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受け入れ難い事実について

ここ3年ほど、夫とまともに向かい合って雑談をしていない。
お互い忙しかったのもある。
夫より子供と話した方が楽しかったのもある。
何より、顔も声も見たくなかった。

原因は、多分2つある。

1つは「将来に対する価値観の違い」。

手狭になってきた会社補助付き賃貸マンション。
来春には5年間保証の補助が切れる。この先、どうするのか。
子供達もそろそろ1人部屋が欲しくなってきてる。犬も飼いたいだろう。

私は3年前から必死に物件を探しまわり、
「一生賃貸派」夫に情報を提供していたが、完全スルーされてきた。

それでも、良い物件がよければGOを出すだろうと思っていた。
諦めずに探し続けた。

甘かった。
待てど暮らせど響かない。動かない。話が進まない。
日本では大手と呼ばれる企業に勤めている夫。預貯金もある(らしい)。
なのに、3500までしか出せない。生活に無理が出る。なんだらかんだら…
そんな金額で転校させずに済む物件があるわけない。

結果、取り返しのつかない「不信感」だけが私の中で大きくなっていった。

もう一生賃貸も覚悟するしかない。一時はそう思った。
世の中の夫婦がそれぞれにイチモツ抱えながら、
でも何とかやり過ごしていることも知っている。
モラハラ夫でもなんでも、耐えるしかない女の立場があることも。

何とかしようと話し合いの時間を作った。
夫の前でも、相談していた母の前でも、泣きに泣いた。
子供のためにも離婚は避けたかった。それは私も夫も同じだった。
だからこそ、既成事実を作ってしまえば、家族の形を維持するしかない。
一生賃貸派夫も、考えを変えて、中古物件の内見に何度か一緒に行った。

しかし、時間は残酷で
不信感が膨れ上がった私は、もうイメージができなくなっていた。
夫婦として向き合って雑談する風景を。その空気感を。
「よし、ここだ。ここで家族4人でこれからも末長く暮らそう」と
私は言えなかった。
夫も言ってこなかった。

もう一つの原因は、「育ちの違い」。

夫の実家は「超懐古的亭主関白家庭」に対して、
私の実家は「超自由家庭」。

義父は高圧的な態度が原因で友人がいなかった。
義母はそんな義父でもついていった。
義姉はそんな義父が大嫌いだった。義父の葬儀中ですら義父を罵っていた。
夫もそんな義父のトラウマがあるせいで、強迫観念がすごい。

対して
父は人が大好きで、家でよく飲み会をしていた。
母は自分の世界を楽しみつつも、父を愛し、支えてきた。
弟は才能に溢れ、サッカーと仲間とのびのびしていた。
私ももちろん、好きなことを認めてもらって、のびのび育ったと思う。

そんな育ちの違いが、結婚して10年で露呈し始めた。
子供対する接し方、考え方が真逆だった。

子供の自由は「お金の上に成り立っている」という旦那。
お金は関係ない、子供の自由は自由であり、それを何とかしてやるのが
親だと思っている私。

長女が塾に行きたいと言い出した時、
その費用を捻出するために、
旦那は長男のスイミングを辞めさせろと言ってきたのだ。

全くもって理解不可能な命令だった。
もちろんそういう金銭的事情があるご家庭もあるだろう。
でもうちはそうじゃないと思っていた。
私も200万程度のフリーランスが収入もある。
ましてや、大手と呼ばれる企業勤めの夫の年収でそんな命令が下るとは。

それからも、何かとお金を引き合いに出して
発想や行動を制限するような発言を繰り返す夫。
男性更年期もあるのだろうが、もう「育ちの違いだな」と思うことで
納得するような細かいストレスが蓄積されていった。
ただただ、私は息苦しくなり、笑えなくなった。

この先も、笑えないなんて、
そんな人生過ごすのはまっぴらだった。

まさか自分が。受け入れ難い事実。
結果、別居ー夫は単身赴任・子供と私は実家へーの選択をした。

今だに受け入れ難い事実。
子供を巻き込んでしまったという事実。
転校する負担をかけてしまうという事実。
5年間の間に培った多くのつながりやこの先の未来・希望を
奪ってしまうという事実。

子供のことに意識を向けると、
今だに別居せずにどうにかならないか、と思案し続けてる私もいる。
反面、
もう別居するしかない。それは事実。
だからこそこの先どう楽しくするか、課題をクリアするかという思考に
チェンジすべきだとも思う。

受け入れ難い事実を、前向きに受け入れよう。
勇気と覚悟と体力を示すために、このnoteを書いた。


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