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才能と努力という神話

右利きへの強制を拒否

わたしが子供の頃、左利きは「みっともないもの」でした。
今と違って、まともな人間は右利きであるというのが世間の常識で、左利きのまま大人になることは「親の躾がなってない」と思われていました。
親戚にはことあるごとに「みっともない」「治した方がいい」「お嫁にいったときに恥をかくよ」と言われ続けました。
意味不明ですね。

小学校に上がった時、担任の先生の提案で私の「右利きへの矯正」が行われることになり、学校では「鉛筆は右手」「スプーンも右手」と言い渡されました。

クラスメートに「左手になってるよ、みっともない」と言われるようになりました。「みんなで注意して直してあげよう!」ってなったんですね。善意から。
これは辛かった。堪えました。
でも私は頑強にこれを拒否しました。

そのころの私は絵や字を書くことが好きで、左利きながらになかなかきれいな面白い字を書いていたし、絵も上手で、将来は絵描きになることを夢見ていました。

生まれながらに得意なことは、自己肯定感やアイデンティティと自然と結びついていきます。

私にとって左手はかけがえのない大切なもので、左利きを矯正することは未来を奪われることだと幼いながらも薄々感じていたんです。

周囲の矯正圧力をすべて跳ね除け、「あの子の左利きは仕方ない」と諦めさせることに成功した頃には、私は無闇に自己肯定感が高い人間になっていました。

社会人になってから美大も専門学校も出ずにデザイナーとなりますが、自分には才能があるからできて当然だ、と思っていました。
私は才能至上主義、能力主義者でした。それもかなり傲慢な。

能力主義

才能とはすばらしいものです。努力だって素晴らしい。

けれど、たまたま持って生まれた遺伝子が現代的な価値観やその人の環境とマッチしたのにすぎないものを、過信したり、それしかないと縋ったりするのはなんかちょっと違うな、と今は思ってます。

自分にとってはちいさいけれど印象的な体験があります。

詳しい状況や時期は忘れてしまいましたが、多分新聞社系のメディアの記事かなにかだったと思うんですが、「才能があって努力している学生は国が援助するべき」という考えを読んだ時、え?って思ったんですね。

それはざっくりまとめると、奨学金という借金を学生に背負わせるのはいかがなものかという、そんなに問題があるようにも思えない内容でした。

それなのに、なぜこの記事に愕然としたのか。

才能があって努力できている人は援助されるべきなら、才能がなくて努力できない環境にある場合は援助されないのか。
ここがはっきりしていないことに私は驚きました。

努力ができるかというかというのは、その人の気持ちの問題もあるでしょうが、それ以上に環境の影響が大きいはず。
努力できる環境に生まれ育っているかどうか。

そして現時点で才能も努力もない人は援助される機会も得られないのか。

メディアに何かをかけるような力のある人に近いような人、つまり優秀である程度周囲の理解もある人、そんな人を助けるだけのアイデアなのではないか。

せめて、進学を希望する学生すべてに、なんらかの援助をするべきだ、というような一文があれば違ったのかもしれません。

才能がなく、努力したくてもできない人は無視される。
そのことに納得のいかない強い気持ちを感じたのです。

才能という努力という差別

ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授の「運も実力のうち 能力主義は正義か」は、現在公然と行われている「能力主義(メリトクラシー)」という差別の形に切り込んだ本です。

私が漠然と感じた差別の形が、一流の学者によって言語化され、この問題を乗り越えるための提言が書かれているのを読んで、私は泣きたくなるくらいホッとしました。

世間にもてはやされるような才能がなく、努力できない環境にある人を擁護する言論を、しかも強い影響力を持つ人が入っているのを聞いたのは初めてだったので。

自分自身も能力主義という差別者でした。

これからも自分のささやかな才能のようなものを活かしていくとは思うんですが、今では、才能や努力という神話を信じることはありません。

持っている人の、持っていない人への差別の一番怖いところは、差別されている人が知らないうちに「場」から外されていることにあると私は思います。

才能と努力という善きものに隠されている差別は、機会を与えられないのです。
幼い私が利き手の矯正を拒否したような反応の場さえ与えられない。
差別されていることには気づけても、その内容まではわからない、そんな差別。

神話の終わりに

自分の未来がより良いものであるように願って行動してくのは人間の当たり前の権利ですが、自分の有利な立場を守りたいと願うのも人間の自然な性質。

だからこの差別の解消はなかなか難しいだろうな、と思っています。

今もやはり、才能と努力は輝かしいものであって欲しいという気持ちはあります。
それがどんなものであっても、なにかきっと意味が、価値があると思いたい。

でももう才能によって不運を凌駕する神話をまっさらな気持ちで信じたり、賞賛したりすることはできないでしょう。

誰かの才能の裏には養分になった人がいるかもしれない。
努力して得た成果を本人が誇ることは当たり前だと思うけれども、一方で努力すらできない環境にある人もいる。

私は差別を解消のためではなく、すべての人が持って生まれた才能を発揮できるようにするにはどうしたらいいかを考え、表現することに自分の才能を使いたい。

これからは自分の才能を磨き、努力を重ねていくことが誰にとっても当たり前の世界であってほしいと思うのです。

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