森鴎外とスペイン文学
「森鴎外」と言うと、衛生学を学ぶためドイツへ留学したことが、有名だが、その途中、スペイン語の勉強を始めている。明治18年11月24日「始て雪ふる。医師ヰルケWilkeに就いて西班牙語を学ぶこと此日より始まる。」と認めている。J. Schilling教授の "Spanische Grammatik" という文法書が遺品の中にあるようだ。直接法現在のあたりまで書き込みがあるらしいが、その後、どの程度まで習得したのかは、不明である。当時、ドイツではロマン主義興隆のさなかで、スペイン黄金時代の劇が流行していた。レクラム文庫の中にそのドイツ語訳もあったようで、帰朝後、新聞に連載を開始したのが、「調高矣洋絃一曲」と題したPedro Calderón de la Barcaの名誉劇「サラメアの村長」の訳であった。時代は下るが、満州事変において日本を強く非難したスペインの外交官、満州のドン・キホーテと渾名された Salvador Madariagaが「情熱の構造―イギリス人、フランス人、スペイン人」の著作の中で、スペイン人を「走ってから考える人々」と呼び、その背景にあるものとして、"honor" (名誉)を指摘している。立場により異なる「名誉」、「血の名誉」と「貴族の名誉」の相克とフェリペ2世による大岡裁きを描いたのが、「サラメアの村長」である。鴎外は、エリスの一件を回想し、死刑になったアルバロ隊長に自分の姿を重ねたのではないか。
名誉を重んじる鴎外は、色々な名士と論争を行っている。そのうちの1つに、"Don Quijote" をどう発音するか問題があった。アラルコンの「黒瞳」の名訳を残す上田敏が「ドンキホオテ」と読んだのに対し、鴎外は「ドンギホオテ」として噛みついたのである。
それは、先に挙げたJ. Schilling教授の教科書がそうなっていたから、致し方ない。
しかし、ドン・キホーテは、中国語では、唐吉訶德(táng jí hē déㄊㄤˊ ㄐㄧˊ ㄏㄜ ㄉㄜ)、韓国語では、ˊ돈 키호테と音写されており、中国人の耳には無気音に、韓国人の耳には有気音に聞こえるようだし、実際のところ、ドイツ語の "k" は有気音で発音され、スペイン語の 無気音の "k" の音はドイツ人にとって "gg" に聞こえるわけだから、鴎外に一理がないわけでもない。でも、日本語の "k"も無気温で発音されるので、音声学的には、上田敏に軍配が上がることになろうし、この論争は結局、上田敏の優勢の形で有耶無耶になったようだ。
論争体質の鴎外は、日本の組織では確執を生じやすかったのか、1898年に小倉左遷となっている。1898年というのは、ちょうど米西戦争でスペインがフィリピンを米に譲ることになる年なので、1895年に日本が台湾統治を始めてからの数年は、日本とスペインは国境を接していたことになる。そんな時代、小倉で鴎外は、Baltasar Graciánの「処世神託」をデカンショのショーペンハウエル訳を通じて、「慧語」として超訳している。その原文と独訳、鴎外訳を引く。
文豪が訳した処世術を守ったかのように、日本は時を味方につけ、ロシアを破ったが、それが運であることを忘れた民衆とそれを煽ったマスコミにより、破滅の道を歩んでいくのでした。
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