかしながら、スポーツに携わる仕事で私の望む給料を貰える仕事はほとんどありませんでした
そして、いつしか自分が飲食店を経営して自分の店を持ちたいという思いが強くなり、飲食業の修行の場として当時勢いのある地元のカフェレストランチェーン店に就職を決めました。

飲食業会へのチャレンジ

飲食業会へと転職しカフェレストランに就職した私は接客と調理、そして経営を学び、いつしか私はそのチェーン店のトップクラスの売り上げを誇る店の店長となっておりました。

自分の店を持ちたい目標を持ち続けて仕事をし、周りの食品卸し会社の方々に居抜きで条件の良い店舗が有れば紹介してくれる様に常々お願いしておりました。そんなある日、業者から160席ほど有る大箱店舗で、これから立ち上げる関東圏で流行り出したイタリアンのフランチャイズ店を静岡で開店させる飲食店オーナーが店長を探しているけど、やってみませんか?とお誘いがありました。世間ではイタリアンブームに湧いておりました。

イタリアンのフランチャイズ店を立ち上げるにあたり、広島の大箱超繁盛店へと同じく雇われたホテル業界で長年チーフを務めたシェフと一緒に行き研修をし、店舗をまだ改装している段階から入ってから開店を迎えました。

時代はイタリアンブームで、静岡市中心部に有り、若者に人気のブランドを多く置く百貨店のレストラン街のそのイタリアンフランチャイズ店は1か月で1,500万円を売り上げる大繁盛店となりました。そこから様々な出来事がありましたが、2年ほどで店を去る事になりました。以前のテナントからイタリアンのフランチャイズ店に変わり、売り上げ前年対比120%の店を率いていた私は辞める時に、百貨店の管理部門の責任者に呼び出され強く引き止められました。

それからベーカリーカフェレストランの立ち上げ店長に移り、いつしか私は新しい展開を望むオーナーの新規開店を手伝う店長として声がかかる様になり、4店舗ほどのカフェレストラン系の店を転々として、その都度売り上げを伸ばす店に成長させて行きました。
最終的にはローカルカフェレストランチェーン店の統括マネージャーとしてメニュー開発や店舗運営指導を行う様になっておりました。その間も自分の店を持ちたいという気持ちは常に心の底に持ちながら。

一国一城の主に

そんなある日、母親の用事で母を車に乗せて運転していると、住んでいる直ぐ近くの漁港に隣接した様な土地が更地で借り手を募集する不動産屋の看板を見かけました。
それを見た私は気がつくと、車を停めて不動産屋に電話をしておりました。

その土地のオーナーさんは、私の祖父が戦争に行っている時代に戦友だった方で地元で農家を営んでおり「お前のとこの孫ならば」と言う事で飲食店を建てて営業する事を承諾して下さいました。

飲食業会に転職して14年が経っておりました。

食に関する転職して2023年12月で32年が経ち、個人経営者としてカフェレストランを経営して18年目となった。
妻と一緒に立ち上げたカフェレストランは創業時バブルも崩壊して、リーマンショックも重なって日本中がなんとなくどんよりとした時代の様な雰囲気でした。(私的な感覚です)場所は漁港の近くの郊外店で、夜はほとんど人通りがない立地です。
公務員だった父親には「あんな所で開店してもお客さんが来るわけない!」とか、ローカルレストラン6店舗のチェーン店で統括店長をしておりましたので、業者に独立を話すと、「こんな社会情勢の時に出店して大丈夫なんですか?」と心配されながらの船出でした。

根拠のない自信だけを頼りに….。

そんなこんなでカフェレストラン経営者、一国一城の主として「Sarry’s Cafe•サリーズカフェ」をオープンさせました。
今まで蓄えて来た資金だけでは当然足りず借り入れも多かったですが、両親にも資金面では支援して頂きました。そんな環境に感謝しかありませんでした。

只今私は今年還暦を迎え60歳、人生においてカフェレストラン経営という選択をして何とか周りのみなさまに支援して頂きながらテラス席のみ愛犬OKのカフェレストラン「Sarry’s Cafe」を経営しております。

7年程前にはスポーツアクティビティの運営会社を設立して、物流の仕事から転職する際に悩んだ方一つのスポーツに携わる仕事を一から立ち上げる事になり、この歳になってもまだまだ夢を持って生きております。
今では二足の草鞋で経営者をしているのですが、そのお話はまたの機会に致しましょう。

サリーズカフェのパスタランチ
頭の毛が月日を感じさせます
今でも厨房は私の居場所の一つです。
Sarry’s Cafe

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