森や街で暮らすことを選択して二拠点で過ごすようになり、こちらの時空では半年がすぎました。それぞれ御縁頂き、ありがたいことです。
街の暮らしでは、わたしの部屋はカーテンの必要性がなんとなく感じられず、入居してからずっと付けていません。なので午前から昼間にかけて、お日様がピッカーン!と、降り注ぎます。肌寒くなった今頃でも、ぽかぽか陽氣に包まれて、鳥たちの囀りや歌声を聴いています。とっても、あたたかい。むしろ、じりじり焼けるんじゃないかしらっていうくらい。
こうして、誰しもに、対等に、無条件に、日々毎瞬間、おしみなく、エネルギーが注がれている。受けとるとか、受けとらないとか、関係なく、です。これって、当たり前に感じすぎて、きづくこともなかったです。そんなことに、きづいたとき、ふわっとするね。
心身が疲れているとき、ヤサグレるし、なんもかんもが、どうでもよくなったり、羨ましくなったりして他人軸な自分が嫌になったり、もぅ、なにかわからんけどやめたくなったり…。
きぶんが落ち込む、自分の周波数が低くなったとき、「あぁ、落ちてるな」ときづいたり、して。
お風呂で半身浴(お酒、塩、エプソムソルト、発芽玄米の水、ハーブティーなど入れる)、海で波の音や潮の香りに漂う、夏は川や海で遊ぶ、寝る、美味しいものや好きなものを頂く、ピンときたことを探求追求する。わたしの場合、「料理教室森田」で學び、実践、体感すること、音楽(クラシック、ホーメー、ロック、ポップス、歌謡、自然の音など幅広いジャンル)、瞑想など静寂を深める、閃いたことを具現化して遊ぶ。なんでもええねん!心から清々しく、心地いい、きもちいいことをする。とにかく、したいこと、やりたいことしかしない。会いたい人にしか会わない。好き嫌いかかわらず、自分を整えるため。
唐突ですが、わたしは、接客業をしていたこともありましたが、14年ほど子どもたちとかかわる仕事をしておりました。わたしはその子の置かれている環境、醸し出される雰囲氣、纏っているもの、バックボーンなどをなんとなくですけれども、感じるところがあって。それは、しようとか、やろうとか、しなくても。わたしの状態が整っていると、純粋に真っ直ぐみることができます。が、「何とかしてあげないと」とか思いを付着させちゃって、わたし自身の水が濁っていくと、「きづいているのに、なんにもしてあげられない」、「力になってあげられない」と、勝手に罪悪感や無価値感を感じてしまうことが、多々ありました。相手にとっても自分にとっても、なにその想念、思念、思いは重い…。現場にいたときは、一日8時間以上30人以上の人と、物理的、精神的、身体的にも距離をとることもはかることも、あまりできず過ごす日々。子どもたちと自由に遊んでいるときは楽しかった。それ以外は、なんかわからんけど、ただただ、しんどい比重のほうが多かった。
あと、家のこと。家族は、からくり、仕掛けみたいなものと当時は思っていたので、「なんとかしないと」、「わたしが頑張らないと」と動くことで、歯車が回ると思っていました。家族のことは好きでしたけれど。今となっては、過去生の話ですけれども。まぁ、必死でした。わたしは、そうしたくてそうしてましたし。どんな環境、境遇も、自分で選んで来てるでしょうし、責任を果たしたかったのだと思います。なんやかんやで、おもろいこと、おもろい人ばっかりやったなぁ。
こんな最中も手伝って、人との物理的距離感をとるというのは、わたしにとっては、とても大事だったんだなぁと、感じています。
あとは、ピンときたもの以外は、みない、聴かない、触れない。これは、取り入れやすい。嫌なことは避けることが容易いし。好んでいる人の書物、発信であっても、ピンとこなければ、みない触れない。
わたしの家族、パートナー、パートナーの家族との距離も。みえないところでいえば、ご先祖様や親戚のみなさまもまた、然り。さまざまな観点から、感じたいものです。
どうにもならないこと、葛藤、矛盾、喜怒哀楽の感情、悪いことや正義などの二次元のこと、物質主義な三次元のこと、悶々鬱々としたこと…。日々、さまざまなことを瞬間瞬間、感じてるのかもしれない。そのことでいっぱいにしちゃうとか、執着して、どうにかしようとしてまた、囚われたり…。
過去世でも、現世でも、人から受けた言動もしくは、自分がした言動で傷つけたり傷ついたことは、なかなか赦すことが困難かもしれない。ただ、その執着、思い込み、罪悪感、無価値感、優しさや寂しさの隙間(魔)が好物だと付け入り喜んで付着し続けるという…。そうしている自分にきづいても、それが赦せなかったり。赦せないのがあかんわけでなく。赦せない自分をも、また、赦していく…。そうして自分で自分を、癒やしていくことは、この地球で生きる課題やなぁ。
そして、いかなるときも、支えてくれる人、無条件に受け入れてくれる居場所は、瞬間瞬間に、あるんですよね…。それが、しんどいとしか感じていなかった場所であったとしても。こうすればいいという答えなんてなくても、生きていても肉体がなくなったとしても、きづきや學びは、そこかしこにあるんやも。ああだこうだ、面白いですね。しかし、ありがたいものです。成長、進化できるものですもの、人は。
長々と書いてしまいましたが、これらもまた、ありつづけるわけでもなく、無くなることもない。空(くう)。
月満ちる昨日は、枇杷の葉、真菰、松の葉のティンクチャーを仕込みました。植物たちそれぞれのエネルギーを頂いて、おかげさまで健やかにすごせています。
植物たちはわたしが手を使うことで、力を与え、与えられている。と同時にわたしは植物たちから、与えられ、与えている。受動だけ、能動だけでない、循環している∞
創った数珠玉の首飾りを付けて外へ出掛けている。そうしたら、また、数珠玉に巡り会えたり…。嬉しい再会。
大阪で創った器がほんと、素晴らしくって!器をみつめながら、唸りました。ええ、自分で創ったものです。先生方のお力添えあって、ありがとうございます。しかし、自画自賛であります。
鉢植えには根を挿した葱が食べ頃やなぁ。バジルは白い花を咲かせてる。このお花もバジルの味するんよなぁ。日野菜蕪、フェンネルはアブラムシをつけながらも、すくすく大きく育っている。白菜は苗が大きくなったら、畑へ植えよう。森の畑は、どうだろうな〜。畑をもう少し広くしたいなぁ。雪対策、準備するもの諸々あるなぁ。これまでかつて、みたことのない雪景色。どんなだろう。
心身軽やかに動くって、きもちがいいなぁ!たのしいなぁ!うれしいなぁ!
巡り巡っていくって、ええなぁ⚪
お読みいただき、ありがとうございます。 とても励みになります! みなさまから頂いたエネルギーを巡らせていけるよう、精進してまいります!