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「美味しいっ」とオトナ

マスクをすることよりも、していないことに違和感を覚えるようになって久しいとさえ思うようになった。月日が経つのはあっという間なのだ。

それはさておき、文章を書く時、ここぞとばかりに「ナニナニとなって久しいが、」と言いたくなるのはなぜなのか。
僕だけか。


まだ僕が「エッセイスト」という仕事を知らない頃だから、高校1年の時だ。

その頃から何かにつけて「気取った文章」を書くのが好きだったのだろう、自覚はなかった。

クラスの日直を担当する日は、
クラス日報のような、学級日誌と呼ばれていたっけ、今日が何日で何曜で、誰の授業を受け
どんな授業であったかを書き記し、
最後に一文、その日のまとめを書かねばいけなかった。

クラスに40人くらいいたから、
2ヶ月にいっぺんだけしか書かないソレが、
僕も含めみんな、面倒ごとだと認識していた。

けど、僕はその日誌のまとめをよく褒められた。1年の頃は、現代文の先生が担任だった。
「女ラグ」と呼ばれていた女性の先生に、
「まさしはエッセイストにでもなれば。」と言われた。
2年で担任が変わって、あまり仲良しとは言えない先生だったが、月1回先生が発行するクラス通信に、その月の日誌のまとめの中から選りすぐって紹介してくれた。
僕はそれに書くたびに載せてもらった。

当時の僕はオトナの言葉を鵜呑みにして、
変な勇気とそれに伴う変な勢いで、
エッセイを書く、読む、好きになるなんてしなかった。
何かを鵜呑みにしてみるには、
心も口も少し、空の部分がないと出来ない。

頭と心は好きな女の子のこと、
口には放課後買い食いしたセブンのから揚げ棒が詰まっていたから、椎名誠も、伊丹十三も、
松尾スズキも、もちろん宮沢章夫も知らないまま高校を卒業した。

セブンのから揚げ棒はだから今食べてもそういう味がする。楽しい気持ちを思い出す美味しさもあるし、食べて反省したくなるような侘しさもある。

僕はここに思い出話をしに来たんじゃないんだ。

「美味しい」には2種類あるんだ。

本当は、もっと色とりどりなのだと思うけど、
僕が東京へ来てからの3ヶ月間、
モノクロの街TOKYOなだけあって、
「「美味しい」は2種類なんだ。」と、
そう信じてみることにする。

1つ目は、「友達と行く3泊4日の旅行」タイプ。
2つ目は、「母校の小学校の校庭」タイプ。

銀座(でお寿司を食べたことなどないけれど、)で食べるお寿司は、きっと、
卒業旅行で仲良し4人組でバリへ行き、
現地のガイドというか、船へ乗せてくれる
男2人と写真を撮ってしまう大学生の彼女らと同じではないか。

圧倒的に、かつラベリングされた
「美味い」。

見知ったお店のもう何度食ったかも分からないもつ煮が、3泊4日の旅行ではなくて、
小学校のうんていであることに疑いの余地など無いではないか。
自身の身の丈を再確認して、懐かしくて、
もうすでに知っている「美味い」。

僕は、もうすでに知っている「美味い」が好きなんだと気がついた。

東京へ来たのは、仕事のためで、
この仕事はパンを作る仕事なんだ。
勉強のために、この3ヶ月の間に休みの日のたびに何軒もパン屋を巡った。
両手では足りないほどに。

有名で美味いバケットや、有名で美味いパン・オ・ショコラよりも、ショートメールで山梨にいる父親に頼んで、クロネコヤマトで届けてもらった実家のパン屋の食パンが1番美味いのだ。

もうすでに知っていること、
いつでも思い出せること、
何度目かも分からないようなことが、
改めて良いと思う。

オトナになったなと、僕は思うのだ。

そして絶対に美味いものを目の前にした時でさえ、そんなことを、分かったような口ぶりで、「美味いを科学してみよう。」などと、考えなければいけないほど、オトナになってしまったのだな、とも思うのだ。

結局、他人の言うことを鵜呑みにすることなど出来はしないのである。
けれども、圧倒的な「肉」、それも赤と白の調和が存分にとれた原始以来の極みの前では、
オトナもコドモ皆無力化するから、
お肉はすごいのだ。

僕はそれが言いたいし、それが食べたい。
家の近くの焼肉屋さんは、どうやらスゴイらしいのだ。

そんな焼肉屋さんとその外に置いてあるメニューを横目に、仕事の帰りの空腹を紛らすためにさっき買ったセブンのから揚げ棒を食べ歩きながら、
考えたことなどこの程度なのだ。


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