無職と世界の関係、意味をつくりだすオウム

最近無職の仲間とお話する機会をいただいて、人間として健康的な状態になりつつある。感謝です。ちょっと前まで、人から関心を向けられること自体がなによりの苦痛だったんだけど、最近少しずつマシになってきて、好奇心で世界との関係を繋ぎとめつつ全体的なウェルビーイングみたいなものも感じれるようになってきたと思う。僕の脳は「AだからB(野菜を食べると健康になるから食べる)」といったことに対しては反応が良いのだが、「IHRERHAだからHJTSERAE(人間は社会的な動物だから人と話す必要がある)」みたいな複数の変数が絡んでてぐちゃぐちゃな概念を無理やり抽象化してわけわからなくなってるのになぜか機能している謎の言語に対しての反応がめちゃくちゃ悪くて、だから全体的にウェルビーイング感がわからなかったんだけど、なんとかパズルの端っこからつなぎ合わせていたら、最近少しずつ全体像が見えてきたって感じです。全く関係のない断片かと思ったら、意外とその全体の重要なピースだったりするのもんだな、ということもたまに起こるので、好奇心は大事だなと感じる。

社会との立ち位置について考えたことはあったけど、結局何もわからなくなっちゃって、さっき僕が所属しているニートマガジンの冊子を見たあとも「そもそも社会って何を指しているんだ?」という感想しか出てこず、そういう社会との対比として考えること自体向いてないんだろうな、と感じる。なんだけど、まぁだいたいこれ言ってたら「ん?」とは言われないだろ、みたいな関連の情報をチョイスして話の場を進展させることはできることもあるので、そういう時は喋れるオウムになった気持ちになって「ピヨピヨ!ニコニコ!(???)」みたいな感じになってしまう。「なんか可愛く鳴けたけど、人間が笑っている理由がわからないぞ!てか鳥かごから出して!俺飛びたいんだけど!」みたいな気持ちになる。なかなか人間的に会話するのが難しい。けど、オウムになるのも悪くはないし、人間である必要もないんだけどピヨな。

ということで、僕が無理やり社会との位置としての無職という立場から冊子の内容を書くとしたら何を書くかな、って考えてたら、「AとBの関係」という話を主軸にするほかないな、という結論に至った。例えば、ベットで寝て気持ちよくなることと無職であることは、どのような関係なのか?という話。別に無職でも働いてる人でもベットに横になったら平等に幸福ホルモンが分泌すると思うんだけど、それがどのくらい差があるのか?オフィスワーカーよりも、肉体労働よりも、好きな時間運動に最適な時間を費やせるというメリットがあるし、好きな時間に寝れるので、ベットとの相性は働いている人よりもいいかもしれない。「職場のストレスがない」と捉えるのか「無職であることの漠然とした焦りがある」と捉えるのかで、ベットで完全にリラックスできるかは決まるだろう。では、太陽の光との関係は?光をどのように見るか、どのような意味として捉えるのかは信仰などによって違うと思うけど、この太陽の意味付けをどのように行うか?あるいは行えるか?「社会的な機能(労働の始まりの象徴)」ではなく、もっと自然な、個人的な意味を見出せないか?太陽とダンスを踊ることは、社会的な文脈とかけ離れた生活をしている人の特権である可能性はないか?

…これを全て文章にしだしたらキリがないことに気づいたし、そもそも無職との関係で捉えずに、自己の精神との関係で捉えたらいい話に聞こえてきた。でも、僕がしたいことがなんとなくわかってきた。この世界って意味のないことにあふれていて、だからみんな「社会的に」という文脈からでしか世界を捉えられなくて、あるいはそれ以外の方法がないと本気で思ってる感じがして、それに対してのアンチテーゼとして、「いやいや、人間と関係のある物理現象って、他にもいろいろあるよ?」って言いたいんだと思う。言語を使えないからぷいってするんじゃなくて、「言語が使えないなんて、純粋でなんて美しいんだろうか!」という気持ちを取り戻したくないですか?僕は結局、言語を使わずに世界を楽しむのが一番気持ちいいってことに最近気づいて、それをうまく言語で伝える方法ってないかなーって考えてます。

「いや、お前オウムやん」ってよく言われるんですが、可愛いから最近はいいやってなってきてます。「オウムやん」がどういう意味か受け取り手側も伝える側もわかってない感じがしているので、今オウムではあるんだけど、パソコンのキーボードにむかって文字が打てているっていう素晴らしい状態だねって感じです。意味によってつくりだされた謎の概念が僕だったんだなって気づきました。

最後に、最近本で見て感動した美術作品を貼っておきます。水彩画や油絵の世界に住みたいし、自分の精神を遠近法で捉えたい。今考えていることは、どう溶かせるか?どう位置づけられるか?溶かしたり位置づけたりするプロセスそれ自体に報酬を感じれるくらい内的感覚と向き合えるか?双方の関係はどれくらいフレンドリーで動物的か?知覚可能な範囲から飛び出すには、問いを積み木のように重ねていくほかない。






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